映画感想


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恐怖の解体
 (現代ホラー映画について)


 西欧の映画の歴史の中で、怪奇映画と呼ばれるものは、これまで特殊な流れを作って来た。それはタイトルが直接内容を明示しているような、一連の著名な伝説や古近の怪奇小説に基ずく作品群である。狼男、吸血鬼、人造人間などの物語がそれで、こうしたテーマは様々なバリエーションを生みながら現代でも制作されている。ところで現在ホラー映画というときにイメージするのは、必ずしもこうした古典的なテーマのリメイク作品ばかりというわけではない。むしろこれらの作品はテーマ自体を解釈しなおしたり、異質のものと組合わせたり、パロディ化したりして新鮮さを保っているほどの傍系に押し遣られてしまったというのが実感である。(註1) その変貌の様相をたどることは、逆に現代のホラー映画の展開をたどることでもあるだろう。1970年前後を現在のホラー映画の流れが発生した境界とみなせば、その数年前の段階で、渋沢龍彦は次のように書いている。

  「わたしの考えでは、恐怖映画は大きく分けて、三つのジャンルに類別されるべきだと思う。すなわち、その第一は、心理主義ないしサスペンス・ドラマであり、その第二は、グラン・ギニョルないしショック映画であり、その第三は、怪人ないし怪物映画(SF映画をふくむ)である。(註2) この大ざっぱな類別法は、むろん、かなり便宜的なものにはちがいないけれども、トリック撮影を存分に活用すべく運命ずけられた視覚芸術としての、映画の本質的な性格の上に立脚した、もっとも妥当な分類法であろうとひそかに自負している。」「恐怖映画への誘い」(1966年『映画芸術』掲載)

