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走り書き「新刊」読書メモ(2)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(97.4.30〜7.9)

村上龍『ヒュウガ・ウィルス』三木成夫『人間生命の誕生』星野芳郎『インターネットの虚像』
久住昌之+加藤総夫『脳天観光』中島義道『うるさい日本の私』青木雄二『さすらい』
☆土屋賢二『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』吉本隆明『僕ならこう考える』☆西研『ヘーゲル・大人のなりかた』
宮崎学『突破者』俵万智『チョコレート革命』金井美恵子『軽いめまい』
野地秩嘉『エッシャーが僕らの夢だった』野口悠紀雄『シンデレラのパソコン「超」活用法』小山慶太『道楽科学者列伝』
吉田裕『ジョルジュ・バタイユ ニーチェの誘惑』野村一夫『インターネット市民スタイル[知的作法編]』藤田紘一郎『原始人健康学』
村瀬学『ことわざの力』伏見憲明『<性>のミステリー』山川健一『マッキントッシュ・ハイ』
竹下節子『ジャンヌ・ダルク』インターネット弁護士協議会(ILC)『ホームページにおける著作権問題』樺山紘一『肖像画は歴史を語る』
鶴岡真弓『装飾する魂』白洲正子『白洲正子の世界』桑田禮彰『フーコーの系譜学』
柴谷篤弘『われらが内なる隠蔽』山田花子『自殺直前日記』養老孟司『臨床哲学』

 村上龍『ヒュウガ・ウィルス』(1996年5月8日第1刷発行・幻冬社)は、小説。第二次大戦末期に日本軍が本土決戦を敢行したという設定で、その結果本土は焦土化し、連合国、ソヴィエトに分割統治され、旧日本軍の残党がアンダーグラウンドと呼ばれる地下戦闘国家を形成して、現在でもゲリラ活動を繰り広げている。こうしたSFじたてのパラレルワールドが、『五分後の世界』(幻冬社)の舞台だったが、この作品も、同シリーズもの。九州東南部に位置するビッグバンと呼ばれる地区で凶暴な新種ウィルスが発見され猛威をふるう。国連から極秘の依頼をうけたアンダーグラウンドの細菌戦特殊部隊が現地に直行するが、CNNのフリーランス・ニュースキャメラマンのキャサリン・コウリーは、偶然の経緯で、同行を許される、、、。太い筆で一気に書き下ろされた、スピード感のある一筆書きのような小説。新種のウィルスの脅威をもりこんだ小説のひとつとして読まれるのかもしれないが、類書にない著者のメッセージは直截。

 三木成夫『人間生命の誕生』(1996年8月5日初版発行・築地書館)は、今年で没後10年(87年没)になるユニークな解剖学者の、講演、評論、書評などを集めた本。著者はクラーゲスのリズム論やゲーテの形態学を独自に消化して、ユニークでダイナミックな生命論、自然論を体系的に構築した、希有な解剖学者。これまで単行本化されていなかった長短様々な文章を集成して章だてにした本なので、やや統一感に欠けて読みにくいが、著者のちょっと比類のない生命観、自然観の概要を知るには格好の本。『胎児の世界』(中公新書)などもお奨めです。著者については、『三木成夫の生命の思想について』という、やや古い一文も掲載してみました。

 星野芳郎『インターネットの虚像』(1997年5月31日初版第一刷・技術と人間)は、高名な技術評論家によるインターネット批判の書。情報化社会やインターネットのもたらす影響が、技術的側面を中心に広範に批判的に論じられている。「1970年代以来、製造業の空洞化による経済停滞に追い込まれたアメリカは、レーガン大統領により軍事・宇宙産業へ大きく傾斜し、「強いアメリカ」の再来をめざしたが、それに失敗したために、次にインターネットをテコとして情報スーパーハイウェイを展開して、さらに全面的な光速投機経済の渦中に世界を巻き込むほかに、生きる道はなくなった」(あとがき)という現状分析にたつ。日本人は、世界と不得意な投機の場で渡り合うよりも、得意分野である地味なモノつくりに徹していたほうがよいのでは、というのが著者の提案。インターネットを経済や技術文化など広い視野で考えたい人にも参考になります。
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 久住昌之+加藤総夫『脳天観光』(1996年12月30日第一刷・扶桑社文庫)は、現役の脳の研究者と漫画家による、楽しい脳研究の解説本。90年から1年間、週刊「SPA!」に毎週連載された記事がもとになっていて、92年に単行本として出版された『脳天記』の文庫化だが、大幅な加筆、訂正が行われていて、「脳科学」の最新情報に対応している。この本の魅力は、脳をめぐる様々な興味深い話題について、きさくな対談形式で進められていく、加藤氏の歯切れのいい丁寧な解説にある。オリジナルな論文にもあたらずに書かれたような、安易な「脳ブーム」本、素人には理解不能な知識を天下り的に押しつけたような本を、著者は批判する。「今まで何を読んでも脳が理解できなかった人にこそ、本書を薦めたい」とは、著者の、あとがきの言葉だが、私も読み終えて、おおいに趣旨に同感。新聞紙を工作して脳のモデルをつくる方法が書いてあって、なかなか不気味で楽しい。

