ATPase の研究が盛んになったのは1980年代のことです。私が農業試験場に勤めるようになったのは1991年ですから、この分野に参入?したのはやや遅いことになります。それ以来、「そんなことは教科書にも書いてあるじゃない」、「もうやられているんじゃないの?」とよく言われます。たしかに教科書をみれば立派な代謝マップや、光合成・呼吸・養分吸収機構などについて、もっともらしい図が載っています。今回はそんなことに関連した話題です。
「生物は複雑だから個々の反応を見てもよくわからない」、「遺伝子操作してもなかなか思い通りにいかないじゃないか」(参照:II-4)というのは試験場にいるとよく耳にする批判です。確かに酵素反応のパラメータを試験管内で測定したからといって細胞内でどう働いているかわかるとは限りません。しかし、手がかりにはなるはずだと思いますし、逆にこれらの基本的なパラメータが不明なままで細胞内の働きを推定することができるとは信じられません。生物に必須な機能を理解するために「帰納法」には限界がありますから(参照:I-4)、「細胞内ではどうなっているのか」、「どうすれば細胞内の機能に演繹できるのか」という視点を持って酵素反応を調べたいものです。生命現象は基本的には生体内の反応が組み合わさったものの反映です。「複雑だからよくわからない」ならば「どうすればわかるようになるか」を考えるのが研究者の仕事です。
余談ながら、「生体内の化学反応が生命現象に反映している」という顕著な例がDNAの複製と生物の遺伝・複製です。あのワトソンとクリックの論文では、「DNAという物質の構造」と「遺伝物質の複製」との関連についてふれています。ほんのわずかの文ですが、私は深い感動を覚えます。ネイチャージャパンのホームページで邦訳を読むことができますので、ご一読をおすすめします。
植物にとって必須の機能は光合成・養分吸収(物質輸送)・呼吸です。動物なら光合成の代わりに筋肉(など)です。これらを「化学/物理エネルギー」変換反応とでもひとくくりにしておきます。さて、養分吸収機構のモデルは20年くらい前の教科書にも書いてあります(正誤は別として)。植物個体の観察に基づいた単なるモデルを解決済みであるかのように「そんなこと教科書にも書いてあるじゃないか!」などといわれると、私はただ絶句するのみです。反応を直接観察したわけでもないのに。また、酸化的リン酸化(呼吸や光合成)によるATP合成反応に関しても教科書には「しっかりと」書かれています。しかし、「生物にとってこの世でこれ以上重要な反応はない」ともいえることについてさえ、未解決の点が「山ほど」あることは、香川靖雄先生の解説記事や吉田賢右先生の総説などをご覧下さい。
蛋白質核酸酵素
遺伝子組み換えによって生物に有用な形質を導入することに成功しているのは、比較的単純な場合に限られているような気がします。また一方で、たとえば作物の収量性や耐冷性のように複数の要素が複雑に絡み合って生じる形質がそう簡単に改変できるとは考えられません。かりにどこかをいじって偶然うまくいったとしても、それは「工学」とはいいません。「工学」は理論に基づいて設計するものだからです。では複雑だから設計するのは不可能でしょうか?私はそうは思いません。複雑であってもよく理解できていれば、「悪くない精度」で予測し、設計することは可能だと思います。電気回路をよく理解していれば都合の良いように改良ができるのと同じことです。回路に別の経路をつけ加える場合に、100Ωの抵抗の両端と100KΩの抵抗の両端とでは全然結果が違います!代謝マップは回路の単なる配線図のようなもので、抵抗やトランジスタなど構成部品の規格についての情報が欠けています。
生物工学、遺伝子工学を本当に「工学」と呼べるようにするには、最低でも基本的な生体内の反応だけでも物理化学的にきちんと把握しておきたいと考えています。代謝マップが教科書に載っているからといって「終わった研究」では断じてありません。