ウェブで読める詩の感想
  

長尾高弘「良き心を持つ人々よ」について(1)






 「良き心を持つ人々よ」は、清水鱗造さん主宰の詩誌「Booby Trap」29号に掲載予定の詩で、清水さんのホームページ
Shimirin 's HomePage内の「詩に関する談話室」、もしくは、長尾さんのホームページLongtail Co., Ltd.内の、「詩的日乗」にある、ファイルで読めます。ハイパーリンクを快諾していただいた、清水さん、長尾さん、ありがとうございます。




長尾高弘さんの詩「良き心を持つ人々よ」とても面白く読んだ。この詩は、

「何の因果でこんなつまらないものを読まされなければならないのか
という圧力を感じながらつまらないものを書くのは、
辛い。」

という書き出しから始まる。この書き出しがどことなくユーモラスなのは、普通人は詩を書くときには、自分が書こうとする内容のことで頭がいっぱいで、それを読む読者を前もって想像して、これを読んで、どんな反応をするだろうか、じぶんにしてそうなのだから、あのひとにも、きっとつまらないと思われるに違いない、いやだなあ、つらいなあ、などと考えるのは、どうも考えすぎでおかしいと思えてしまうからだ。

しかし、一方で、他人の詩を読んで、「何の因果でこんなつまらないものを読まされなければならないのか」という苦々しい思いを感じる、ということは、いかにも誰にもありそうなことで、そういわれれば、自分の詩もひとにそういうふうに読まれているのかもしれない、と思われてきて、苦笑を誘われる趣もある。ではなぜ、そんなはた迷惑な詩など書いてしまうのか。作者は、自分が書く理由をつきつめて、

「どうしても書かなければならないことなんだ
という理由を見出したときに限って書いている」

という答えをみつけだしてくる。そして、その答えを否定されるのは、自分にとって、「存在理由を断ち切られる」ようなことだと思う。つまり、自分にとって、詩を書くことは、自分本位の業のようなものなのだ、というのだ。

もちろん、これは詩の装飾をはぎとって、私なりに骨子を抜き出してみただけだから、そんなふうに書いていないといわれるかもしれないが、私の勝手な読み解きでは、基本的にそういうことに尽きていると思う。作者が、自分が詩を書く根拠をたどっていって、それを自慰という言葉で呼ぶに至るのは、詩を書き、人に読んで貰うことにまつわる自己本位的なあり方が、どうしても居心地が悪く思えてしまう、という深いこだわりを表しているような気がする。

 ところで、この詩の面白さは、作者が、詩を書くことは、自分にとって自慰なんだ、という結論に至った道筋を、他人にとってもそうだろう、と相当無理をして、拡張してみせていることだ。その無理なロジックや誇張がスリリングでとても面白い。もっとも、面白がってばかりいられない、そこには、詩を安易に書いて発表してしまうことや、それを合理化するために、理由にならない言い訳をしたり、馴れ合い関係になることなどに対する、強い正当な批判が込められているからだ。

 この詩は、書かれてるすべての詩が、つまらないものばかりで、書いている人は自分の詩もつまらないと思いながら、実際つまらないものを書いている、というような、気が滅入るような前提にたって書かれている。そして、その詩を読むすべての人(書き手)も、本当は「なんの因果でこんなものを。。」と内心思いながらも、同病相哀れむの気持ちから、面白い、と言っていることになる。

 こういう前提が、説得力をもつのは、ああ、そういう場面なら、想像できるし、ありそうなことじゃないの、と思わせるからだが、現実には、そういう場面もあり得るということであって、そういう場面ばかりではないのも周知のこと。いわば、作者は、わざと、自分が詩に感動したり、自分の詩が人を感動させたり、どうしても書かなくては、という主観に促されて緊迫力のある優れた作品を生み出したり、という場面を消しているのだ。

 詩を書くのは、いつでも、新しい行為をしている、という意味がある。だから詩を書いていながら、その詩がつまらない、と先験的に断定できる基準なんてあり得ない。ほんとうのところ、詩を書いていて、それが面白いものなのか、つまらないものなのかわからない。自分の関心や集中力、注意力を傾けて、なんだか未完成のわからないものに向かって書く、というのが、実際ではないだろうか。それがたいてい主観的につまらない、と思えるのはできあがってからで、そういうことが多いと、確かに俺は相変わらず下手だなあと思いはするが。。

 そしてあきらかに、主観的にも、できのわるいと思える詩を公表する。この場合ももちろん、できがわるいのだから、「何の因果で。。」という反応は起こり得るが、また時にそうでない思いがけない読み解きに出会えるのも事実で、いわば詩を公表することは、それほど「邪悪」なことではなくて、詩を他人の多様な評価の可能性に開く試みといってもいいのではないか。

 でも、この作者はおそらくそういうことはお見通しで書いている。つまり読者が、そういう作者のレトリックに足をすくわれたり、いろんな想像をして、作者の言い分を吟味すること、そのことで、詩を書く意味について考えてほしいと言っているのである。この作品は、そういう読者に思慮を促す詩として、とても成功していると思う。

 作者はつまらなさの対極に、「初めて書きたいと思ったときに感じた強烈な恍惚(エクスタシー)はどこに行ってしまったのだろうか。」という感慨をおく。そういう詩がかかれなくなったということではなくて、実際には、私たちが、ざっと見て、つまらないと感じる多くの詩作品のなかにも、そういう作品は含まれていると思う。つまり、誰かにとっては、今でも恍惚とともに詩は書かれているので、その結果の作品を、作者の主観とは別に、私たちが、つまらないと見過ごす場合の方が多いだろう。見過ごしてしまう理由には、私たちが一度しか詩の初源と出会えない、ということも含めて、いろんな意味合いが含まれていると思うが、そのうえで、この作者の個人的な詠嘆は、とても共感できた。

註)つまらないもの、とは、こちら側の感受性に触れてこない、というような意味ではないか。このことについては、もったいをつけるわけではないが、次回(2)に。


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