 中島義道『うるさい日本の私』(1996年8月15日初版発行・洋泉社)は、「音漬け社会」に対する戦闘記。現代の日本社会では、家にいても町中に出かけても、様々な騒音公害から逃れられない。著者は、敢然として立ち向かい、即座に抗議に出向く。そのエネルギーたるや半端ではなく、対象は、竿竹売りの拡声器の音声から始まって、路線バス、電車の過剰なアナウンス、デパート商店街の騒音、美術館やホール、役所のアナウンスに至るまで、その赴くところ、場所と相手を選ばない。口答での抗議、議論、電話や手紙による執拗なフォロー、ほとんど確たる手応えはないが、それでも家族友人から煙たがられながら、著者の飽くなきチャレンジは続く。著者の情熱には圧倒させられ、その言わんとするところ(「察する」思いやり社会の美学から、「語る」個人尊重社会の美学への脱皮の必要性)も分からなくはない。しかし、ここまでやるか。騒音を論じているようで、「世間」(規範意識)を論じている、過激な体験に裏打ちされた、出色のテキスト。

 青木雄二『さすらい』(1997年6月19日第1刷・マガジンハウス)は、「青木雄二傑作集」と副題のある漫画単行本。「ナニワ金融道」の週刊誌連載と同時期に書かれた短編作品4編と3編からなるシリーズ作品「悲しき友情」が収められている。熱烈な共産主義者、唯物論者で、ドストエフスキー、ボードレールの愛読者でもあるという著者の思いが、そのまま作品に投影されていて、見(読み)ごたえがある。私が知らないだけかもしれないが、コミックの世界で、こういう作風はあまり類例がないように思える。短編「邂逅」のシチュエーションを追っていて、手塚治や大島弓子が『罪と罰』の漫画版を描いていたのを思い出したが、自分の頭のなかでいったん練り直して、現在の日本社会に移しかえる手続きを経ると、原作のエッセンスが、こんなふうにもなるという好例。著者は真摯な自分の主張をそのままダイレクトに主人公に語らせて、しかも聴く耳を持たない民衆に背かれる様子を描いている。この場違いな、痛々しい、すれ違いの場所。青木雄二著『ゼニの人間学』の感想文へ。
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 土屋賢二『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』(1996年2月10日第1刷・文芸春秋)は、「日本初のお笑い哲学者」(柴門ふみ)によるユーモア・エッセイ集。ひたすら読者を笑わせる目的で書かれたと思われる、どのエッセイも確かにおかしい。あまりにおかしいので、その理由を知りたくなって、あれこれと考える。とすれば、読者をして、自由な思索の世界に引きずり込むという著者の深謀遠慮が達せられたのではないか。読者は、文字を読むことが、これほど不自由なことのように感じられることは滅多にないかもしれない。文意を追って意味に到達したとたんに、著者のレトリックの術中にはまって思わず苦笑している自分を見いだす。著者は、いかに人間の普段の生活や言動が、自己中心的で、尊大な思いこみや、論理的な矛盾に満ちているかを明らかにするが、きわどい他者への否定を自分への否定で相殺して、嫌味のない軽やかな笑いで包んでいる。優しい人だと思う。

