読書感想


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ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン(上下)』


 アメリカに現存するビリー・ミリガンという多重人格者のドラマチックな前半生を、本人へのインタビューや関係者の証言や裁判記録などの資料に基づいて、小説家ダニエル・キイスが物語ふうに脚色して再現してみせたのが本書の内容になっている。
 多重人格者の物語といえば、すぐに思い浮かぶのは前世紀末のイギリスの詩人スティーヴンソンの怪奇小説『ジーキル博士とハイド氏』(1886)だが、近年のアメリカには事実に基ずく多重人格者の記録と銘打たれた作品の特異な系列があって、たとえば3重人格を扱ったC・H・セグリン、H・M・クレックレーによる『イブの3つの顔(邦題 私という他人)』(1957)、16重人格!を扱ったシュライバーの『シビル』(1973)などがそれにあたる。いずれも出版当時は全米でベストセラーを記録し、特に前者はジョアン・ウッドワード主演で映画化(アカデミー賞授賞)されたのでご記憶の方もあるかと思う。本書の成立事情も、この特異で興味深い実録ものの系譜に属すると言ってよく、物語では主人公として登場するミリガン氏自身が、印税収入の一部を幼児虐待反対のキャンペーンに役立てたいために、秀作『アルジャーノンに花束を』で既に著名だったSF作家ダニエル・キイス氏に執筆を依頼して本書が成立(1981年)した旨が本文で明らかにされている。
 この本で、主人公ビリー・ミリガンの内面で起きたとされる事象についての記述をすべて事実だとみなせば、およそ驚くべき事ばかりだと言っていいが、特に印象に残ったことは、彼の中で24人に分裂している人格のそれぞれの役割分担がある程度明確に分かれており、それにかなうように、個々が特殊な能力を発達させているらしいことだ。それはビリー・ミリガンという一つの肉体を共有する何人もの人々の分業社会のシステムというイメージを連想させるほどなのだが、この比喩がどの程度当っているのかどうかは自信がない。記憶喪失という壁を隔てて、異なる人格同士が共存しているというだけでなく、その間に命令系統や、生殺与奪権を含む支配関係があったり、対等の会話が成立していたりという心理世界を、わがことのように思い描くのは相当困難なことである。描かれているほど機能的な分業システムが本当に個人の心の中で生じていたのか疑わしい(註1)のだが、それを割り引いて考えても、現代社会のいきついた機能主義的な思考が、無意識の領域にまで浸透している様相を、とてもよく象徴している作品のように思えた。
 たとえば、24人の人格の中のひとりで「隅の子供」と呼ばれるクリスチンは、3才のイギリス人少女であり、彼女の役割は、ただぼんやりと時間を過ごすことである。彼女はビリー・ミリガン(以下ビリーと呼ぶ)が学校で立たされたり、単純な作業の従事や、単調な環境に置かれたときに、その単調さに耐えるために呼び出される(これを「彼等」はスポットに立つと呼んでいる)。「何が起こっているのか、ほとんど知らないか、まったく知らない者がいるのは大事なことなんです。クリスチンが何も知らないのは、大事な防衛手段なんです。」(アーサーの説明)。また、ディヴィットは8才の少年だが、彼の役割は、感情移入して、他の人格たちの苦しみや苦痛を吸収することである。つまり、ビリーや他の人格が暴力などにさらされて苦痛を感じると呼び出される人格なのだが、ディヴィット自身にはその原因がわからない。ただ気が付くと怪我をしていて痛みに泣き叫ぶという役目を負っている。彼のおかげで他の人格は痛みを感じないですむので「苦痛の管理者」と呼ばれている。対照的なのは、レイゲン・ヴァダスコヴィニチという23才のユーゴスラヴィア人で、「憎悪の管理者」と呼ばれている。彼はビリーの身体が肉体的な暴力などにさらされそうになると登場する。いわば非常時用の人格で、刑務所などでは人格全体の支配権を握る。信じられそうにもないが、アドレナリンの流れを自在に操れるために、怪力を発揮できるとされている(註2)。
 だれがスポットに立つのかの決定権は、非常時にはこのレイゲンが受け持つが、普段は前出のアーサーという名の22才のイギリス人がコントロールしている。彼は感情に起伏のない徹底した合理主義者で、独学で物理化学を学び医学にも関心があるという、いわばこの寄り合い世帯の頭脳の役目を担っている。他にも口先がうまくて「外交」の役目をするアレンや、縄抜けや電気系統の専門知識を持っているトミーといった印象的な人格が登場するが、多くの場合それぞれが特定の機能的な役割をもっていて、現実の状況に応じて、個々の能力が必要な時に、アーサーやレイゲンによって呼び出されるというメカニズムになっているらしいのだ。
 彼(彼等はというべきか)は、こうした様々な個々の能力や技術を出し合って、社会的にはビリー・ミリガンという名で呼ばれている人間の生命を維持して社会生活を営んでいる。この姿が、なにかの事情で父母を失った兄弟姉妹が一致団結して社会の荒波を乗り切っていこうとしているような、けなげな風情に思えて、奇妙なリアリティと共感を覚えるのも事実だ。例えば絵の上手なアレンやトミーやダニーが協力して描いた絵画を売って収入を得たり、電気工事などの技術の必要な職にはトミーが、単純な肉体労働には(それしかできないが)マークが従事する。口のうまいアレンはセールストークに適任だ。トラブルに巻き込まれたらレイゲンが出現するし、微妙で込み入った問題にはアーサーが対応する。料理や家事はアダラナ、エイプリル(対照的な性格だが、いずれも19才の少女)が請け負うし、3才のクリスチンも手伝い位はする。当のビリー・ミリガンはどこにいるのか。彼は眠っている。正確には彼等によって眠らされているのだという。目覚めると自分の心に起きている事態を悲観して自殺しようとするから。
