読書感想


ARCH言葉の部屋にもどります!

      

ファンタジーの中の哲学

 『ソフィーの世界』の感想と逸脱

 『ソフィーの世界』は、ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデルの書いたファンタジー小説で、91年に発表以来、世界中でベストセラーとして版を重ねているという。日本でも95年の6月に発売されて以来ベストセラーの上位に名を連ねているらしい。ちなみに先頃手にした本には第25刷とある。元高等学校の哲学教師だった作者が、若い人向けに、分かりやすい西欧哲学の歴史の講義を内容に折り込んだファンタジックな小説を書いた。その哲学の通史のダイジェストの、内容をかみ砕いた明快な語り口もさりながら、小説のストーリーの展開にも工夫がされていて、ファンタジーとしても充分に楽しめる作品に仕上がっている。
 14歳の少女ソフィーが、ある日、「あなたはだれ?」と書かれた不思議な手紙を受け取るところから物語は始まる。その差出人である中年男性の哲学者アルベルトが、最初は、手紙を介して、やがてはソフィーに直接面会して、彼女のために分かりやすく西欧哲学の歴史に登場する哲学者たちの様々な考え方の変遷を語ってゆく。ギリシャ、ヘレニズム、中世、ルネッサンス、バロック、近代などの代表的な哲学者たち、現代になってダーウィンやマルクスやフロイトまで登場して、最後にサルトルについての講義までが収められている。そういうソフィーとアルベルトとの秘密めいた哲学講義や談義の進展と平行して、もうひとつ別のストーリーが、最初は小さな謎のかたちで登場し、やがては大きく拡がってゆく。初めにソフィーと同い年らしい少女ヒルデ宛の絵はがきが、なぜかソフィーのもとに届けられるのだが、その謎めいた差出人である少佐なる人物と、ヒルデたちの住む世界が、ソフィーとアルベルトの住む世界に二重にオーバーラップしてきて、しだいに重なり合い、最後のヒルデとソフィーの15歳の誕生日という大円団に向かって物語の時間が急速に進展してゆくのだ。面白かった部分の感想を書くと、作品に仕掛けられた謎ときを解説してしまうことになるので、書かないで置くが、この長大な作品のページの多くがアルベルトの語る哲学講義の内容に割かれていながら、印象的なラストシーンを読み終えた時の感慨は、確かに良質のファンタジーを読み終えた時のものに似ているのが何とも心憎い出来ばえではあった。
 日本でも出版界では哲学ブームだといい、哲学入門書の売れ行きも良いのだという。そういえば今年(95年)前半期の芥川賞受賞作品『この人の閾』にも、平穏な暮らしを淡々と生きている中年女性が、なぜかヘーゲルなどを読んでいるというシーンが登場していて、そういう設定で現代の日常を飾ってみたい時代の雰囲気というものはあるのかもしれないと思ったりしていた。いつもながら脇道にそれて少し勝手なことを書いてみよう。哲学とは何かという問いは置いておくとして、子供の頃には誰でも、多かれ少なかれ、宇宙の果てはどうなっているのかとか、死んだら自分はどうなるのかといったことを漠然と考える時期があるのだと思う。そういう問いは、大抵、周囲に適当に受け流されたり、いつのまにか自分でも考える根気が途絶えて忘れてしまうものだろう。そういう素朴だが簡単には解決できないような幼児期や少年期の体験というのは、むしろ人間が意識をもって生きているという存在のあり方から決定されているので、この世界から消去することはできない。というのは、人間であるということは、誰もが、そのような問いを、改めてはじめから意味の世界に問いかける(問いかけられる)可能性として存在して(させられて)いるからだ。ただ、そういう問いは、この世界では、うまく育てられるためしがない。大人たちは、ちょうど善良で優しいソフィーの母親のように、急に哲学めいたことを話し始めた娘の変貌ぶりをもてあまし、頭がおかしくなったのではないかと気を揉みはじめる。だから、それはいつでもすこし秘密めいた瑞々しい自我の冒険なのだ。問いは心の中にしまい込まれて、もう二度と表に現れないかもしれない。やがて何かのきっかけが彼女を問いの前に立たせることがあるかもしれない。ただ、彼女が子供の頃のように、まったくの手ぶらで、内面から訪れる純粋な好奇心だけで、その問いの前に佇むということだけは、二度とあり得ないだろう。
 ギリシャ初期の自然哲学の世界がまぶしく見えるのは、そこに神々ではなく人の名前がしるされているからだ。しかもその人は民衆にとっての英雄でも王でもない。ただ世界をこのようになりたっている考えた、という、その個人の思索と共に記憶されている名前の世界として、まばゆく見えるのだ。万物の根源は水である、とタレスは説いた。これは、ほとんどタレスという固有名を消してしまえば自然宗教の世界だ。たとえば紀元前500年頃にギリシャの一部では、万物の根源は水であるという教えが流布されていたとでも言えば。しかしその発言はタレスのものとして記憶されている。タレスとは誰か。それは世界に問いかけ、問いかけられる存在としての初源の人間の発見ではないだろうか。私たちの古代の歴史はそのほとんどが神々の名前に彩られている。またその血縁に起源をもつ英雄や王の名前に彩られている。歴史を下っても、ある種の思弁は神が人の口を借りて語ったものとされたり、むしろ死後の人を神の座に据えて崇めたりすることが絶えなかった。そういうことがどうこうというのではない。それは安易に否定してすますことのできない人間の類にとっての歴史的な存在の意味をつくりあげているからだ。ただギリシャ初期の自然哲学の世界は、ちょうど人類の歴史を振り返ると、少年時代の初源の世界への問いかけの記憶のように、古代の雲間に射し込んだ最初の光の記憶のように、遥かに遠く輝いて見えるように思える。

付記) 人が西欧の哲学やその歴史に関心をもつかどうかなどということは、ほとんど偏奇な趣味の領域の事のようにみなされてきた。日本でも、こういう本をテキストに小学校や中学校レベルで哲学の分かりやすい授業をすれば、何ほどかの意味はあるかもしれないなどと夢想することもあるが、それは、現状では、ほとんど見果てぬ夢だろうという位の認識はある。東京の多摩地方で、95年現在2%程度の中学校の登校拒否児童がいるという。専門家に言わせるとこれは家庭内暴力もからんだ相当深刻な数字で、今の所、増大する一方だという。また、ある小学校では、女性教師が1時間だけ授業時間を使って、自分の育った田舎の人々の暮らしぶりを生徒に話したところ、翌日にさっそく4人の生徒の親たちがどなりこんできたという。もちろん、役にも立たない無駄話をして、我が子の勉強の速度を遅らせたのが我慢ならないというのだ。どうやら、14歳の少女ソフィーも、中年哲学者アルベルトも、この国の現在の教育環境の中だけには、生きる場所を許されていないようだ。


95.9

ARCH言葉の部屋にもどります!