「木々は緑」

 有島があっと息を飲むように、娘を見つめたのは、これは必然だったが、娘がなぜ彼を見つめたのだろう。はじめて会う有島を、いきなり、あんな風に……。

有島は、旅の町でその娘に会った。会ったとは言っても、路ですれ違っただけである。すれ違っただけであるが、その時、目を見合った。ただのゆきずりの人であれば、そのように目を見合うことはあるまいように目を見合った。娘の目から、有島の目を通して、娘の魂か命が有島の内に入った。
 それは山の町の小路であった。山に近い空の裾はもう夕映えの来る静かな色で、路の片側は小川に沿っていた。その空から小川に目を移すと、椿の落花が一輪流れて来た。その時、何を思っていたのか、有島は憶えていないが、もの思いしながらの彼の足は、水の流れよりも遅かった。
 彼は椿の花の流れてゆくのを見送る事になった。椿の花は、花の形のまま上向きであった。殆ど半ばは水につかっているのに、
しおれる風も無く、まるで水中から花を咲かせているような、そんな流れ方だった。
 花は有島から離れながら、小川に落ちた木陰に入り、やがて夕映えの空をきらきらと映す水面を流れて行ったが、いつまでもその色だけは鮮やかだった。
 有島は、椿の花が小川の曲がった先に消えて行くまで、じっと目で追っていた。そして、その椿の花が消え去るのを見届けて、ふっと目を上げた先で、娘の目と会ったのだった。娘の目は彼を射貫くような鋭さだった。その目は椿の花の鮮やかさに劣らぬ強さで、有島の中に入り込んで来た。その鋭い目に、有島は覚えがあるような気がした。もちろん娘自身は見知らぬが、その目 の強い力を、彼はどこかで浴びたように思ったのである。彼が娘の視線に釘付けになったのは、その為だった。
 娘は有島の目を、“きっ”と見つめたまま近付いて来る。有島も娘の目を見つめたまま放さない。二人はすれ違いながら、互いに目を見合っているのが不自然に思える程近くまで、目を見合っていた。
 最初に視線を外したのは娘の方だった。娘は、有島の脇を過ぎるほんの少し手前で彼に向けた視線を外した。
 すれ違ってしまってからも、有島は娘の事が気にかかり何度か振り返っては、娘を見てみたが、娘の方はもう彼を振り向くことは無いようだった。
 彼は、しばらくして脇の小川に視線を落としてみたが、もう、椿の花が流れてくることも無かった。娘の視線が、彼の頭から離れなくなっていた。
 宿に付くと、古びた玄関に小さく点った電球が、明るかった。その意外な明るさで、有島は陽が暮れたことに気付いた程だった。
 「お帰りなさいまし。」
 およそ女将などというには遠い、年老いた宿の女が玄関の有島に気付いて、声をかけた。他の泊まり客のものらしい食事の済んだ膳を運んでいた。
 「旦那様、お食事はいかがなさいますか。」
 「いただくよ。」
 「すぐお持ちしますから、お部屋でお待ち下さいまし。」
 宿はいかにも古びていた。有島の部屋は二階だったが、板敷の廊下や階段は、歩くたびにきしきしと音をたてた。彼が昨日この宿に着いた時に感じたのも、部屋に漂うかび臭さだった。
 部屋の窓敷き居に腰掛けると、外は思いの外暗くなっていた。小さな形ばかりの庭の向こう、近隣の家々の屋根や雑木の彼方の山々の影は、空の色に溶け込む所だった。見る間に色を失っていく景色をぼんやり眺めながら、有島が娘の目を思い出していると、宿の女が食事を持って上がって来た。
 「お待たせいたしました。お食事をお持ちしました。」
 「ああ。」と、言って彼は部屋の真ん中に座り直した。
 粗末な食事だった。山菜と川魚が土地のものらしい。
 「こんな田舎でございますから、大したものがございませんが。」そう言って宿の女が酒を注いだ。
 「ここら辺に二十歳位の娘はいるかね。」いきなり有島は聞いた。
 「小さな町でございますから、若い者は殆ど都会へ出てしまっております。そうですね、町に残っている娘は限られておりますが……。」
 宿の女がけげんな顔をした。
 「旦那様、申し訳ございませんが、この町には芸子のようなものはおりませんので……。」
 こんな時間に有島が娘を持出したものだから、宿の女は芸者の世話だと思ったらしい。
 「いや、そうじゃないんだ。さっき表で若い娘とすれ違ったんだが、その娘が私のことをじっと見るもんだからね。どこの娘かなぁと思って。」
 「どんな娘でございましたか?」
 「目つきの鋭い娘だったね。」
 「太っておりましたでしょうか?」
 「いや、痩せているようだったね。」
 宿の女は首をかしげた。
 「今、この近くにいる若い娘は三人だけでございますが、痩せているようだと言いますと……、薬屋の摂ちゃんか、写真屋の由紀ちゃんかな。」
 「そのどちらかの娘で、父親がいないとかという話はあるかね。」
 娘に父親がいないという事があれば、そういう年令の自分が気になったのかも知れないと、有島は考えたのだった。
 「いえ、どちらの娘の父親も健在でございますが……。お客様、どなたかに似ていらっしゃったんじゃないんでしょうか?」
 「ほぅ、誰かに似ているかね。」
 「そりゃ、私にはわかりませんけれど……。」と、宿の女は立ち上がった。
 「どうぞ、ごゆっくり。後程、膳を下げにまいりますので。」
 独りになると、ますますあの娘の事が思い出されて来る。宿の女が言うように、近くに住む、二人の娘のうちのどちらかなのか、それとも、離れた所に住む娘なのか。もしかしたら、この土地の娘ではないのかもしれないなどとも思われた。

