読書感想


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M・スコット・ペック著

 『平気でうそをつく人たち』の感想


 解説によると、著者は米国コネチカット州で心理療法カウンセラーを開業する傍ら、同州のニューミルフォード病院精神神経科クリニック所長も勤めるという人物。これまでに十数冊の著作があり、なかには1978年に刊行されて以来、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに連続14年連続掲載を記録して聖書に次ぐロングセラーとなったという『愛と心理療法』創元社刊(原題The Road Less Traveled)という著作(未読)があるという。本書(原題 People of the Lie)は、その本に続いて1983年に出版されたということで、著者の著作としては新しいものではないようだが、その内容はとても興味深かった。
 著者は自らの診療体験から、世の中には、「邪悪な人間」とでも呼べるような、ひとつのタイプが存在することを確証するに至ったという。そうした考えを、読者が無批判に受け入れて、安易に他者や隣人に対して適用することの危険性を警告しながらも、本書では、著者が、なぜそのように考えるに至ったかという経緯が、いくつかの臨床例をあげながら具体的に解説されている。臨床例に登場する「邪悪な人間」とは、必ずしも著者のクライアントを指しているというわけではない。神経症に悩んだり、うつ状態に苦しんでいる患者の背後にいて、その原因を産み出している近親者をさしているケースも含まれている。つまり、著者の言う「邪悪な人間」とは、むしろ倫理的な悪、心理的にその場その場で立ち現れてくるような悪を体現している人物というニュアンスに近い。しかし、そうした印象から出発して、著者は「邪悪な人間」というタイプを、精神病理学的な分類項目にまで延長したがっていて、そこが、この本の眼目になっている。著者は、自分が、邪悪と呼ぶ人々の最も特徴的な行動は、他人をスケープゴートにすることだという。

  「良心もしくは「超自我」をまったく欠いているようにように思われる人間は、刑務所の内外を問わずいることは事実である。そういう人たちを精神科医は精神病質者または社会的病質者と呼んでいる。この種の人たちは、罪の意識を欠いているがために、ただ犯罪を犯すということだけでなく、ある種の無謀さをもって犯罪を犯すことが多い。彼らの犯罪性にはきまったパターンや意味というものはあまり見られない。精神病質者には良心が欠けているために、自分自身の犯罪性を含めて、心をわずらわせたり、不安の対象となったりするものがほとんどないように見受けられる。、、しかしながら、私が邪悪と呼んでいる人たちにはこうしたことはまずあてはあまらない。完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである。彼らは社会的規範というものにたいして、また、他人が自分をどう思うかについては、鋭い感覚を持っている。ボビーの両親に見られたように、彼らの身なりはきちんとしており、時間どおりに仕事をこなし、税金を払い、外向けには非のうちどころのない生活を彼らは送っている。」

 どこにもいるようなごく普通の人で、自分には欠点がないと思いこんでいて、異常に意志が強く、体面や世間体を取り繕うためには人並み以上の努力をする。他人に善人だと思われることを強く望む。ただし内面は、罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否し、平然と他者をスケープゴートにして、責任を転化する。著者は、そうした「邪悪な人」の心のメカニズムには、その中核に屈服することのない強度の意志と結びついた悪性の自己愛(ナルシズム)があるという。さらに、その根源について、幼児期に受けたトラウマなどからの防衛機構があるという考え方や、フロムのように進行的なプロセスの積み重ねの結果が邪悪さを産み出すという考え方が紹介されているが、著者も結論めいたことは言っておらず、人間の自由意志の問題に深く関わっているというにとどめている。私が勝手にその心理メカニズムを著者に従って解説してみると、彼らの内面には、バランスをかいた強大な意志があり、それが自らの不完全性や罪の意識を常に否定して、傲慢さ、尊大なプライド意識を産みだす。ようするに彼らは強いナルシズムに突き動かされて、ふだん隠微なかたちで他者をスケープゴートにしたてるような責任転嫁行動を繰り返している。そのことの不合理さを意識してはいるが、これも強度のナルシズムに突き動かされて、自覚し反省して自らの罪の意識に対面するというような、内省的なタイプの苦痛に耐えることを絶対的に拒否する、つまりパラドックスそのものを生きているのだが、それを補う(その心理的事実を否認する)ために、膨大なエネルギーを外見や社交儀礼や社会的な努力にふりむけている人々、ということにでもなるだろうか。

 (a)定常的な破壊的、責任転嫁行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて隠微なかたちをとる。
 (b)通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。
 (c)立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
 (d)知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。

 著者は、こうした特性によって識別可能だという理由で、邪悪性というものを「自己愛的人格障害」のひとつの変種として分類するべきだと主張する。((d)に関しては一時性精神分裂のカテゴリーと重なり合うとしている。)ここできわどい問題がたちあらわれてくる。著者の言う「邪悪性」は病気とみなすことができるのか(著者は文字どおり精神病と見なすべきだという立場をとっている)という疑問だ。「邪悪」な人々は自分を患者とは見なしていないばかりか、「みずからのナルシズムによって、自分には何も悪いところはなく、自分は心理的に完全な人間の見本だと信じるというのが、邪悪な人間と特性である」。苦痛や障害のない人間を病人と見なすべきではない、という意見に対して、著者は、自覚症状のない身体的疾患は多数存在するし、病気とは客観的事実であり主観的認識によって決められない、と反論する。また邪悪性は治療不能だという意見に対して、多発性硬化症や精神遅滞のような治療法や治療例のない障害があることをあげている。そして邪悪性に精神病分類体系上の正式の名称を与えることは、犠牲者の治療のためになにより必要なのだとつけ加えている。
興味深く読んだが、著者が臨床体験で見いだしたという「邪悪な人々」の類型化は、ちょっと典型化されすぎていて、精神医療にキリスト教神学や倫理を持ち込むような危うい印象を受けた。「邪悪さ」の根底にある自由意志の問題はずっと「原罪」という観念にまで届いている。精神医療の分類体系に人間の内面倫理の類型をカテゴリーとして持ち込むことで生じるのは、キリスト教的な社会倫理の現代的な再編成ということではないのか。そうした思考が現場の臨床医から発信されることに、キリスト教文明の社会の土壌とダイナミズムのようなものも感じたのは確かだが、それは多層的な人間心理を癒しがたい悪という典型で異端として裁断してしまう中世的な思想の再来への驚きや違和感とも結びついている。勤勉だが、内面の空虚な偽善者たちの類型は、現代人というより、イエスに罪の無いものだけが石を投げよと言われて沈黙した群衆のようで、どこか時代を越えている。また、その視座は普遍的なようでいて、私たちの苛立ちとは微妙にくいちがう。


97.1

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