読書感想


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宮子あずさ『看護婦たちの物語』の感想


  「 制服が与える影響の最も微妙な例の一つは看護婦です。病人は突然自己の尊厳を犠牲にして、自己の最も内部の身体的プライバシーの侵害に屈服することを要求されることがあります。こんな場合にはきっぱりとした、しかも優しさのある規律が必要ですが、このような効果は看護婦が制服を着るという、ほんのわずかの非個人化でうんと高められます。彼女は自己の個人性を少し減らすことで公的なペルソナを獲得しますが、このペルソナは彼女の優しさを決して抑えることなしに、職務をやりやすくし、同時にまた患者を彼女の職務に従いやすくします。制服の看護婦というのは、誰よりも女らしく、また誰よりも女らしくないのです。」
ラッセル・ブレイン『経験の本性』



 総合病院の内科病棟で仕事に従事している若い看護婦たちののハードだが爽やかな日常勤務ぶりを描いた宮子あずさ氏の『看護婦たちの物語』を興味深く読んだ。著者は現役の看護婦さんでもあり、作品では、登場する患者さんたちのプライバシーを守るために、細部の設定や事実関係は変えられているが、書かれていることは、おおむね著者の実際の看護体験が基になっていて、たとえ事実とは違っても、自分がその現場で見定めた真実をなるべく伝えようと試みた、というようなことが前書きで触れられている。そんな配慮に基いた創作への姿勢が、おのずからこの物語の言葉としての表現性を高める結果になっていて、この本は、とかく当事者として深刻なだけ、善良なだけといった、自足的な記述に傾きりがちな看護体験記といった体裁をこえて、人間の病と死という難しい問題の現場を巡って、ていねいに世代の本音の言葉を与えることに成功しているように思えた。たとえば次のような個所がある。

「好きな患者と嫌いな患者がいるという事実に、新人の頃ひどい罪悪感を持っていた。しかし、ひとりひとりの看護婦それぞれが異なった相性というものを持っていることがわかるにつれ、そうした気持ちもなくなってきた。成美が苦手な患者を得意とする看護婦がいて、他の看護婦が苦手な患者が、成美と気があったりする。それでそれなりに、うまくできているのだ。私たちも人間なんだから、心の中では好き嫌いだってあると思う。」

 主人公(成美)が、新人の頃に感じたという罪悪感の由来は、おそらく一種の理想化された職業倫理と、彼女が実際に看護の仕事に従事して他人に接した時に感じた自分の感情(本音)との矛盾にある。その矛盾を、人には誰でも相性というものがあるのだから、適材適所でこなしていこう、という経験的な知恵を身につけるようになって解決できた、というようなことが語られている。こういう経験的な思考の通路は、おそらく人が倫理を共同規範として携えた組織の中で生きるときにどこでも生じるパターンだといってよく、彼女もまた倫理がつまずく普遍的な場所につきあたっているのだといっていいが、それをこうしたさりげない言葉の形で定着させることができるのは、私には新鮮な驚きだった。「私たちも人間なんだから、心の中では好き嫌いだってあると思う。」という彼女(著者)の言葉は、軽くて分かり易いようでいて、実は思いのほか重くて象徴的である。なぜなら「好き嫌い」という原理こそ、現代の倫理の解体以後のなけなしの倫理というべきものであり、私たちは良くも悪くも現在それ以上のものをもてないし、もつといった途端に寒風が吹くといった吹き曝しの状況にあるからだ。彼女も無意識にその現在に踏み留まろうとしている。だが「看護婦」というのはいかにも足場の悪い困難な場所ではあろう。

 「患者の悪口を思わず口にしては、なんとも後味の悪い思いをする。こんな日々の積み重ねが、また忙しい中で始まると思うとなんとも気が重い。こっちだって人間なんだから、やっぱり人の相性もある。なんでそんな言い方するの、と思うこともある。病気だから、という理由で全ての無礼が許されるものじゃないはずだ。相手を一人の人間だと思えばこそ腹が立つのであって、”病気”だけ見てない証拠じゃないか、腹が立つのは−。
 そう心の中で思い仲間同士で口にもするが、やはり患者を嫌うことに対して私たちははかり知れない罪悪感をもっている、と成美は思うのだ。
 白衣を着たら天使でいたい。その気持ちが自分の首をしめているとわかりつつ、捨て切れない。捨てることがまちがっているのか、捨てないことが正しいのか、成美の心には、また迷いが芽生え始めている。」

