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I. なぜ農業試験場で H+-ATPase?(1998.02.03作成)

 「生化学」などという基礎的なことをやっていると、国の研究機関、ましてや地域の農業試験場では「何の役に立つんだ?」「出口がわからん」「趣味の研究なんかやってるんじゃない!」とお叱りを受けることになります。そこで、まず「なぜ植物形質膜 H+-ATPaseをテーマにしようと考えたか」から始めることにします。


  1. ATPaseで植物の「養分吸収力」を評価できるか?
     現在考えられている植物細胞の養分吸収機構は、「植物形質膜内外のpH勾配または電位差(電気化学ポテンシャル)に従って、イオンが細胞内にイオンチャンネルを介して輸送される」というものです。形質膜 H+-ATPaseはATPの分解エネルギーを用いて水素イオンを細胞外に輸送し、形質膜内外に電気化学ポテンシャルを作り出していると考えられています。いわば植物の養分吸収の第一段階の反応を担っている酵素蛋白質です。従って、もし「養分吸収力」というものがあるのならば、それを評価するには形質膜 H+-ATPaseを測定するのが理にかなっていると考えられます(植物根の環境条件に制限要因がない場合)。
     また、上述のように形質膜 H+-ATPaseは「生きている細胞」に必須と考えられますから植物根の「活きの良さ」とでもいうべきものの指標にもなり得ます。ちなみに、ある程度年輩の土壌肥料分野の研究者は「根活性、根活力」という言葉を好んで使いますが、これについてはいずれ掲載します。

  2. 植物生産性の「効率」の理論的上限を知るためにATPase
     植物個体全体で「生産性」を考えると、「養分吸収で得た元素で葉(光合成の場)を構築する→光合成で得たエネルギーで養分を吸収する→養分吸収で・・・」という、いわゆる正のフィードバック系です。このため、「卵が先か鶏が先か」式の循環論法に陥りやすいのです。そこで植物の生長に関わる個々の化学反応の物理化学的性質を調べ、反応に与える要因を解析し、その結果を細胞→組織→植物個体に演繹するという手法が必要になります。 形質膜 H+-ATPaseは養分吸収の「ATPの化学エネルギー→ポテンシャルエネルギー」という最初の変換反応を担う酵素ですから、この反応の物理化学的・熱力学的研究が重要であると考えています。
     光合成と養分吸収に関わる反応の解析により、熱力学的・物理化学的限界の考察が可能になって植物生産性を向上させるにはどうすべきか?という目標が明確になるはずです。言うなれば、ガソリンエンジンの効率を上げたい場合に、闇雲に試行錯誤を繰り返すよりは「カルノー機関」の理論的熱力学研究を知っていた方がよい、ということと同じです。
     また植物を製造業に例えると、利益(生産性、作物なら収量)を上げるには原料の調達(養分吸収)コストと設備投資(栄養生長)と生産効率(光合成)を良く解析し、どこに無駄があるか、どこを改善すべきか検討する必要がある、ということになります。

  3. めざせ! H+-ATPaseの構造解析
     「ゲノムプロジェクト」によってDNAの塩基配列が決定されても、塩基配列から機能がわかるとは限りません(参照:I-4)。DNAのコードする蛋白質のアミノ酸配列がわかったとしてもその機能は推測困難です。蛋白質の機能を推測するためには、機能既知のものとの比較することが有効な手段と考えられますから、多くの事例を集めることが必要です。そのときに、蛋白質の立体構造(形)がわかることが理想的です。未知の道具を見たときに、すでに知っている別の物の(色や材質ではなく)「形」と比較して、使い道、使い方を推理する事は、人間が無意識のうちに普段やっていることです。蛋白質もその形から、機能を推測できるかもしれません。
     また、未だにアミノ酸配列から、蛋白質の立体構造を予測することは困難です。立体構造予測を可能にするためにも、さらに、予測法を検証するためにも多くの事例を集めなければなりませんが、構造解析しやすいものから構造決定されているのが現状です。「多くの事例を集める」というなら生物の機能にとって重要なものからやっていくのが正攻法でしょう。植物でいうなら光合成、呼吸、養分吸収に関与するものから攻めて行くべきです。
     「DNAの塩基配列から生物の機能を予測する」という「究極のゲノム解析」をおこなうためには蛋白質の立体構造解析は不可欠だと思います。

  4. 「帰納」による機能解析は万能ではない
     一般に、生物の機能解析では「欠損した機能を相補(complement)する因子を調べる」という方法が成功を収めています。「○○に関与する遺伝子が見つかった」というニュースで目にするものは、ほとんどが原理的にはこの方法で「見つけた」ものであり、遺伝子を特定したことになる最も確実な証明です。では「complement」を利用して機能を解析することは万能の手法でしょうか?私はそうは思いません。「complement」は「ある機能の欠損(劣性)系統(変異)が得られる」ということが必須条件ですから、「欠損することが致死的である」という機能についてはこの手法は利用できません。したがって、生物の生存にとって本質的で重要な機能ほどこの方法では解析が困難、ということになります。また、異なる条件下、異なる系統で比較をおこなって遺伝子を特定するという「differential screening」という手法にも同様の限界があります。
     一方で、生物に必須な機能である解糖系、呼吸系、光合成系などは、反応経路の元素の「動き」を追跡して、生体内反応全体に演繹するという手法で研究されています。植物にとって養分吸収というのは生存に必須の機能ですから、個々の化学反応を調べるという手法が必要なはずです。養分吸収に関わる機能を解析するにはイオン輸送体を一つずつ解析しなければならないということになります。

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