映画感想


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小津安二郎の映画ビデオ雑感

「人食人種だったら、あいつは古い、固いだろう、まずいだろうと云うことになろうが、文明人の場合は古い新しいで価値をきめることはできないはずだ。」小津安二郎


 小津安二郎の監督映画作品がビデオ化されたものが、近所のレンタルビデオ屋に何本か揃っていたので、最近それをわりに集中的に見た。日本の同じ映画監督の作品をこれだけ短時日のうちにまとめて見たことは初めてだったので、かなり印象深い経験だった。
 もちろん個々の作品にはそれぞれ固有な特徴があり、それぞれ感心もしたのだが、そういうことを離れていえば、全作品を通してうけた印象として、ある種の一貫した映像の時間の流れを感じた。この感じをうまく言えそうにもないのだが、それは、たとえば昭和7年から昭和37年にわたる、現実に映画が製作された30年に及ぶ歴史的物理的な時間の流れと、その時間を実際に生きながら、その時々に虚構の映像空間として処理し作品化してきた作者の構成意識の時間の流れの堆積のようなものを感じたのである。そんなふうに感じた理由には、おそらく作者の種々の作品に共通するパターンの類似性があげられるだろう。それは良く指摘されるようにストーリーの類似性ばかりでなく、カメラアングル、事物や人物の配置、配役といったことから、なにげない俳優の所作や表情やセリフのいいまわしにまで及んでいる。だからいっぽうで、サイレント映画から総天然色映画に至る映画製作の歴史の中に、正確に埋め込まれた都市風俗や情緒の変貌の姿を、そこに読み取ることができるにも関わらず、そこに、なにやら一貫した視線の配慮を読むことができるのだ。こうした観賞のしかたは、ひとつの独立した作品を理解するという枠組を越えた体験だが、その可能性を簡単にビデオの普及が実現してしまったということらしい。
 雑にいってしまえば、ドラマ的なものというのは、遭遇と別離に尽きてしまう。だからどんなに平凡な庶民の日常性を描いたといわれる作品でも、その核になっているのは、遭遇と別離(性と死)という事象がふくんでいる日常性に対立するような要素なのである。ドラマが滅びないのは、どんな人間も遭遇と別離において生きざるを得ない場面をもつからだが、逆に社会性(日常性)の側から人間を捉えようとするとき、いっさいのドラマもまた相対的なものに見えてくる。そこには、どうせ人間は色と欲だというような下世話な発想から、処世術めいた道徳的な教説に至るまで、様々な体験思想めいた言葉が出揃っているといっていい。ところで日常性自体は、その維持のためにそうした言説を必要とするわけではない。そうした言説を必要とするのは、むしろ、日常性に対立するものから日常性を守るためなのであり、そのために個別には通用しそうにもない認識の拡張が捏造されるのだ。逆に日常性が、その維持のために本当に必要とするのは、一見無意味な習慣的な儀礼や所作であり、時候のあいさつのようなものである。
 小津の映画の特質は、人間の平凡な日常性の感性的な肯定にあって、人の日常性を支配する観念の自然な秩序が、よく考え抜かれているところにあると思える。つまり、人間関係の最良の状態というのは、きさくに晴れた日に時候の挨拶でもかわしているような、重みのない水のような永続的な関係であり、そこに価値や意味のみぶりが入るに従って、不純さがましてゆく。道徳や教育的なみぶりが登場するに及んでは、不自然さの見本のようにみなされる。そういう行動を、映画の登場人物がしないというのではない。当事者の日常性が脅かされている度合いに従って、そういう言説や行動が表現されるという事態が正確に演じられているということなのである。だから、娘に見合いすることを説得する父親の言説は、その言説の内容から説得的なのではなく、その不自然さを含めた像として、説得的であるように配慮されている。ちょっと気のおけない友人を、聞きようによっては深刻な嘘をついてからかったりするエピソードが嫌味にならないのも、言葉が他人に向けられているからでなく、いわば意味や価値のみぶりを否定する方向に向けられていることが、その場の情景処理や雰囲気で明かされているからだ。からかいの言葉(意味の言葉)は時候のあいさつになりたがっているのである。
 普通ひとは理屈めいた言葉、理路の通った言葉を精密にしてゆくと思想の言葉に行きつくと思って、この延長を価値のようにみなしているが、それは日常の世界では、多くの場合、自己中心的な物語のおしつけを意味しているにすぎない。たとえば子供は親の言葉より、その行動を無意識に模倣して成長する。非行に走った子供を前にして「親は自分は子供を理解するとか、自分の育て方も悪かったとかいう物語を語るのをいっさいやめるべきだ。それは実際、自分(親)のための物語でしかないのだから。」という意味のことを『嫉妬の時代』の中で岸田秀が書いていて、家族の病態もくるところまできているなという感じがしたのだが、現実にはそういう岸田の言い方が斬新に思えるほど、日常の言葉は小津的な世界からかけはなれてしまったとはいえよう。もっとも小津は岸田のように処方箋を書いたわけではなく、まだ頭のどこかに残っていた親の権威という幻想に支えられながら、思わず子供にむけて意味ありげな言説を物語ってしまう親という像を描いてみせただけなのだが、そこでは、その言説の内容にもはや説得されないとしても、その理不尽なこっけいさも含めて親を了解するという回路が自然に設定されていた。こわれたといえば、その回路が決定的にこわれたのであって、言説はむきだしの言説内容としてしか了解されなくなり、時候のあいさつがもっとも価値ある表現だという視線から顧みられる日常の配慮そのものが解体してしまったのだ。
 だからどうなのだということを論評したいのではない。みごとな様式性のおかげでみかけの醜悪さからはすくわれているにしても、一見理解がありそうな口振りで語りかけながら、実は巧妙に自分の主張を一歩もゆずろうとしない親、家に帰るとぞんざいに自分の背広だのネクタイだのをわざわざ畳の上に脱ぎ散らかして、それを妻に拾わせて平然としている親の類型が、なんども別の設定の作品のなかで、くりかえして見せられると、いいようのない違和感を感じている自分に気付く。この違和感には、いくぶん不当なことを当然の様式美のように見せつけられた不快な感じが入り混じっているが、そういう言説や所作が戯画として描かれたはずがないのに戯画としてしか見えないという奇妙な感覚を呼び起こされて場違いな笑いがこみあげてくるのだ。
 後期の小津の映画には、小料理屋で、学生時代からの旧友という設定の三人程度の初老の男たちが楽しげに雑談に興じながら酒を飲み交わす情景がくりかえし現れる。店内の様子も、配役の顔ぶれも、佐分利信、(笠智衆)、中村伸郎、北竜二とたいていきまっていて、おかみ(高橋とよ)の登場の仕方と、彼等にあまり品のよくない謎をかけられて、彼女が、その意味がわからずに「いやですよ」といい放って退場するしかたまで類型的である。すこし大げさに云えば、マルクス兄弟の喜劇映画にきまって登場するハーポ・マルクスがハープを奏でる場面のように、一見気安い観客サービスに見える、この情景のもつ様式性ほど、小津の作品思想の一貫性を見事に象徴している例も少ないように思える。

