読書感想


ARCH言葉の部屋にもどります!


   

柳美里さんの著作の感想文です


エッセイ『家族の標本』

小説『フルハウス』

自伝『水のゆりかご』



エッセイ『家族の標本』


 93年7月から翌年12月までの間、週刊朝日に連載されたエッセイの集成。どれも独立した短い文章だが、実在する家族をモデルにしたという物語風のスケッチになっていて、抑制された硬質の文体の中に、短編ドラマのエッセンスを読むような味わいがある。一見破綻なく平凡に毎日を生きているような友人や知人、電車や酒場のカウンターで一期一会のように出会い別れる他者たち、著者は、そうした他者たちとのふれあいの中から、その人の背後にひそむ、どきりとするような家族の物語をつむぎだしてみせる。うわべは平和そうだが、内実はとっくに風化している家族。世間的には解体した姿を晒しているが、どこか心情で結びあっているような家族。著者によって、ピンセットでとめられた50ケースを越える「家族の標本」は、どれも固有だが、一様に暗い影をたたえているように見える。「この国に幸せな家族はないのだろうか、」という著者の呟きは、著者自身の家族についての濃密な感覚と重なりあいながら、いつのまにかエッセイを読み進む私たち自身の家族についてのイメージを、少なからず揺るがせはじめるのだ。
 新聞の書評で著者の作品に興味を持って、昨年の暮れに『窓のある書店から』という本を図書館から借り出した。かなり頭の良い人だなというのが、その書評エッセイの読後感だったが、続けて借りた『向日葵の柩』という戯曲を読んで、その暗さや自己を吐き出す表現力の強靭さに驚いた。そのさなかに著者が小説『家族シネマ』で芥川賞を受賞したということを新聞の報道で知った。
 どんな人でも、その人の家族や親族の関係の中で捉えられると、その人固有の雰囲気や世界は、漂白された図式のなかで相対化されてしまう。婚姻まで含めた社会関係の図式にもそのことが言える。図式は思考を様式化してしまうから、世界はひどく単純で秩序めいたものになる。逆に言えば、そこでは図式化できない人間の情念の行為の領域が、いつも逸脱としてきわだつ仕組みになっている。家族の世界はまた、誰にとっても子供時代からの神話と結びついている。それはけして当人にとって相対化できない体験的な世界だ。このふたつのこと、まったく劇の配役のように社会化され記号化された役割として家族が語られることと、子供時代の心情的な固有な陰翳を帯びて語られる他ない世界であるということが、現在の家族のイメージの核心を決めている。語れない内容を語ろうとするのに、家族を標本としてとりあげるのは、記号化された家族の表象との間のイメージの亀裂を押し開くことだ。そこには小さな文学のカタルシスがある。著者はそう思っているように思えた。
 著者が定時制高校で講演をして、自分の育った家庭や高校を放校処分になったことを懸命に喋った、という記述がある(「定時制高校」)。話が終わって質問の時間になり、生徒から「いま、ブルセラショップとかあるけど、パンツ売ったことありますか」「この中で、好みの男はいますか」などと質問があった、と著者はたんたんと書いている。この箇所は気に入っていて、久しぶりに本格的な奥行きを備えた作家に出会えた愉しい感じを覚えた。