 この時点でヒッチコックの諸作品に象徴される心理主義的なサスペンス映画を恐怖映画のジャンルに含めたのはさすがというべきだが、こういう区分だて自体はあまり本質的な意味を持つとは思えない。つまり心理主義的なものやショック(映画)は、あくまでも映画の恐怖を盛り上げるための手法として理解されるべきであり、さもなくば渋沢が三番目に挙げている映画の従来の主題的な分類法自体が無意味になりかねないのである。(註3)ただ映画の恐怖の本質を考える時、ここで渋沢が心理主義的な作品と呼んでいる系列のものが重要であることに変わりはない。それは古典的な怪奇映画のもつ恐怖の様式性にとらわれず、ただ純粋に心理的な恐怖のイメージの映像化を追求したところに出現したのであった。現代ホラー映画の初期、「ローズマリーの赤ちゃん」(68年)、「エクソシスト」(73年)といったヒット作品が続き、オカルトブームとして喧伝されるのだが、それらにはいずれも、渋沢のいう心理主義的な要素、ショック映画的な要素がふんだんに盛り込まれていた。また今ではビデオをとうして知ることが出来るこの時期の重要な作品に「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(68年)、「悪魔のいけにえ」(74年)があり、それらにも色濃くヒッチコック作品の影響を見て取ることができる。(註4)
 面を点で論じているという危うさを承知のうえでいえば、ヒッチコック映画「鳥」(63年)、「サイコ」(60年)は初期の現代ホラー映画の恐怖の質を大きく引き上げたのではないかというのが、この時期のいくつかの作品を見たときの新たな感想であった。もうすこし関連をいえば、「サイコ」の主人公は変質的な殺人鬼であり、「鳥」ではいうまでもなく鳥そのものである。こういう設定は古典的怪奇映画の解体という面でとらえれば、怪物(怪人)のイメージの拡張を意味している。
 古典的怪人の系列からはみだした変質的な殺人者が陰惨で無意味な殺戮を繰り広げるというテーマは「悪魔のいけにえ」(74年)を経て「13日の金曜日」(80年)などの俗にいうスプラッタームービーの流れに、また動物が突然人間を襲いはじめるというテーマは一方で「ジョーズ」(75年)、「スクワーム」(76年)などの流れにそれぞれひきつがれる。
 70年代後半から多彩なホラー映画が作られ始めるが、それにはよく言われることだが映画技術の飛躍的な進歩が重要な役割を果たしているように思える。SFX(特殊撮影)と特殊メーキャップ技術の進歩である。これらの技術革新は、映像をリアルに造形し、時にはハイパーリアルと呼びたいほど過剰な鮮明さに満ちた映像を可能にしたと同時に、埋もれていた旧来のテーマを再び現代ホラー映画の流れに浮上させることになった。ひとつは古典SF映画であり、ひとつは変身ものの古典的怪奇映画の復権である。「エイリアン」(79年)、「遊星からの物体X」(82年)がつくられ、「キャットピープル」(81年)、「ハウリング」(81年)がつくられる。前者は高度なSFXの技術なしに不可能であり、後者は特殊メーキャップの技術なしに不可能であった。つまり不可能だったというのは、テーマ的にいえばそれぞれ古典的なSF映画、怪奇映画の枠をでない作品でありながら、その技術的なリメイクという面でのみ新鮮で高度な映像表現を作り上げたことを指している。このことは、おそらく考えうる限りのテーマの多様性においてホラー映画が作られ得ることを示すものであった。舞台は空想的な未来世界でも、あるいは使い古された怪談物語でもいい。それらがまるで現実であるかのように緻密に造形され、主人公の身体がリアルに変貌を遂げるとき、その魔術的な視覚の体験がストーリーの陳腐さを越えて何物かであってしまうのだ。けれどこのことは逆にホラー映画のテーマそのものの解体を意味しているのではないだろうか。「死霊のはらわた」(83年)、「エルム街の悪夢」(84年)、「バタリアン」(85年)など近来の作品では、恐怖をあおる見所におざなりの説明がつけくわえられるだけという位置、ほとんど無意味な位置にまでテーマは後退しているように思える。(註5) またテーマの際限ない拡散現象は、一般映画とホラー映画的なものの要素が相互浸透するいう事態を相当な規模で招いている気がする。(註6)これを別の言葉で言えば従来のホラー映画を成立させていたテーマ的な枠組が解体して、その純粋な恐怖の映像だけが技法的に自在に抽出され始めたことを意味している。それが映画を粉飾する魔術的な味付け程度に終わるのか、映像の細部表現への執拗な追求によって映画表現全体をいつか変貌させてしまうことになるのかわからない。周知のように古典的なテーマの解体と拡散という事態はけして現代のホラー映画シーンにのみに訪れているというわけではないからである。
上記の作品群に、カナダのデビッド・クローネンバーグ監督の諸作品、「キャリー」(76年)のブライアン・デ・パルマや「シャイニング」(80年)のスタンリー・キューブリック、「ポルターガイスト」(82年)のスティーブン・スピルバーグなど境界的な位置にいる監督の作品をつけくわえれば、現代ホラー映画の重要な作品を巡ったような気になるが、書き残したいわゆるゾンビものの気味の悪さについてはいつか書いてみたい。