「映画の中での酒のシーンは、バーやキャバレーでのそれ、大宴会、料亭、すし屋、縄のれんでのそれ、と多々あるけれど、私は一番撮って好きなのは、小料理屋で気分の合った仲間が、静かに体を乱さず、適量の徳利を前にして飲み、かつ談ずるところがいい。私自身が、そんな飲み方をするからでなく、第三者が見ていて、それが一番たのしそうだからである。」(「週刊漫画タイムス」昭和34年1月21日号)

 自分がいつもそんな紳士的な飲み方をしているわけではないとことわるところが、いかにも茶目っけのある小津らしい発言だが、第三者の目というのは、観客一般ではなくて、すでに小津自身の映画的な構成意識のもたらす視線に他なるまい。軽い酩酊のかもしだす親和的な雰囲気に包まれたこの愛すべきシーンは、たいてい小津のどの映画でも、「今日もいい天気ね」と誰かしらが空をみあげてつぶやくシーンが挿入されているのと同様に、映画のトーンの起伏を低い位置できめて連結している。そこでは、過激な口論も生じなければ、だらしなく泥酔して座を乱すものもいない。そればかりか、卓上の一本の徳利の位置も、盃を交わす男たちの挙動の細部も精密にきめられてそこに存在しているのである。


 最初と最後に引用した小津の発言は、田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成』から採録しました。個人誌「断簡風信」29号から転載。

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