哀悼

(写真:「川端康成「雪国」湯沢辞典」湯沢町役場発行 1997年より)


川端康成の代表作「雪国」の駒子のモデル、松栄が1999年1月末、亡くなった。
ノーベル文学賞の世界的文学となった小説のモデルは、昔と変わらぬ雪国で極普通の生活をし、静かにこの世を去った。

松栄(本名:小高キク)は大正4(1915)年11月23日、三条市で7人兄弟の二番目として生まれた。大正13(1924)年、数えで10歳の年、貧しい生家を助けるべく、口べらしのため小学校を中退、長岡の立花(橘)屋から半玉で出、昭和3(1928)年、3年の年期で湯沢の「若松屋」に移った。
その後、一時期湯沢を離れ、数えで18歳の年の昭和7(1932)年、湯沢に戻り、「豊田屋」から、昔と同じ松栄の名で芸者に出、昭和9(1934)年5月、川端とめぐり合った。

「大きな目で、じーっと見つめて、あまりお話ししない人で、そうですねぇ、変わってるって思いました。」 「三味線をひけば、だまってきいてるし、間がもてなくて、私がお酒をいただいちゃったんです。川端さんは召し上がりませんでしたよ。」

松栄は三味線、習字ばかりでなく和裁など習い事に熱心であったという。その後帯袴専門の仕立屋、小高久雄氏と結婚、小高キクとなる。御主人とともに和裁の仕立物を引き受けたり、教えたりし、三条市に住んだ。

「雪国」の駒子つまり松栄について、川端は、昭和23年発刊の「決定版雪国」のあとがきで次の様に述べている。
“「雪国」が愛読されるにつれて、場所やモデルを見たがる物好きもあり、温泉場の宣伝にまで使われるようになった。モデルがあるという意味では駒子は実在するが、小説の駒子はモデルといちじるしくちがうから、実在しないと言うのが正しいのかもしれぬ。島村は無論私ではない。つまるところ駒子を引き立てる道具に過ぎないのだろう。それがこの作品の失敗であり、また成功なのかもしれぬ。”

「雪国」発表当時、川端は松栄に「夕景色の鏡」の生原稿と記念に色紙を送ったのだという。
しかし松栄は25歳で湯沢を去る時、焼き捨てたらしい。

「当時は長い年月日記をつけておりましたが最後に湯沢を去る時それまでの生活にくぎりをつける、そん奈意味ですっかりやきましたが、日記でも残って入れ者゛と残念に思ってゐます。」
(昭和51年1月1日付:平山三男氏宛書簡より。変態仮名は原文のままにしてある)

原稿と色紙を焼いた、という話が本当であるとすれば、おそらくこの時に一緒に焼いたのだろう。
芸者の奉公を終え、温泉場を去る際で、彼女は芸者としての生活に決別する為、それ迄の生活臭のするものを無に帰した。それは決して芸者の生活を否定するという意味では無く、新しい生活へのひとつの決心だったのだろうと思う。
その時、松栄は、「駒子の松栄」ではなく小高キクとなったのだ。

彼女は遠い空で、あの懐かしい川端康成と逢っているのだろうか……。そして良き昔の話を語り合っているだろうか……。三味線の音色にのせて……。

(参考文献:「川端康成「雪国」湯沢辞典」湯沢町役場発行 1997年・「川端康成 文学の舞台」北條誠著 平凡社 1973年)