天の川を最後に眼にしたのは、一体いくつの時の事だったろう。白く、淡く、煙る様な光の帯を見上げたのは、何処でだったろう。 川端康成を敬愛する者として、普通の(特に川端康成のファンではない)人は読まないであろう数多ある作品を読んでもいるからには、普通の人がタイトルも知らない様な作品、例えば「ナアシッサス」とか、「岩に菊」とかの名をあげた方が明らかに通っぽく、愛好者っぽいのかもしれないが、やはり良いと思える代表作品は、「雪国」、「古都」、「伊豆の踊子」、「眠れる美女」等、誰でも知っている様な作品に帰結してしまう。 これらを選んだ根拠は、単純に、純粋に、「切なさ」や「やるせなさ」等、どれだけ心の琴線に触れるか、という事である。 中でも「雪国」は最も心を動かされた作品なのだ。 「雪国」は「伊豆の踊子」にも通ずる系統にある恋愛小説(再び批判を恐れる事なく、恋愛小説という言い方をさせてもらう)である。この2作品は同様に恋愛に伴う喜びと、痛みが描かれているが、それが「伊豆の踊子」では淡く、「雪国」では辛く表現されている。そしてその痛みこそが、おそらく人の心に深く響くのだろう。 そして、その設定、小説の長さ、描写等何を採っても、最も良い形にまとめられていると思われる。 例えば、一般の批評等にも真っ先に挙げられる「夕景色の鏡」の部分の描写は素晴しい。夢幻が車窓を通して、現実と交差する。その描写の美しさは、他に類を見ない。 島村が列車で雪国へ向かう中で、東京の自宅という現実世界から離れてゆく過程の様にも思われる。それはある種、逃避であるかもしれないが、この島村という男はその現実から逃避した雪国でこそ、生き生きとした人間味を帯びてくる様に見える。 この物語に登場する駒子は、島村にとっては、逃避世界である雪国での、「実体ある女性としての愛情の対象」であり、現実から離れた世界で夢を見続ける為の女だった。しかし、島村は更に夢幻世界の住人であるかの様な葉子にも心魅かれてゆく。それはさらなる逃避なのだろうか。いや、それよりも、島村は、いや川端は駒子と葉子二人にこそ、同時に理想の女性像を見ていたのではないのか。
物語のエンディングは哀しい。火事場の二階から落下した葉子を抱きとった駒子は、葉子の為に島村をあきらめなければならなかった。そしておそらく、葉子の為に自らの夢を失った生活を送り続けるだろうし、島村も、もう二度と再びこの雪国を訪れる事無く、生気を失ったまま現実世界を生きて行くであろう事を予想させる。 「伊豆の踊子」の薫にもモデルがいるが、この二作の違いは、物語そのものが実話(に近い)か全くの空想か、という点だろう。「伊豆の踊子」の薫は多少脚色はされているだろうが、殆ど本人そのもので、駒子の方は「モデルがいる」というだけに過ぎず、松栄と駒子とは全く違うキャラクターであると川端自身も語っている。 しかし、どうやら川端は駒子にも薫の影を見ていた。そう思うのは私だけだろうか。さらに言えば、前述した様に、氏は駒子と葉子の二人に薫を重ねていた部分はないだろうか。 薫への想いは、淡いが故に遠く、川端は駒子には、薫で叶わなかった愛欲の対象としての存在を、葉子には滅ぶ事の無い薫の処女性を維持していたのではないのか。 勿論「伊豆の踊子」から「雪国」迄はそれなりの年月の隔たりがあり、氏が薫への愛を強く抱き続けていたとは考えにくいが、物語を書く時、あの懐かしい薫の(理想の存在の様な)面影を、頭に描いていたとも考えられる。
今、東京では天の川を見る事は出来ない。それは東京では島村が「雪国」で味わった様な、愛情を糧にした人間味のある過ごし方が出来ない事を示しているのだろうか。 |
「雪国」の各刊行本:上列左から創元社版「雪国」初版、鎌倉文庫版「雪国」初版、新潮文庫版「雪国」初版 創元社版「決定版 雪国」初版、現行新潮文庫「雪国」 下列左から牧羊社版「定本 雪国」230部限定、ほるぷ出版「雪国抄 復刻版」 |