 その夜、有島は床についてからも、なかなか寝つけなかった。あの娘の目が部屋の暗がりの中に浮かび上がって来る。
 なぜ、それ程あの娘の目が気にかかるのか、それは彼自身にもわからなかったが、心にひっかかるものがあった。どこか彼を責めるようでもある。目を閉じて、幾度も寝返りを打った。
 遠く小川の流れる音が雨音のように聞こえている。夜半を過ぎていた。

 いつの間に眠ったのか、有島は夢を見た。
 場所は判らないが、気持ちの良い日射しが射している。目の前に大きな椿の花群れがあった。椿の花の色が濃いのは、花の向こう側から日が当たっているからだろうか。椿の花を日表から見ようと、花群れの向こう側に回り込むと、離れた所に人影があった。
 あの強い目が有島を見据えていた。顔ははっきりしない。近付いて良く見ようと思うのだが、そこから先へは足が動かなかった。
 目だけが異様にはっきりしている。その目を見るうちに、有島は段々その場にいたたまれないような気がして来た。恐怖というのじゃない。やはり何か自分が責められているようだった。
 「私は、どうしたらいいの?」と娘が言った。その瞬間、急に娘の顔がはっきりと浮かび上がった。
 「君か……。」
 夢の中ではっとしたのと同時に目が覚めた。外はまだ暗かった。寝入ってから、大した時間は経っていないらしい。
 有島は暗闇に目を凝らした。闇に目が慣れて来るにつれ、天井の桟がぼんやりと見分けられた。
 「あの娘の目だったか……。」と呟いた。
 もう20年も前の事だ。その時、既に有島は所帯を持っていた。
 娘は水商売だったが、そうとは見えぬ程幼く見えた。口数も少なく、他の水商売の娘達とは明らかに違って見えたのも、有島が惹かれた理由だったかも知れない。
 彼が店の外でも頻繁にその娘と逢うようになったのは、妻が身重だったせいもあったろう。
 「奥様はいかがですの?」
 逢う度に娘は聞いたが、それは自分の罪を確認しているようでもあった。
 「順調だよ。」
 「早くお生まれになるといいわね。」
 「そうしたら、君ともこんなに逢えなくなるよ。」
 「その方がいいんですわ。」
 「そうかね。僕はいやだな。」
 「まぁ! お生まれにならない方が良いと思ってらっしゃるの?」
 「いや、そんな事はない。」
 「それならば、やはり早く可愛い赤ちゃんが欲しいでしょう?」
 「それはそうだが、こうして、君と逢えなくなるのはいやだね。」
 「そんな事おっしゃっちゃ、奥様が可哀想ですわ。」
 「そうかも知れないね……。でも、君はどうなの?」
 「私は悪い女ですわ。」
 そう言いながらも娘は、身の内から溢れ出す恋慕の炎に抗しきれないのか、有島の腕を強く抱いた。
 「悪いと言うなら、僕の方だろう。身重の妻がいるのに、こうして君と逢ってるんだからね。」
 「それでも、やはり私がいけないんですわ。いけないんですけれど……。」
 有島は、ほんの遊びのつもりで始めたのだったが、娘の方は次第に深くはまり込んでゆくようだった。娘だけでは無い。彼自身も、そうやって自らの悲しみに落ちてゆくような娘に、心を奪われて行ったのだった。
 有島の妻に子供が生まれる迄の間、彼は娘と密会を続けた。そしていよいよ子供が生まれる頃、娘は有島と逢うと泣き出すようになった。