 私たちは、普段でも言うこととすることが違ったり(他人に指摘されて初めて気付いたり)、気分次第で相矛盾することをしたり考えたりしているが、それでもそうした「心理状態」の背後に、持続した「私」なる主体があると信じて疑わない。もしそんな相矛盾する行動や気分の差異の間にくさびを打ち込み、それぞれの「心理状態」を固有の人名で呼んで、それを独立した人格のように空想してみることができるなら、それは幾分かは、ビリーの脳の中に生じた上記のような事態に似てくるのかもしれない。そして、私たちの「心理状態」の変化の様相がすべて関係社会に適応するわけではないのと同じように、ビリーの場合にも、そうした領域を象徴するかのように、およそ社会生活に不適応に思える何人かの人格が存在する。犯罪の立案や実行のために生まれたようなタイプのフィリップやケヴィン、悪ふざけしかできない道化者のリー、人をかつぎ嘲笑することだけが生き甲斐のスティーヴ、空想にひたって夢をみるだけのロバート、ヒステリーを発現する役割で「安全弁」と呼ばれているジェイスンなどである。実は一見あまり生産的な役には立ちそうもない彼等の分有する特徴的な情緒といったものも、特殊な「心理状態」としてなら私たちに充分なじみ深いのだが、それが全体の連続性から切り離されて独立した人格として存在を主張しはじめる事態を想像すると、なにかひどく平板で異様な印象を受ける。だが、本当は彼等が存在することが「ビリー」の悲劇なのではない(註3)。私たちもそういう気分や情緒や「心理状態」に陥る可能性を保有しているが、普段は自己という連続性のなかで自制し、制御しているに過ぎないからだ。「ビリー」の場合にも同様に、彼等(「好ましくない人々」)は普段はスポットに出ることを禁じられているのだ。悲劇は、何らかのきっかけで、アーサーやレイゲンといった支配人格たちが自分(たち)を、コントロールできない状況「混乱の時」におかれた時に生じる。買ってきた筈の食料や、もらった筈の給料が、置いた筈の場所から無くなっている(誰が取り、どんなふうに消費したのかわからない)。自分が言ったこともやった覚えもないことで他人から咎められる(管理者であるアーサーやレイゲンを呼んでも誰も答えない)。さらには、ふと気が付くと、なぜか自分が住んでいたはずのオハイオ州の田舎町から遠く離れたロンドンのホテルの一室にいたり、見知らぬニューヨークの街角に立っている自分を発見する。これでビリーのようにパニックに陥って自殺したくならないとすれば不思議な話だ。ある日「ビリー」は、やった覚えのない3件の強姦罪に問われて緊急逮捕される。それがこの物語の発端であり、私たちがこの興味深い多重人格者の事例を知ることになる発端でもあった、というわけだ。
 ビリー・ミリガンの中の24の人格のうちの誰が強姦を実行したのか、というのが当初の謎であり、その犯人は意外な人物で、その犯行動機もちょっと思いつかないような意外な話なのだが、それはここでは伏せておこう。ともあれ、ビリーは裁判にかけられ、「合衆国の歴史上はじめて、重罪を犯したにもかかわらず、多重人格であるために、精神障害という理由で無罪とされた」(序文)例となる。裁判所の命令で彼はオハイオ州アセンズのアセンズ精神衛生センターに収容されるが、そこでの治療が進む過程で、やがて病院の敷地内での散策や家族のもとへの一時帰休が許可されるようになる。そうした病院側の処置の寛大さが地元の報道機関にスキャンダラスに取り上げられて、一部の地元住民の不満を引き起こし、そうした住民の声を代弁すると称する(売名的な、と著者は書いている)州議会議員の介入などによって法律改正の動き(後に「ミリガン法」として成立)にまで発展する。病院側も負けずに対抗するが、結局外部の圧力を治療方針の変更という形で受け入れざるを得なくなり、治療過程にあったビリーもそうした周囲の空気に敏感に反応して症状が悪化する。やがてビリーの犯した別の傷害事件での審理が始まり、判決の結果ビリーは精神異常犯罪者のための州立ライマ病院に移送される(結局ビリーは以降2年半の間にオハイオ州の3ケ所の最重警備施設を転々とさせられたうえで、アセンズにもどることになる)。
 このあたりの、ビリーの弁護人や治療にあたり「多重人格性障害」と診断した精神科医たちの側と、検察側やビリーの症状を「偽精神病質性精神分裂症」と診断した精神科医たち、不安をあおる地元のマスメディアや大衆の声との間の、ビリーの処遇を巡ってのドラマチックな攻防の記述を要約するのは困難だが、結果的に弁護人たちの努力にも関わらずビリーは2年半の間、かなり不自由で、きびしい処遇を受け続けた(もっとも最悪の場合精神病とみなされずに刑務所に送られるケースも有り得た)といえよう。こうした背景には、収容患者に一定の緩やかな行動の自由を認めるようなアセンズの精神衛生センターのような解放的な病院施設が、70年代後半のアメリカの保守化する時代の空気にしだいに呼応するように、州立ライマ病院のように患者を厳重な監視の元におくような管理施設(ビリーは「恐怖の部屋」と呼んでいたという)に移行してゆく様相がつぶさに見て取れるような気がする(もっといえば背後に、精神分析的な医療(法)と、『精神障害の分類と診断の手引き』の普及に象徴されるような機能主義的な医療(法)との学問的な確執さえ読みとれるような気がするが)。ただ、本の筆者は公正さを装っているが、あくまでもこの物語がビリーサイドに立って書かれていることは忘れてはならないだろう。実際読んでいると、私たちも無意識にビリーの側の「人道的立場」に身をおいて怪しまないのだが、「混乱の時」のビリー(たち)のような存在に、ビリー自身を含めて誰が耐えられるだろうかと考えると、話は見かけ上の善悪の別ほどには単純ではない。
 最後にすこし触れておきたいのは、ビリーの発病の直接の原因になったとされる幼児虐待についてだ(註4)。日本でも母親が子供に奮う暴力が最近話題になっているが、幼児期にうけた虐待が当人の人格形成にどんな影響を及ぼすかという事についての研究や理解は、もっと深刻に考えつめられていいことに思える。近年のアメリカの小説や犯罪映画などで、事件の背景に登場人物の受けた児童期の性的虐待の記憶が伏線として描かれることが多く、かなり深刻な問題として考えられていると思われがちだが、コーンによれば、子供の(性的)虐待の長期的影響に関する研究は、米国でも実はごく新しい研究分野であるらしい。専門家委員会が設立され始めたのも1986年以降のことだという。1975年発行の精神医学のテキストには、今だに子供に対する性的虐待は百万家庭に一家庭の割合で発生している、という記述があるという。コーンによれば、いくつかの調査(「タイムズ」やミルズ大学の社会学者ラッセルによるもの、ギャラップの世論調査など、いずれも80年代半ばに行われたもの)を総合すると、約四千万人(アメリカ人の6人にひとり)が子供の頃に性的な意味でいう犠牲者になっているという驚くべき結果がでたという(『イマーゴ』90年2月号掲載のアルフィ・コーン「性的虐待の深層」による)。論文を読むかぎり信頼できそうな数値なのだが、では性的なものを含まない幼児の虐待は、どの程度の規模で行われているのかと考えると、ちょっと空恐ろしくなる。もちろん規模は違うだろうが、今までの幼児虐待に対する社会的で古典的なイメージと、おそらく現実に核家族化したどこかの家庭の密室の中で行われているであろう幼児虐待の実態との認識のギャップそのものは、日本でもさして事情は違わないのではないだろうか。

