詩集の感想
  

荒川洋治詩集『空中の茱萸』






 詩集の中に「海老の壁」という作品があって、その中に、「ぼく(都丸さん)」が書いたという原稿が引用されたかたちで登場する。その文章では、詩集をつくるときに、どんな順序で作品をならべたらいいのか、というアドバイスが書かれているのだが、そこに次のような一節がある。

「ついでにいうと、心地よい「わだかまり」を残す作品をひとつふたつしのばせておくこともたいせつ。その本が好きで何度も読み返すとき、明快な秀作ではなく、ある種のわからなさが漂う作品を、美酒を求めるように、家郷をなつかしむように、人はいくども開いてみるものである。、、、」

 ある詩作品を読んだ時に、「明快な秀作」と感じることもあれば、「ある種のわからなさが漂う作品」と感じることもある。そういうことが確かにあるので、詩集を編む場合、そういう印象を残す作品もとりまぜておくといい、というのは、これまで12冊の自作詩集を上梓し、個人出版社の経営者として、四半世紀の間に230点の詩集を製作・刊行してきた(「みんな「詩集」になった」(『夜のある町で』所収)による)ひとの実践的なアドバイスとして、それなりによく納得できる感じがする。

 でも、この場合、ある詩が、「明快」、「わからない」とは、どういう意味でいわれているのだろう。詩のなかに書かれていることがわかる、といわれる。一方で、現代詩は、難解だとか、よくわからない、といわれる。しかし、一見わからないと思える詩でも、よく読むとわかる気がする、ということがある。確かに、そういう、難しそうだが、何度か読んでみたら、作者はこういうことが言いたいのではないか、と思えてきた、という発見から自分なりの得心に至る道筋が、詩を鑑賞することには含まれているように思う。

 しかし、ここでいわれているのは、そういう意味での難解な作品のことではない。何度読み返しても(つまり誰がどんなに想像力をたくましくして読んだとしても)、「ある種のわからなさが漂う作品」についていわれている。しかもそういう作品が、「美酒を求めるように、家郷をなつかしむように、人はいくども開いてみるものである。」と価値づけられている。つまり、ここでいわれているのは、作品の内容の理解ということとは別の経路で、なぜか読む人に「心地よい「わだかまり」を残す」ような詩についてのことなのである。

 そういう詩はどこにあるのか、といえば、私には、詩集『空中の茱萸』全編を読み終えた印象に重なってくる。よくわからないのはなぜか。それは、わかるように書かれていないからだ。きっとこの詩集で作者が試したかったのは、どんなに想像しても、読者の理解をこばんでしまうような「ある種のわからなさ」を残す作品、それでいながら、読者に「心地よい「わだかまり」を残す」ような作品が、如何に可能か、というようなことではなかったのだろうか。

たとえば、「おとなたちが夜の歯を磨いていたころ」という行で終わる「文庫」という作品がある。この作品について、以下のような感想が抱かれたとしてもおかしくないのではないか。

「ぼくが奇妙に思うのは、ラストの「おとなたちが夜の歯を磨いていたころ」というフレーズである。これでいきなり幕が下りてしまう。そのあっけなさである。彼はこの詩をとおしていったい何を表したかったのか、それを知ろうという矢先に、詩のことばが切れてしまっているのだ。しかし作者は、ここで何ものかを得心のゆく形で表しえているのではないかと感じさせるおもむきが、この詩にはある。そこからの推測であるが、彼はこの作品の抒情の首尾、完成よりも、抒情詩そのもののつくりやおもむきに、熱意をもっていたのではないか。抒情詩としての”無内容”には目もくれぬほど、他の関心があった。それは抒情詩の器そのものに向けられるものであった。その器をテストすることに、新鮮なよろこびをみていたのではないか。」

 種明かしをすると、実はこれは、高祖保の散文詩「海燕と年」を論じた、荒川氏の文章(「「愛された」抒情詩」(『詩論のバリエーション』(學藝書林)所収))の一節なのである。原文では、「おとなたちが夜の歯を磨いていたころ」という「」のなかには、「海燕は音楽のやうに唱ふ」というフレーズがはいっている。荒川氏は、自分が散文詩「海燕と年」から感じた奇妙さ、わからなさの印象の理解として、作品が抒情詩として”無内容”かどうかよりも、「抒情詩の器」そのものに、作者の関心がむけられていたせいではないか、と推測している。

 「抒情詩の器」をテストすることの、新鮮なよろこび。その批評の言葉は、そのまま、『空中の茱萸』という詩集の読後の印象にまつわる、わからなさと、心地よさ(創作することの喜びが伝わってくる感じ)の秘密を明かしているような気がする。もちろん、この詩集で試みられている手法は、読者がこの作品で作者が何をいいたかったのか知ろうとする矢先に、詩のことばをたちきる、というような作品のつくり方に、尽きるものではない。歌物語の変型のように、一つの詩に複数の詩の流れを入れ込んで、自在に交錯させたり、ポストモダン小説のように、話者のレベルをずらして、物語の結構を内部で破綻させたりと、さまざまな「テスト」が行われている。またそういう、わからない詩に対する作者の関心自体は、冒頭の「完成交響曲」をはじめ、いくつかの作品に登場する「わからない他者」の魅力へのこだわり、というテーマにも深く関連しているように思える。ともあれ、この『空中の茱萸』という詩集には、詩の器をテストすることへの、作者の並々ならぬ意欲がみなぎっているように思える。それは、現在の著者の言葉でいえば、以下のような発言に連動することになるだろうか。

「しかしできれば「詩」ではなくて、ひとつの文学作品、ひとつのテキストと思ってもらったほうが、あるいはそう思って書いた方がいいと思うんです。いま詩の話題が詩以外の文学全体に対してほとんど浸透する機会がないわけだから、もうすこし文学全体の世界で、一篇の作品が、ひとつの文学作品として受け取られる、話題にされるということを考えないといけないなと思います。文学全体のなかで話題になる「テキスト」ですね。そのために、自分なりにちょっと頑張ってみようということで、一篇の詩を書く意識ではなく、ただ作品を書くという意識に完全にきりかわっています。」(「荒川洋治インタヴュー「”現実主義”のことば」(「現代詩手帳」2000年3月号所収))

荒川洋治詩集『空中の茱萸』(1999年10月15日発行・思潮社)


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