 様々な場面で「好き嫌い」の原理は、もう人の存在理由に重なっているところがあるから、それをエゴイズムと呼んでも空しいだけだし、極度のエゴイズムを病理として排除するところで社会的な「好き嫌い」の原理が成立しているというのが現状に近いだろう。そのかわり、無視する権利、差別する権利、拒絶する権利、排除する権利の隙間があって、人の社会感性を砂のように乾燥させている。だがそのような恣意の戯れが個人の自由であることのように保証されているのは「社会」での話だ。看護の現場では、適材適所主義で患者の「好き嫌い」に対応しても(それが仕事の運営面でどれだけ効率的なことか計り知れないが)、どうしてもそうとばかりはいかないケースがあり、そんな時にいったんは解決されたと思った問題が頭をもたげてくる。彼女が職業の上でつきあたっている迷いは、自然に現在のつきあたっている倫理の問題をとても先鋭的な形でなぞりあげている。またおおげさにいえば、それはかって世界宗教がつきあたってきた問題となんら本質的な違いはないことのように思える。そして彼女が踏み留まっている「迷い」の位置は現在のところ一歩先のどんな達観よりも優位にあるように思える。

  「どうしても受け入れられない患者がいる。あまりにもエゴむきだしで、それを見ているだけで人間であることがこわくなってしまうほどの人がいる。人間の欲望は果てしない。五分足をもんでもらって楽になったら、次は10分楽になりたいと思う。その10分が30分になり、30分が1時間、2時間、そして絶え間なく。それらを全てニードと呼ぶなら、私たち看護婦は、その全てに応えなければならないのか?それに対して苦痛を感じる私たちは、やはり彼女の言うように最低の看護婦なのか?末期の人からは何を言われても受けとめなければならないのか?」

 肺癌の骨転移で下肢のしびれが強く、苛立ちや、不安も強いという症状の58才の女性患者が登場する。頻尿に加え、彼女は下肢のマッサージを強く希望して、夜間に2〜3時間おきに1回30分近くもマッサージを受けている。折り悪く病棟の忙しい時期と重なって、彼女ひとりのケアのために病棟全体がかきまわされる。この末期の患者は手がかかるだけでなく、看護婦の処置に「対応が遅い、自分の辛さがわからないのか、あなたは最低の看護婦だ」といった刺のある言葉で(息もたえだえに)なじる。誰もが神経的にまいってしまい、しまいには彼女からのコールは、ほとんど10分置きにかかってくるようになる。そんな看護の現場のさなかて主人公がもらすのが上のような感慨である。自分たちだって好きで患者を待たせているわけではない、そう思うと、言葉もきつくなりかけるが、必死に笑顔を作って、この患者に主人公が話しかける場面がある。

  「「お待たせしたことはたいへん申し訳ないと思っています。けれど、私たちとしてはめいっぱい、佐野さんのお気持ちに沿うよう努力はしているつもりです。食事を配るのを先にやってしまわなければ、他の患者さんを待たせてしまいます。三人という限られた人数で働いていることを、どうかご理解ください」
 なんでここまで下手に出る必要が、と思うと言いながらやり場のない悔しさが噴き出して来た。こんなことは、本当なら言いたくないのだ。私は看護婦なんだから。だけどもうこれ以上、何もかもできる人間の顔なんてできない。何を言われても笑えるふりなんてできない。頭の中はいくら言葉にしても言い足りないほどやりきれない想いに満ち満ちて、ただ涙が流れないようにするのが精いっぱいだった。
「わかりました。だからあなたたちの看護には心がないのね。心がこもってないから、いつだって私たちは満たされないのよ」
 佐野は何度も言葉をつなぎながら、吐き捨てるように言った。
 それを聞いた瞬間、頭の中は全てが空白になった。そして、
「申し訳ありませんが、今以上を望まれても無理です」
 そう言い残して、成美は枕元のパンを持って病室を出た。トースターでパンを焼いて戻ると、佐野は成美をにらみつけて言った。
 「早くベッドを上げてちょうだい」」