 吉本隆明『僕ならこう考える』(1997年6月15日初版第1刷・青春出版社)は、編集者の用意した問いに答案する形で書かれた、語りおろしの人性論。劣等感、恋愛、人間観系、幸福感や、老いや死についてなど、人生相談室みたいな問いの項目に対して、著者の考え方が率直に披瀝されている。どこを読んでも、原則的、原理的ということが、感受性の自然な発露と一致するまで、鍛えられた資質、というような印象は変わらない。論理が情緒の世界を律するというのが、ある意味で知識(人)の思考の類型だとすれば、著者がそこから免れているのは、情緒の世界から原則を汲み上げて我が物にするという逆のプロセスを辿る長い修練を積んできたからだと思う。ただ、情緒の世界の典型というイメージがもうわからなくなってしまったところでは、思いこみの激しい頑固親父みたいな顔を晒す他はないのかもしれない。市民社会の公共性の在り方と個の在り方の違い、その倫理の在り方の違いに、著者は原則的な区別を立てている。最近の、著者に対する多くの批判は、その違いを認めない(了解できない)ところからくるような感触を持っているのだが。

 西研『ヘーゲル・大人のなりかた』(1995年1月20日初版第1刷発行・日本放送出版会)は、ヘーゲル哲学の親しみやすい解説書。表題の「大人になりかた」という言葉には、自己発展してゆくヘーゲル体系自体の意も込められているという。私がヘーゲルを読みかじったのは随分以前のことで、私に鮮烈な印象を与えたのは初期ヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』だったが、著者の「驚く人もいるかもしれないけれど、若きヘーゲル、ニーチェ、ポスト・モダニズム、この三者はまっすぐにつながっている。」という評価に共感できて嬉しくなった。あとは『精神現象学』の自己意識の章の、暗い観念の影絵のような劇。私には、そんな程度の印象しか残っていないが、この著は、ヘーゲルの哲学体系全般を扱っていて、ポストモダン以降の状況のなかで、個人と共同性との架橋という困難な問題のヒントを、ヘーゲル哲学の考え方(態度)の中からくみ取って、現代に生かそうという柔軟な問題意識に貫かれている。西研さんの著作目録のある、田原さんのHome Page「ぐーたらくらぶ」へ。
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 宮崎学『突破者』(1996年10月20日初版第1刷発行・南風社)は、1945年に産まれた著者が戦後50年にわたる半生を綴った自伝的な本。やくざの組長の家に産まれ、いっぱしの不良として過ごした青少年期、日本共産党の秘密学生組織を現場で束ねて「早大闘争」や「東大闘争」に関わった学生時代、週刊誌の突撃記者時代、土木建設会社(解体屋)の過激な資金繰り経営と倒産、バッタ屋の用心棒、バブル期の地上げ屋。著者の半生は、戦後社会の裏側と表側の境を縫うようにして走っている。とても面白く読んだ。面白すぎて、アウトローの仲間うちの武勇伝を読まされている感じさえしてくるが、終章近くのバブル経済の演出や暴力団対策法などにみられる近年の政治行政の流れへの批判など、世間や現実の人間をしっかり見据えた確かな洞察も読みごたえ充分。「突破者」とは、無茶者、突っ張り者の意、という。

 俵万智『チョコレート革命』(1997年5月8日初版第1刷発行・河出書房新社)は、『サラダ記念日』からは10年ぶりの歌集。「抱かれることからはじまる一日は泳ぎ疲れた海に似ている」「水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う」。恋愛、それも不倫の恋愛心理をうたった短歌が多いのが印象的。あとがきによれば、歌集のタイトル「チョコレート革命」は、恋には、大人の言葉なんかいらない、と、甘く苦い反旗をひるがえす心情を歌った「男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす」という作からとったとある。では、作者のいう、大人の言葉ではない男の言葉とはなんだろう。集中から二首。「年下の男に「おまえ」と呼ばれいてぬるきミルクのような幸せ」、「「不器用に俺は生きるよ」またこんな男を好きになってしまえり」。ううむ。

 金井美恵子『軽いめまい』(1997年4月8日初版第1刷発行・新潮社)は、現在の都市の生活感性の紡ぐコトバの世界のとめどなさを満喫させてくれる小説。東京のマンション住まいの小学生と幼稚園児2人の子供がいる一家の専業主婦が主人公で、彼女の平穏だがそれなりに起伏のある日常が、たんたんと綴られていてドラマみたいなものは全く起こらない。起こらないが、随所に、著者独特の辛辣で切れのいい心理分析や人物評が織り込まれていて、吉田健一風の長文の魅力に読者もつい「軽いめまい」に誘われる。当初からこの小説のために書かれたという「ラブユートーキョー」展(荒木経惟、桑原甲子雄の写真展で、偶然、私も見ました)の解説文が挿入されていることもあり、著者の事象の表層への愛やこだわりに、ふとバルトの『明るい部屋』(みすず書房)を連想してしまった。
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 野地秩嘉『エッシャーが僕らの夢だった』(1996年10月15日初版第1刷発行・新潮社)は、エッシャーの美術作品の日本での紹介や展示に関わった人々に照明を当てた、異色の物語風の人物群像ルポルタージュ。エッシャーのだまし絵を見ると既視感に襲われる。その理由が「少年マガジン」の特集にあったのかもしれない、という驚き。著者はオランダにも足跡を尋ね、日本の美術展の実情などにも丁寧に触れていて、しっかりした取材の裏付けのある読み物としても面白い。エッシャーに関心のある人には、最適な参考文献もの。私も真似してこんな絵を描いたことがあります。