註1)本書はビリー(の交代人格たち)のインタビュー証言を、著者ダニエル・キイス氏が、ストーリーとしての効果を念頭に置きながら再構成したうえで成立していることは忘れるべきでないだろう。またキイス氏は本書の出版(81年)の前年に、『5番目のサリー』というこれも多重人格者をテーマにした小説を出版しており、本書には、そこで培われた小説的な技法が随所に生かされていると考えた方が自然に思える。
註2)個々の天才的な特異能力の発現についての記述も、私などには容易に信じがたい個所だが、類似した特異能力の発現例として所謂「サヴァン症候群」との関連を考えることができそうな気がする。
註3)ビリーの多重人格を総合的な個性の性格形成過程での、何らかの機能的な分化の現れや固着と考えるなら、こうした負の人格が存在することは、むしろ健全な(というのも変な話だが)補償作用のようにさえ思える。
註4)ビリーの記憶に最初の交代人格クリスチンが現れるのはずっと幼児期だが、8才の頃に、養父から受け続けた性的虐待(約1年間続いたとされる)が、24の人格への明確な分裂の契機だったとされている。

付記) 精神医学の文献に多重人格の記述が登場したのは、精神分裂症の記載などより古いという。もっともその場合シャーマンや類似宗教儀式などに現れる憑依状態を交代人格として指したらしい。そういう系譜を考えると私たちがこの種の物語に強くひかれる理由がわかる気がしないこともない。この書物では、類書にはない特徴として、特に人格の機能的な分業のくだりが印象的だったが、それはもうジキルとハイドの成立しそうもない現在の倫理の解体の物語をとてもよく映しているように思えた。内容的にはいくつかの記述に懐疑的にならざるを得なかったが、たとえ多くが著者の小説的技巧によるものだとしても、この作品の現代のフォークロアとしての意味からは多くのことが読み取れると思う。


93.2.

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