 おそらく、このくだりが物語の中で一番白熱した描写のひとつだろうと思う。どこかの道徳的なドラマのようには、この末期の患者と看護婦とのエピソードには和解の場面というものがしつらえられてはいない。意思の疎通はないまま、患者はエゴむきだしの自己を主張したあげく、脳内出血で状態が急変して、ほどなく死去してしまう。見方によっては救いようのない人間の了解不可能性のドラマを、まだ若い著者がこうした誠実で率直な筆使いで書き留めたことにも、とても感動した。



 病気や狂気は本当はひどく個人的なものだ。ところが病人や狂人となるとこれは社会的な存在だ。人は病人や狂人として病院に入院するのだ。精神的な癒しも本当は個人的なもので、けして社会的なものではないのではないか。私たちが病者や狂者であることから離れて社会的な病人や狂人としてみなされる場面でだけ、「白衣の天使」もまた立ち現れるのではないだろうか。病院にはとても制度的な空間がある。それを「患者は患者らしくすべきだというような暗黙の強制力」(関川夏央『よい病院とはなにか』)が働いている歪んだ空間だといってもいいが、これはとても微妙なことだ。病者であることと病人であることの間には、私たちが個であることと、類であることの間にある問題がとかしこまれている。私たちが制度的な存在として生きるために生じる疎外を批判するのは正しく、また言葉の上ではたやすいが、社会規範的なものの価値と抑圧的な権力規範への転化をどこで判別するのかという問題はいつでもとても困難なことだ。
 かって医者は神様で看護婦は天使だというような牧歌的な社会通念がどこかに残っていた。現在ではそんな通念の成立する余地が急速に失われつつある。現代のこの国の病院は沢山の矛盾をかかえた工場のような存在だ。病院の物語で沢山の人事的な困難といわれることの多くは、制度的な困難や物理的(設備的)な困難の問題に帰するような気がする。そして病院自体が経営的な困難のために重病にあえいでいる(民間病院の65%が赤字経営だという)。経営を立て直すためにはどうするか。収入は診療報酬しかないのだから、その点数をあげる方策を考えるしかない。名目を考えて薬品の処方や検査回数を増やす。検査点数の多くとれる高額の医療機器を導入する。病人をたらいまわしする(長期入院するに連れて点数は下がるが、同じ患者でも転院させると初診扱いになる)。支出では人件費の占める率を削る。つまりは事務の合理化と看護婦を給与の低い若年層で循環維持させることである。そんな経済効率や機能の合理化や迅速化の追求が病院を急速に変貌させつつある。そのことに意識的であろうと、無意識であろうと、医療に従事すること、人が病者から病人になることは、その速度にのせられてどこまでも運ばれていくことを意味する他はない。だがもちろん、そういうことは、視線をかえれば、もっと巨大な規模で起こっていることのひとつの例証に過ぎない。たとえば傍目には幸福そうな、ごく平凡な現代生活を維持することが、裏側でどんなに激しい資本や社会の時間の速度に浸食されつつあるのかについて、最近では新井素子の小説『おしまいの日』が、鋭く掘り下げていた。

付記) 自己の病をテーマに病者の側から描かれた作品の数は多い(最近も『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』というエイズで物故したフランスの若いジャーナリスト、エルヴェ・ギベールの日記小説を読んだ)が、他者を治療し看護する側から描かれた作品をそれほど多く知らない。それには相応の理由があるのだろうが、多くの場合、一般的にはその空白をまだまだ通念的で類型的な医療従事者のイメージが占めているのだろう。私にとっても事情はさほど変わりないが、そんなイメージをすこし改めてくれるような良質の書物にであって感想を書いてみたくなった。関連の書物を幾らか読んだ中では、関川夏央氏が看護婦の現状について、少し厳しいが率直な感想を述べているのが印象に残った。

  「わたしは多くのナースたちの、質量ともに畏敬すべき働きぶりを目撃してきた。そして、社会は彼女たちに現状の二倍の待遇をするべきだ、また彼女たちはその知識と機転への自信に裏打ちされて現状の二倍の誇りを持つべきだ、という感想を持った。おおむねその働きぶりに見合わない現在の待遇と社会的な位置づけは、いやになったから辞める、人間関係が多少難しいから辞める、というナースたちのあきらめのよさ、定着率の低さによってささえられているのではないか、と考えたりもするのである。関川夏央『よい病院とはなにか』


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