 野口悠紀雄『シンデレラのパソコン「超」活用法』(1997年5月23日初版第1刷発行・講談社)は、ベストセラー『「超」整理法』(中公新書)の著者による、パソコン入門書。文中に、阿川佐和子さんのコラムや著者との対談も盛り込まれていて、これからパソコンを始めたい、という女性読者を意識した分かりやすい内容になっている。。スケジュール管理やメモや名刺管理にパソコンを使うべきではないという傾聴すべきアドバイスや、料理のレシピの登録されているHome Pageなどの紹介などもあり、パソコンのホームユースを考えるむきには実用的。

 小山慶太『道楽科学者列伝』(1997年4月25日初版第1刷発行・中公新書)は、生まれながらにして富と才能に恵まれ、思う存分に知を探求して生きた人々の列伝。ニュートンの『プリンキピア』を仏訳したシャトレ侯爵夫人、『博物誌』を書いたビュフォン伯爵など、6人の「科学者」たちの生涯が紹介されている。「職業と無縁なところで知に入れあげ」ることの出来た、スケールの大きな知のディレッタントたちの生涯を飾る様々な逸話を、著者の暖かくて嫌味のない文章で、気楽に楽しむことができる。『異貌の科学者』などの著作もある著者の小山氏は、書き下ろしながら、今回ほど採り上げた人物たちを羨ましいと感じたことはなかったと、あとがきに書いている。同感。
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 吉田裕『ジョルジュ・バタイユ ニーチェの誘惑』(1996年7月25日初版第1刷発行・書肆山田)は、バタイユの8編のニーチェについて書かれた文章の翻訳と、著者のバタイユ論が収められた本。ニーチェの思想は、ナチやイタリアのファシズムに利用されたが、バタイユは、当時そうした理解に導いた思想家、哲学者たちを、ニーチェの著書に即して、激しく批判すると同時に、生涯を通して、独自なニーチェ像を書き残していた。ユニークで巨大なフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの、ニーチェ読解の経緯をつぶさに辿った研究書として貴重な本。本稿初出の詩誌「ブービートラップ」を発行されている清水鱗造さんのShimirin's Home Pageへ。

 野村一夫『インターネット市民スタイル[知的作法編]』(1997年2月15日初版第1刷発行・論創社)は、「知性派ネットワーク初心者に捧げる」、オンラインな市民生活への招待状。システムづくりから情報収集のノウハウまで、とても分かりやすく、すっきりとまとめられている。しっかりしたコンセプトのもとに、社会学、公共問題、教育文化関連等の情報収集に適した、商業ネット(Nifty)のフォーラム、インターネットのウェブサイトなど、豊富なリンク先のアドレスが、簡明な解説とともに紹介されていて、とても実用的。著者は社会学者で、何と、この著書の全文は、野村さんのHome Page「SOCIUS(ソキウス)」でも公開されている。私は書店で求めました。

 藤田紘一郎『原始人健康学』(1997年4月25日発行・新潮選書)は、日本人の健康問題について論じた本。著者は日本人が寄生虫との共生を断ったために、花粉症をはじめとするアレルギー症で苦しみはじめたというショッキングな指摘をした『笑うカイチュウ』(講談社)で有名な寄生虫学者。「家畜化した日本人への提言」と副題にあるように、さまざまな現代日本社会の衛生環境上の諸問題や、過剰な衛生・健康志向ブームの「あぶなさ」を、ユーモアをまじえながら、学者として真面目に説いた本。最近の調査では、日本の子供の血清総コレステロール値がアメリカの子供を追い抜いたという。ううむ。
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 村瀬学『ことわざの力』(1997年3月26日初版発行・洋泉社)は、ユニークな構想と視角から切り出された、ことわざの解釈集。著者は、異文化、異言語(方言)が共存していた中世に、「異文化を橋渡しをする発想法」として、「ことわざ」が、広く考案されたのではないか、という。「辞書」的でも「修辞学」的でもなく、身近な風景や風物にことよせた共生の智恵、として読み直される「ことわざ」の解釈は、とても新鮮。今では、ほとんど死語みたいなことわざを再発見する驚きもついてくる。背後には、冷戦後の世界の中世化という状況のなかで、ことわざの中に共生の智恵を見いだそうという著者のスケールの大きな構想がある。