最初に戻る   言葉の部屋にもどる


小説『フルハウス』


 柳美里の『フルハウス』は奇妙な印象をもたらす小説だった。小説のリアルさを構成する要素は、細部にわたって示されていて、それぞれの情況の描写も鮮明なのだが、その底になんとも言えない不条理劇を目の当たりにしているような不透明な分かりにくさがつきまとっている。それは結局、父親とされる人物の思惑や行動が、うまく了解できないところからきているように思える。主人公と父親の距離がとても遠かったのに、ある日、急に此方側に入り込んできて主人公の生活を浸食しはじめる。そうした事態に対応する主人公の振る舞いも、父親の強引さに流されてしまうところがあって、はっきりいえば、はがゆい感じがするのだが、そのはがゆさを読者に感じさせる部分、当面する情況から、身をすっとひいていて、情況にまきこまれている自分自身さえ、一定の距離を置いて観察している部分が、おそらく作者の資質にあたるのだろう。
 主人公の家庭は長い間ほぼ離散状態にあったといっていい。母親は彼女が10歳の時に、男を作って家を飛び出した。以後六年間主人公は母親とその男が同棲している家と、残された父親と妹のいる家を往復して過ごしたとあり、それ以後の十年は両親と同居していないとされているから、主人公の年齢は二十代半ばということになる。そんな時に今では十数店の支店をもつパチンコ屋の経営者である父親から、新築したという家に連れてこられる。妹とその家を訪問する場面から小説は始まるのだが、家には新しい調度品や娘たちの部屋までしつらえてあり、離散した家族を呼び戻して、再出発したい父親の意図のようなものが、ありありと読みとれる。この設定はちょっと異様で、読者はなにか隠された理由(母親とよりを戻せるという現実的な可能性が父親サイドにあるとか、父親の精神的な妄想や病理がからんでいるとか)を想像するのだが、その答えはない。妹は冗談ではないとすぐに帰ってしまうが、主人公は表面は紳士然と振る舞う父親につきあって丁寧に対応している。
 結局、父親の、家族を再構築したいという思惑は、当然の現実原則によって敗れるのだが、その先がまた奇妙な展開になる。主人公が一ヶ月後にその家を訪れた時、そこでは、父親がホームレスだったという見知らぬ家族と同居していたのだ。この父親の善意で呼び込まれたらしい四人家族は、当座の間借り人としては不自然なほど、我が物顔に振る舞っている。男は庭に勝手に鯉を飼うと言ってセメントで池などを堀り始めるし、女はパーマ代を主人公にせびる始末だ。父親は隅で小さくなって彼らに生活費を渡して同居している。この奇妙な展開を許容したり自ら産み出している父親の心理は、ここでもまったく不透明だ。家族再興の夢がかなわなくなったとたんに、突然駅で知り合ったホームレスの家族に新築の家を明け渡してしまうという父親の心理の設定は、現代のこうしたタイプの小説としては、ほとんど破綻しているといってもいいだろう。ただ、観客に異化効果を演出したい不条理劇としてみればわからなくもない。そういう情況の出現に、妹のように健全?に不快を表明するのでなく、むしろ無反応に従順に対応している主人公の心理の不透明さ、というのが、この作品の最後の分かりにくさになっている。というより、表面は無反応に従順であることで、主人公はこのホームレス家族の口をきかない末娘に、自己の子供の頃のイメージを重ねることに成功する。ラストで、家に火をつけて逃げる彼女に追いすがる主人公の吐露「私が放火したっていうのは嘘」という言葉が、この奇妙で劇的な家をめぐる小説の流れに、途中で放りだしもせず、一見従順に対応する主人公の、はがゆい振る舞い全体に対する、隠された喩に(たぶん)なっている。


最初に戻る   言葉の部屋にもどる


自伝エッセイ『水辺のゆりかご』


 自分がかかえている過去や家族にまつわる思いを、これまで小説や戯曲という形式に塗り込めるように表現してきた作家が、はじめて自伝的なエッセイのという形で、ダイレクトに思いのたけを記述した、という意味で、この著作は作者にとって、特別な意味を持つことになるのだろう。今までこの作家の作品に親しんできた読者にとっては、いわば小説や戯曲の背後にあって、何度も別の作品で繰り返されても来た、この作家の私生活や生まれ育った家庭環境をめぐる断片的だが横断的なストーリーの、抜け落ちていたイメージの細部を埋めるような、全面的な物語の集成のようにも思える。もちろんここで描かれている自伝的物語がすべて事実だというわけであるはずもないが、それは小説や戯曲の中での設定よりも、はるかに作者のリアルな記憶のかたちをなぞっているように思える。著者はこの本のモチーフについて「私は過去の墓標を立てたかったのだ」と言う。これまで書き続けてきた「家族」という主題から遠く離れたかったのだと。たしかに、ここでは、これまでに作品の背後で語られていた家族をめぐる事件やエピソードが語りつくされているように思える。そしてそのぶん作品では中心的な舞台となっていた「現在」は語られることがない。だから舞台の装飾をとりはらった場所で、骨組みだけが晒されているような印象をうける。本当は今まではこれだけが語りたかったのだという思いが直截に伝わってくる。しかも文体はたわみなく張りつめていて、特に後半を除けば、散文としても、とても優れているように思える。
 「過去の埋葬」を終えて、著者はこれからどこに行こうとするのだろう。著者の小説には父親に急に殺されそうになったり、母親が愛人に灯油をかけてライターを持って立ち尽くしていたり、といった家族をめぐる刺激的なエピソードとは別に、社会や他者が黒い手を拡げて彼女を拒絶しているような暗い虚無的なイメージに溢れている。小説『もやし』や『家族シネマ』では、主人公が、頭の弱い男や、変態的な老人に、一方的に、身体を預けてしまう(徹底して受動的になれることが喜びであるような)関係が希求されていて、それが拒絶されるところで作品が終わっている。ある意味で病理的ともいえるそうしたモチーフは、『フルハウス』や『家族シネマ』にも登場する幼女性愛的な場面の不透明さにも関連している。そういう暗い資質的な世界は、自閉的で不健康にみえるかもしれないけれど、この作家のとても本質的な文学的な資質をあらわしていて、注目していたいところだ。

 付記)昨年暮れから少しづつ柳美里の作品を読んでいて、そのつど書きとめた感想から、幾つかをまとめてみた。今の所、私の読めた戯曲4冊、エッセイ2冊、小説4編の中で、上記の三作が印象に残った。なかでも、家族という問題を離れて、現在の学校の「いじめ」の実態や、一人の幼い少女の自意識が、それをどのように全身で受けとめて、陰惨で出口のない季節を生き延びて(まさに、生き延びて)成長していったのか、そういう関心からも『水辺のゆりかご』は、優れて現在的で、刺激的な本だった。


97.2
最初に戻る   言葉の部屋にもどる