 「赤ちゃんがお生まれになったら、もう、私とは、お逢いにならないのね。」
 「そんな事は無いさ。今迄のようには逢えないかもしれないが、逢いには来るさ。」
 「嘘よ。もう、私の所にはいらっしゃらないんだわ。」
 その頃の娘は、もはや、女としての熱情をさらけ出すだけで、自らを戒める事も無かった。娘がここまで彼に深くはまり込んでしまうとは、有島は少し意外だった。これほどまでに、自らのすべてを傾けて来る娘を見て、有島は、もはや、これ以上この娘を縛ってはならぬと思った。このままこの娘と逢い続ければ、娘を不幸にするだけだろうと思われた。それはすでに男の身勝手さを露呈しているだけなのだが、有島にはここまで強く熱情をあてがって来る娘を、この先も抱き続けていく自信が無かった。
 妻に赤子が生まれた時、有島は娘に告げた。
 「やっと生まれたよ。」
 娘は黙っていた。
 「おめでとうと、言っちゃあくれないのかい。」
 「ええ、言いたいわ。でも……。」
 と、娘は言い淀んだ。
 「でも、あなたは今日、お別れを言いに来たのでしょう?」
 娘の勘の鋭さに、今度は有島の方が、黙り込むしか無かった。しかし、彼は同時に、改めて別れ話を切り出す必要の無くなった事に、少なからずほっとしたのだった。
 そして黙って顔を見つめる有島に娘は、“きっ”と鋭い視線を向けて言ったのだった。
 「私は……私は、どうしたらいいの?」
 男の身勝手さを責めるような目だった。
 その娘とは、それきりだった。娘は、視線を投げつけただけで、言葉で責めたり、とり乱したりする事は無かった。

 「あの目だったか……。」
 暗闇の中で有島はもう一度呟いた。
 夕方、小路ですれ違った娘の目は、あの時の目だった。彼がどこかで浴びた覚えがあると思ったのは、20年前に別れた娘の視線だったのである。
 20年前の娘の目が有島の心の中にずっと宿り続けている。それは彼自身に充分後ろめたいものがあったせいだった。
 そして突然、ふっと異様な思いが浮かんだ。
 「まさか………。」
 まさか、あの時の娘が自分の子を身ごもっていて、その生まれた娘が自分を見つけたのではあるまいか?顔が似ている訳ではない。20年前の娘が、有島の子を身ごもっていたとも思えない。しかし、それは今の有島にはわかりようの無い事だった。もしもあの小路で逢った娘が、有島の娘だったとしたら、娘に謝罪をしなければならないだろうか。謝罪をしたところでどうなるものでも無い事は、彼にもわかっている。こんな山の町ですれ違っただけなのだから、このまま何もせずに旅を終えてしまった方が良いのかも知れない。けれど突然浮かび上がった疑問を、有島は拭い去れなくなっていた。それは、ある種の恐れにも似た気持ちであった。
 「まさかね……。」
 明け方迄、有島は殆ど眠れぬまま過ごした。

 朝食を運んで来た宿の女に聞いた。
 「昨日言っていた、近くにいる若い娘というのは、薬屋と写真屋だったね。」
 「はぁ……。」
 宿の女は不思議そうな目で有島を見た。
 「お客さん、行ってみるおつもりですか。」
 「ああ、なんだか気になるもんだからね。お店は何処ら辺かね。」
 「どちらのお店もこの路沿いですけれども………。」