 伏見憲明『<性>のミステリー』(1997年3月20日発行・講談社現代新書)は、「性」についての通念的な常識を柔らかくときほぐしてくれる一冊。セックス(生物学的な性別)、ジェンダー(社会・文化的な性で、著者は、男制、女制と呼ぶ)、セクシュアリティ(ジェンダーイメージをめぐる性欲動)。これらは、個々によって異なる(ジェンダーについては、さらに分割可能なことが示唆されている)。イメージとしてわかったつもりになっていても、男(女)性異性愛者以外の人々を一律にとらえがちな「常識」を、謎解き仕立てで粉砕して、固有な性を生きる「個」のかけがえのなさを考えさせてくれる好著。

 山川健一『マッキントッシュ・ハイ』(1997年1月6日第一刷発行・幻冬社)は、全編マック一色の書き下ろし本(終章のみ『Mac User日本版』に連載されたもの)。小説家でありロックバンドのミュージシャンでもある著者が、熱心なマックユーザーになったいきさつ、これから買う人へのアドバイス、有名ソフトの解説、果ては伝説的なアップル創始者たちのエピソードに至るまで、豊富な内容を、気取りのない、気さくでホットな文章で綴った本。パソコンを始めて、似たような苦楽を重ねてインターネットにたどり着いた初級マック愛好家としては共感。なぜかマックが好きで、これからという人にもお奨めの『伝道の書』です。山川さんのBE HAPPY!へ。
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 竹下節子『ジャンヌ・ダルク』(1997年1月20日発行・講談社現代新書)は、キリスト教の正統と異端という区分を超えた「超異端」(ゴッフ)という視点から、ジャンヌ・ダルクの生涯と中世を読み直す試み。「超異端」という概念が説明不足なのが気になったが、西欧中世における聖女信仰や政治と宗教の関係などの記述は詳細。比較神秘思想を研究をされているというフランス在住の著者は、あとがきで、ジャック・リヴェット監督の映画『ジャンヌ 愛と自由の天使』『ジャンヌ 薔薇の十字架』(ともに94年・仏)を、史実を忠実に再現した作品と書いている。確かに、この本は、かの寡黙な大作の舞台の歴史的な背景やジャンヌの生涯を知るにはもってこいの一冊です。

 インターネット弁護士協議会(ILC)『ホームページにおける著作権問題』(1997年4月15日初版第一刷発行・毎日コミュニケーションズ)は、表題どうり、ホームページの著作権問題に関するQ&A形式の問答集。弁護士、市民有志によって昨秋に結成された「インターネット弁護士協議会(Internet Lawyers Conferance)」に加入している現役弁護士30名以上が参加、類似する判例などを具体的にあげながら、著作権問題に関する指針を、分かりやすいQ&A形式で示している。今の所、唯一の「実用的基本書」といっていいかもしれない。リレー討論、著作権法全文が付いていて、編著者の方々の熱意が伝わってくる。ILCへ。

 樺山紘一『肖像画は歴史を語る』(1997年3月25日発行・新潮社)は、雑誌「新潮45」の表紙絵の肖像画の解説を36回分をまとめた本。画家やモデルについての簡明な小伝が、毎回文中に盛り込まれているので、絵画好きの人にも歴史好きの人にも、安心して勧められる。著者は西欧中世史全般に詳しく『西洋学事始』(82年・日本評論社)など著書多数。肖像画の写真が毎回掲載されているのも丁寧で読みやすく、装丁の黒いカバーデザインも美麗。雑誌表紙絵の解説ということもあり、取り上げられているのは名の知れた肖像画が多いが、その時代と人生にルーペをあてたような、歴史こぼれ話が愉しい。欲を言えば写真全てをカラーで。
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 鶴岡真弓『装飾する魂』(1997年4月20日初版第一刷発行・平凡社)は、雑誌『太陽』に連載されていた美術随想の集成。世界の歴史的な美術文化の遺産から、人類共通とも思える代表的な紋様を、渦巻、唐草といったモチーフごとに15種類比較紹介した本で、これまで西欧美術史、とりわけ古代のケルト美術関連で密度のたかい仕事をされてきた著者が、この本では、日本の美術史を飾る装飾的紋様を中心に、縦横自在に論じている。装飾美術の世界は、細やかで愉しい発見に満ちているが、こうした豊かな学識と文才を合わせ持つ書き手の紹介によって、いっそうその魅力が引き立つように思える。この本も欲を言えば、鮮明なカラーの図像写真が、この10倍くらい欲しい。

