川に架かる赤い橋を渡ると、古めかしい旅館の小さな庭先だった。
午前6時……、まだ陽の昇りきらない、柔らかな明るさの中に、少女は腰かけていた。
少しうつむいて哀し気に見える、この薫という名の少女に、私は「やっと逢えたね」と囁いた。
彼女の小さな膝に手を置くと、崩れてしまいそうだった。
中学を卒業した年の事だった。

川端康成は20歳の時、初めて一人で伊豆の旅に出た。
その時に出逢ったのが、この薫という名の踊子である。 本文に「最初は私が湯が島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊子は太鼓を提げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った。」とある。

私が川端康成の作品に初めて触れたのは「伊豆の踊子」だった。
最初から川端康成という作家に興味があった訳ではない。勿論、学校の授業等で、その名は聞いてはいた。
「伊豆の踊子」という物語も、作品を読むよりも山口百恵主演の映画をTVで観た方が先だった様に記憶している。山口百恵のファンという訳ではなかったが、神保町の古書店で「伊豆の踊子」の文庫を100円で買って来たのは、その映画の原作を読んでみようという程度の思いからだった。しかし、結果、その物語にいたく心を動かされたのだった。
それは多分に、この物語の持つ淡い恋愛小説性だったろう。
「伊豆の踊子」を恋愛小説などという言い方をすると、文芸評論家諸氏に怒られそうだが、それはやはり純粋な恋愛小説なのだ、という思いは変わらない。何故なら、この物語は、川端氏本人の薫という踊子への淡い恋愛感情が根底になっているからである。
そこに氏の孤児としてのペシミスト的な要素があったにせよ、薫に好意を抱いたであろう事は、確かな筈である。
山口百恵の映画の原作として読んだ「伊豆の踊子」の薫像は、映画の中の山口百恵以上に愛しい存在となった。それは少し不思議な事でもあったが、小説の中の少女が、具体的な顔形も浮かばぬまま、スクリーンの中のアイドル以上に美しく理想的な女性となったのである。
物語の中の薫は、いくら実話であるとは言え、脚色されている筈で、ましてや川端氏の愛慕も加わった眼で語られているとすれば、尚更美しく描かれているに違いない。
実際、薫は、始めから美しく無垢な存在として登場する。そして物語のあちこちに、川端氏の「想いを寄せた存在」に対する、暖かく優し気な視点があふれている。
だから物語の中の薫は、美しく見えて当然なのだ。
例えば伊豆の山中、近道の間道を行く、川端氏と薫の二人の様子を描いたくだりは、 その代表的な部分だろう。
山の上で、遅れてしまった栄吉達を待つ間の二人の会話は、薫の純粋さを際立たせる。彼女は川端の大島についての問いかけに対し、不意に甲府での幼い頃の話を始める。まるで、幼子の様に、川端氏の知る筈の無い、当時の自分の友達の名前をあげながら、楽しかった思い出を語るのである。
そこには少しだけ現実世界から逃避した様な、澄みきった彼女の心がこぼれている。
そんな時、川端氏の視点が、読み手である私に乗り移る。そして薫が愛しくなる。
やはり薫は、今でも私にとって理想の存在であり続けるのである。

福田屋の庭先を出て、再び赤い橋を渡る時、私はもう一度薫の像を振り返った。
私も旅情が身についたと思った。