註1)「悪魔のはらわた」(73年)、「処女の生き血」(74年)はそれぞれフランケンシュタインもの、ドラキュラもののリメイクだが、いずれもパロディであると同時に監修や制作に携わったアンディ・ウォホールの趣味や新解釈が色濃い。異質のものとの組合わせでは、宇宙人と吸血鬼の組合わせ「スペースバンパイア」(85年)、現代に甦った魔女「ネクロポリス」(84年)など同工異曲が多数。
 註2)続く文章で渋沢が第一の系列としてあげているのはヒッチコックの諸作品、「何がジェーンにおこったか」、「回転」、「怪人カリガリ博士」などであり、第二は「悪魔のような女」、「顔のない目」などの作品である。第三は説明不要だろう。
 註3)映画のジャンルの分類法は千差万別であり、ここでその迷路に踏み込む気はない。ここでは、ただ便宜的に、一般的なテーマ的分類によって話を進めている。
註4)「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」ではゾンビたちの描写よりむしろ密室に閉じ込められた主人公たちの演じる心理的なかっとうに重点が置かれている点、またゾンビになった少女が母親を殺害するシーンを影絵で表現する効果技法などが、「悪魔のいけにえ」では舞台設定そのものや、鳥獣の剥製など小道具類による雰囲気のもりあげかたなどが「サイコ」を連想させる。もちろん広義の影響関係をいえば前者では50年代にブームであったSF映画や、後者では60年代の暴力映画の底流を挙げることができよう。
 註5)「死霊のはらわた」では呪文を唱えると古代の魔物が甦るというアラジンの魔法のランプのような安易な設定が、「エルム街の悪夢」では夢の中で殺人鬼と格闘した少女が現実に彼の帽子を持ち返ってしまうという間の抜けたファンタジックな挿話がはさまれているが、製作者は一応リアルな現実を設定して恐怖感を造形している映画の現実空間との間に生じているちぐはぐな亀裂を修復することをあらかじめ放棄しているように見える。
 註6)「ヴァンプ」(86年)はむしろハイティーンむけの青春映画、冒険映画的な性格をもっているが、SFXや特殊メークの技術を使用したいがために作られたような作品である。ジョン・アプダイク原作の「イーストウィックの魔女たち」(87年)も大人むけのセクシュアルなラブ・コメディなのだが、後半のSFXの導入でスケールの大きな爽快感をもたらす作品に仕上がっている。

付記)ビデオ機器とそのソフトの普及がなければ、こういうあまりにも非生産的な試みはいくらしたくてもできなかっただろう。あまり関心をもっていなかったホラー映画を風邪をひいて滅入っている時期に割りに集中的に見た。当り外れも多いジャンルだが、いつのまにかずるずると引き込まれて見ていた。ある日夢にゾンビが現れたのを機会にしばらく遠ざかっていたのだが、なんとなくそれまでに感じたものを吐露したくなって上記の一文を草した。人間が残酷に殺害されるシーンを喜ぶ趣味はないつもりだが、緻密に造形された空間の描写や、過剰にリアルな生理的身体(物質)の変貌の描写には、確かな映像のカタルシスがある。

製作年度映像印象総合印象度題名監督
1960AAサイコヒッチコック
1963BBヒッチコック
1968BAローズマリーの赤ちゃんポランスキー
1968BBナイト・オブ・ザ・リビングデッドロメロ
1973ABエクソシストフリードキン
1974AB悪魔のいけにえフーバー
1975BC悪魔のはらわたモンセイ
1975BCジューズスピルバーグ
1976ABキャリーパルマ
1976BBラビッドクローネンバーグ
1978CCハロウィンカーペンター
1979AAエイリアンスコット
1980BC13日の金曜日カニンガム
1980ABシャイニングキューブリック
1981BCキャット・ピープルシュレイダー
1981BCスキャナーズクローネンバーグ
1981BCハウリングダンテ
1982BBポルターガイストスピルバーグ
1982AB遊星からの物体Xカーペンター
1983ABビデオドロームクローネンバーグ
1983AC死霊のはらわたライミ
1984BBエルム街の悪夢クレーブン
1985BCスペース・バンパイア<フーバー/TD>
1985BCバタリアンオバノン
1985ABディ・オブ・ザ・デッドロメロ
1986ABザ・フライクローネンバーグ
1986BCヴァンプウィンク
1987AAイーストウィックの魔女たちミラー


 表は、主に印象深かった作品に当時人気の高かったヒット作品を加味して羅列したうえで、面白半分に採点してみたものである。印象には個人的な好みや、昔見た映画の記憶の衝撃度も混入しているから、とても一般的な目安にはならないと思う。他にも沢山のB、Cランク?の作品や、傑作なパロディもののホラー映画を見たが、とりあげるスペースが無くなった。表の製作には『ホラー・ムービー史』(責任編集北島明弘)を参考にした。他に今回は『映画の手帳』(特集ホラー大好き!)86年7月号、『スクリーンの夢魔』渋沢龍彦、『ザ・ホラー・ヒーローズ』(編集村田ビデ夫他)などを参照したが、いずれも文を書くためというより見る映画(ビデオ)を選択するのに参考にした。


個人誌「断簡風信」97号から転載。この文は89年3月に書かれたものです。

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