 白洲正子『白洲正子の世界』(1997年4月16日初版第一刷発行・平凡社)は、グラビアと引用文を多用したビジュアルな人物ガイドブック(B5変形版)。骨董、旅行、交友関係など、多様な側面から、個性的な著者の仕事や趣味の世界とその軌跡に光が当てられていて、インタヴューや年譜や書誌もついている。おりにふれて著者の能や骨董や古典文芸についての随筆に親しんできた読者には、こういう軽くて爽やかな本も魅力。彼女のような個性的な「美」の探求者は、いつの時代にも希少だろうが、今後はますます。

 桑田禮彰『フーコーの系譜学』(1997年4月10日初版第一刷発行・講談社)は、とかく(「フーコー自身の示唆に従って」)、ニーチェとの連続性ばかりが強調されがちなミシェル・フーコーの哲学思想を、ベルクソン、サルトル、という系譜の中で捉えかえす試み。『時間と自由』から『性の歴史』に至る、それぞれの著者の主要著作11点について、丁寧な解読が施されていて、時系列的につきあってゆくことができる。現在の哲学と一般読者の断絶(哲学の秘教化、論争のジャーゴン化)を解く鍵は、「誤読」を恐れず、人畜無害の注釈者に留まらない、強烈な自己のプリズムをもった、「哲学ジャーナリズム」の構築にある、と著者はあとがきで書いているが、それは、そのまま本書の意図と姿勢を語っているというべきだろう。
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 柴谷篤弘『われらが内なる隠蔽』(1997年2月25日第一刷発行・径書房)は、様々な文化領域で行われてきた「隠蔽」を横断的に扱った本。著者は『反科学論』『構造主義生物学原論』などの著書のある生物学者で、科学批判を中心に著書多数がある。本書は、専門外の領域に「しろうと」として踏み込んだものとあるが、「比較隠蔽学」的な主題の広がりや、論述の手法は半端ではない。第一部で戦争芸術(絵画と詩歌)、第二部ではシベリア出兵、出版、部落解放、天皇制、大学、西欧文明、といった個別のテーマが取り上げられている。隠蔽には、悪を克服するための隠蔽(歴史・文書の改竄)は許されるのか、という微妙な問題があるが、著者はそうした許容を、日本的な一元的思考として退けている。

 山田花子『自殺直前日記』(1996年6月3日印刷・太田出版)は、24歳で投身自殺した漫画家の遺稿集。本当は、心は牢獄で、自由を感じるためには心をそよがせておける場所がなくてはならない。関係の心は相互規定的だから、他人から浸食されたら自分も他人を浸食するように働いてしまう。そのことがとても恐いし、そうなる自分も嫌いだ。波風がたたないように演じると、不自然さを見抜かれて、どこまでも、弱みにつけこまれてしまう。小さい時から、すこしだけでも自分をそよがせてくれる場所があったら、きっと、たちむかえたのに、、。

 養老孟司『臨床哲学』(1997年4月10日初版第一刷発行・哲学書房)は、思索的なエッセイ・評論集。この10年ほどに雑誌に掲載された文章で、単行本未収録のものを集めた、とあとがきにある。これまでテーマ別に単行本化されたものの抄録としても読める、ともあるように、『唯脳論』(89年・青土社)以降の、数十冊に及ぶという著作の山に迷い込まずして、著者のその後の思索の足どりやテーマの広がりが望見できる一冊になっている。著者は解剖学者(臨床医学者)として、哲学者に、存在論を問うまえに、個人としての現実感「お前にとって現実とは何か」を尋ねたい、というのだが、それが表題の造語「臨床哲学」の由来らしい。こういう著者の切り口、語り口は軽妙で、いつも「脳」が悦ぶ
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