読書感想


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家族の現在

  芹沢俊介氏の小論「分解する家族」を中心に


 「群像」95年2月号掲載の評論「分解する家族」の中で、芹沢俊介は戦後家族の形態の変遷を、分解という観点から理念的にみると、4つに分類できるとしている。

(1)多世代同居型家族。
(2)夫婦中心型家族。
(3)個別ー同居型家族。
(4)個別ー別居型家族。

 (1)は今でも私たちが家族をイメージするときの源郷をなすもので、3、4世代同居の農村型の家族構成ということになる。この労働集約型の農業家族のメインテーマは土地に結びついており、子供(労働力)を再生産するところにある。この形態は多世代同居という核が分解するにともない、1955年頃を境に、主要な家族像の位置を、単世代同居型の(2)に譲り渡すことになったという。
 (2)の夫婦中心型家族は、産業構造の主役が農業から都市型製造業へと中心を移した背景に対応している。ここで生産労働のあり方が変化して、夫は企業労働へ女性は家事労働へ子供は学業へといった性別の役割分担が発生し固定化したとされる。またこの家族形態のメインテーマは夫婦間のエロスにあるというのが著者の指摘であり、夫婦間のエロス、一体性を中心に営まれるために、家族計画という概念が導入され、夫婦のエロスという目的に従って子供の数が限定されるような事態が発現するとされる。統計上、適切な子供の数が2、1人という数値として結果したようなこの家族形態の理念が中心的な位置をしめる時代は、著者によれば1974年頃を境に終わりを告げる。
 (3)の個別ー同居型家族は(2)の夫婦のエロスや一体性というメインテーマが解体してのちに登場した形態で、そのメインテーマを夫婦の個別性の尊重に据えているという。夫婦相互が仕事や生き方などを尊重しあったうえではじめて、夫婦のエロスが課題となるような形態である。著者はとくに言及していないが、この形態の出現は、産業構造の変遷からすれば、主要産業が製造業から第3次産業へ移り変わった段階に対応しているのだと思われる。そして女性の身体という捉え方をすれば、「多世代同居型家族には母性(生殖)としての身体が、夫婦中心型家族には妻というエロス的身体および女というエロス的身体の二重性が、個別ー同居型家族には家族的個人という身体が対応している。三つ目の個別ー同居型家族の段階にいたってはじめて女性は自分の身体の主人公としての自己を感じることができるようになった」としている。著者が「自分のからだだからどう使ったっていいじゃないか、誰にも迷惑はかけていないのだからという性風俗の店でアルバイトする少女たちの言い分は、このような家族の新しい段階における女性の身体的な感受性を踏まえなくてはほんとうのところは了解不能だと思われる。」と書いているのはとても示唆的であった。著者は、現代家族という場合、潜在的にも顕在的にも、私たちは、この個別ー同居型家族を主な要素としてイメージしているに違いないし、個別ー同居型家族は現在そのものであるといいきっている。イメージを補足すれば、(2)の夫婦中心型家族の段階が、姓の問題でいえば、夫婦新姓主義に対応し、それまでの家屋構造のなかに主寝室(夫婦の独立した寝室)を初めて組み込んだのに対して、この個別ー同居型家族においては、夫婦別姓主義に理念的に対応し、主寝室は解体してふたつの個別の部屋に分解されるとしている。
 (4)の個別ー別居型家族は、同居形態そのものの分解に至ったという意味で革命的だと著者はいう。同居の枠組みが解体してなお、社会的他者に行きつくことなくその手前で夫婦や家族としての個別性が依然として成立することを明らかにした、という意味でも。「だが奇妙なことに、このようにして探り当てた新しい家族形態は、脱同居型ないし非同居型という点において思いがけなくも、我が国の婚姻の歴史の古層にあった通い婚という形態ー妻問い、夫問いーへと急速に接近するようなのだ。円環を作り出して行くような軌跡、もっとも新しい形態のなかにもっとも古い形態が浮上してくるという光景。しかも個別ー別居型家族は社会の深い部分ですでに進行しつつある未来なのである。このような事態はとても興味深い事ではないだろうか。」
 著者は図らずも個別ー別居型家族を実現してしまった例として単身赴任や離婚の例をあげて、「要するに同居という枠組みの息苦しさに気付いてしまった人たちが個別ー別居型家族の感性的基盤であり、また第一の支持者であるのに相違ない。」としている。高齢者(六五歳以上)の独り暮らし世帯の増加(1980年時点で90万人、90年で162万人、現在は230万人という激増ぶりには驚かされる)も見逃せない要因であると著者はいう。ただこの個別ー別居型家族の理念はどこにあるのか、と著者は問う。夫婦や家族の親和性やエロスを産出する機能としては同居を超えるものは見つかっていない。同居にかわってなにが自分たちが夫婦であり家族であると自然に意識させてくれるのか、と。ただ相互の対幻想だけだ、というのが著者の結論である。そのとき家族は思想の問題となり、実際には結婚と非婚、家族と非家族の距離はごく近くなる。そこで対幻想という理念が分解されれば、もはや家族を社会的他者と区別する指標はなくなるに違いない。「身体のレベルでは同居という拘束から離脱した女性の身体は、個別性という家族身体のあり方を超えてさらに社会的他者という個人の層へと進んで行く。そのすぐ先に家族の消滅点が見えてくる。」
 以上、芹沢俊介氏の小論「分解する家族」につきそって下手な要約をやってみたが、その枠組みの厳密な当否はともかく、明快で切れ味がするどい論旨だと思った。家族形態の分解という視点をとれば著者のいうように戦後家族はしだいに、多世代型から単(夫婦)世代へ、さらに別居型へというように分解していったように思える。それが目に見える形態的な変遷であると同時に理念的な家族のメインテーマの変遷であるというところに、著者の主張があるのだが、著者の分類でいえば、今の所(3)の個別ー同居型家族が現在のテーマということになる。そこでは個人の尊厳が尊重されることが家族関係のなかで一番の重要性を帯びることが強調されているが、夫婦中心のエロス的家族の絆が分解した結果出現したという意味では、多分にさらなる解体に向かう過程的な意味をはらんでいる。ただ(4)に至っては現在のところ、単身赴任にせよ離別にせよ、老齢による独居老人家庭にせよ、そこに生殖とかエロスとか個人の尊厳といった、家族であることの積極的な理念的な意味を見いだすことができない、いわば強いられた分解、強いられた祝祭であるようにしか現象していないように思える。もちろん芹沢氏のように、そうした兆候の果てに未来の家族の消滅点まで線をひくのは理念的にはとても興味深いことだ。フェミニズムのほうでは、家族そのものが近代(日本では明治時代)に成立した概念だというかなり強力な議論がある(上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』)。そうすると、案外、家族の理念というのは近代以降数世紀だけの特殊な制度の補完装置だったということになるのかもしれない。実感でいえば、人がみつもっているより産業構造の変遷が家族の形態や理念を規定してくることが多大なように思える。電化生活そのものが生活を利便にするというより、新しい作業を産みだし、むしろその新しさが利便さを錯覚させる(というより実感させるといったらいいか)というのが実状ということがある。新しいがゆえにその価値を喧伝したり押しつけたくなるということがある。おそらくそうした自己合理化のための理念や思想の外皮が破れかけているのだ。芹沢氏のいう(2)の夫婦中心型の家族から(3)の個別ー同居型の家族への変遷は、そういう意味では、まだ解かれていない、たてまえから本音への移行の苦しい葛藤のさなかにあるように思える。


95.3

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