読書感想
1、ブコウスキーの小説
ブコウスキーの小説は、歯切れのいい分かりやすい短い文章と、あざやかな場面の転換のもたらすスピード感と、登場人物たちの刺激的なスラングや言葉が飛び交う劇画みたいな行状の展開と、背景で解説する作者の時折もらす含みや味わいのある言葉との落差からなっている。長く人生の下積みをやっていたものが獲得している経験的な自信や智恵といったものがあって、情況のもたらす過剰な幻滅や苦渋と釣り合っている。外界も身体も彼にとっては、幻滅や苦痛しか与えてくれない。というより外界と身体の苦痛は同じようなものとみなされている。誰もが指摘することかもしれないが、そうした感受には、青年時代に皮膚病に罹患した経験が基底にあるように思える。醜い容貌や肉体的な激痛を理不尽に与えた世界、そういう負性のイメージを不可避なものとして引き受けるところから、すべてが始まっている。
ブコウスキーにとっての飲酒は、象徴的だ。それは嗜好や慰めというより、世界と身体の痛苦から解放してくれる積極的な意味を持っていた。彼に書くという主題がなければ、喜んでアルコール依存症の境涯に甘んじたかもしれない。そのような祝祭のもたらす感覚が異性へのこだわりに重なってくる。あるいは独特の快楽主義を支えるものになる。おそらく、快楽や安逸へのこだわりが、けして病的なものでなく、自分の生存にとって必要で正当なものであることを発見したとき、彼の生活感情の安定した骨格ができあがったのだろうし、そうした自己慰安や快復が普遍的な道筋だと発見したとき、彼の文学の骨組みができあがったのだろう。神は不在でヨブだけが残されている。残されたヨブは生きなくてはならない。自分が生きるために書いた、そういう場所から出発する作家はいるかもしれないが、そういう初志を持続する作家は少ない。確かに希な作家だったと思う。
2、ブコウスキー『くそったれ少年時代』
『くそったれ少年時代』は、著者の少年時代から20歳になるまでを描いた自伝小説である。自伝と言っても、これはかなり奇妙な自伝で、文章の中でいきいきと活躍して、少年時代を生きている主人公がいるのだが、彼の心情の説明をしている、もうひとりの主体がいて、そちらも私ということでは繋がっているのだが、こちらの言葉の質は、とても少年のものとは思えない。こうした物語のような二重性が、映画にでてきてスラングをまきちらし、喧嘩をしまくりという人物と、そのナレーションを引き受けている、人智にたけた「私」が同一人物である、といった独特な魅力ある文体の特色をつくっている。
小説の舞台が青年時代にさしかかって、酒と女と喧嘩ざたに明け暮れる、破滅的な描写のくだりになると、数あるブコウスキーの短編小説の世界と同じで安心もすれば、またはじまったかとも思うのだが、少年時代の描写はさすがに勝手が違って面白く読んだ。戦前の大恐慌がアメリカの中産階級にもたらした影の部分や、ドイツ人移民の子供であることがナチズムが台頭してくる時代にどんな屈折をひきおこすのかといったことなど、一家庭のリアルな生活記録として興味深く読める。
主人公の父親は根っから保守的で勤勉で有能で、俗に言う典型的なドイツ人気質の持ち主のように描かれている。しかしそのような人物が恐慌のあおりで失業を余儀なくされる。不満のうさをはらすために家族に怒鳴り散らし、周囲にあたりちらすようになりながら、決まって9時には就寝するような習慣をやめられない官僚的な気質をもった人物。失職しているのに、近隣に見栄をはって毎朝きまった時間に家をでて仕事をしているふりをしているような人物。ひげそり用のなめし革で息子を叩いたり、土曜にはきまって息子に庭の芝刈りをさせて、刈りのこしがないか執拗に調べるような人物。少年にとっては地獄の毎日で、父親をあしざまにののしっているところもあるが、結局、この父親の不遇をかこちながらもどこかで自暴自棄になりきれない善良な資質めいたものが、この貧しい失職家庭の崩壊も防ぎ、少年の家出も留まらせたといえそうなところまで読者をひっぱってゆく。父親や家族への感謝の思いなど、どこにもあからさまに書いていないが、そのように想像させてしまうところに、著者の文学の力とひろがりがある。著者は少年時代の家庭や学校や社会環境をさんざんなものとして描き、少年時代に自分を見舞った悪性のできものについてヨブのように呪いながら、自分のその後の破滅的行状の理由をそうした環境や不幸のせいにはしていない。自分の心身の内側からわき上がる過剰な生の力のようなものとして引き受けているのが印象的だった。
付記)感想を書くにあたって、チャールズ・ブコウスキー『ありきたりの狂気の物語』(新潮社)、『町で一番の美女』(新潮社)、『くそったれ少年時代』(河出書房新社)、『詩人と女達』(上下)河出書房新社、を参照しました。
95.12
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