 宿を出ると、有島は、小川沿いの小路を昨日とは逆に歩いた。それは、あの娘が歩いて行った方角だった。春の暖かい日射しに、木々が緑色に輝いている。有島が思わず目を細めたほどだった。
 しばらく歩いて、有島が「昨日、あの娘と出逢ったのはこの辺りか」などと思いながら歩いていると、小川の対岸に、点々と、椿の花群れがあるのが目についた。昨日はぼんやりと考え事をしながら足を運んでいたために気付かなかったのだろう。小川を一輪流れて来た椿の花も、おそらくこの花群れの中から散り落ちたに違い無い。椿の花群れは、高く昇り始めた日の光のやや裏側になっている。有島は夢の中の椿を思い出した。この場所からは、午後の日射しが日表になりそうだった。
 写真屋は、そこからしばらく歩いた場所にあった。この写真屋の店も有島が泊まっている宿のように古びていた。ショウケースの中の写真も古びて色褪せている。この土地で古くから唯一土地の人達の写真を撮り続けて来た、おそらくそんな店なのだろう。
 有島はおそるおそる扉を開いた。
 「いらっしゃいませ。」
 即座に若い女の声が返って来たが、有島は表の明るい日射しの中から、急に薄暗い店の中へ入ったものだから、まだ目が慣れなかった。
 「現像でしょうか?」
 「あ……、ああ、いや。」
 「お写真をお撮りしますか?」
 店の中の薄暗さに、ようやく目が慣れて来た。
 店の奥に座ったまま、声をかけているのは、まぎれもなく昨日の娘だった。
 「君はここの人?」
 「はぁ……。」と娘はかすかにうなずいた。
 それだけ聞いて、黙って店の中を見回しているだけの有島に、娘がまた声をかけた。
 「あの……申し訳ありませんが、お写真をお撮りになるんでしたら、今父が外へ出ておりますので、しばらくしてからおいで下さいますでしょうか?」
 「お父さん……。お父さんがいらっしゃるんだね?」
 「はぁ……。写真は父でないとお撮り出来ませんので……。」
 娘の口から“父”という言葉を聞いて、有島はほっと胸をなで下ろした。昨夜浮かんだ恐れが、有島の中から消えて行った。しかしそうであればなお、この娘が昨日自分の事をまじまじと見続けたのは、何故だったのか。
 「今日は、君に逢いに来たんだよ。」
 「……。」
 「覚えてないかい。昨日の夕方、この前の小川沿いの道で逢ったね。もう少し向こうの方だったが……。」
 娘は、はっと目を見開いた。思い出したようだった。
 「失礼いたしました。」
 娘は、立ち上がって深々と頭を下げた。有島は、どうしてよいかわからなかった。
 「いや……、別に怒っている訳じゃないんだ。」
 「はい……。」首をうなだれたまま、娘は、小さな声で応えた。
 「どうぞ座って……。こっちを見て話してくれないかな。怒っているんじゃないんだ。ただ君がどうして私のことをじっと見ていたのか、不思議だったものだから……。」
 「ええ……。」
 「君、由紀ちゃんていうんだってね。聞いたよ。」
 「由紀子と言います。」
 「私が誰かに似ていたかね?」
 「いえ……。」と娘は腰を降ろしながら
 「椿を見ていました。」
 「椿?」
 有島は、小川の対岸に所々椿の花群れがあったのを思い出した。しかし、この由紀子という娘の目はどうも自分を見ていたように思われる。
 有島がどうも、納得が行かぬという顔で黙って娘を見ていると、娘は顔を上げ再び口を開いた。
 「私……色が見えないんです。」
 娘の言う意味が有島にはとっさにわかりかねた。
 「色盲なんです。」
 娘の目つきの鋭さは、こんな所にあったか、と有島は思った。
 「失礼な事を聞くが……。」
 「はい?」
 有島は少し躊躇したが、色盲と聞いて、色盲の人間には景色がどんな風に見えるのか、興味が湧いた。好奇心が先立っていた。そんな時の彼は、20年前に水商売の娘と別れた時のように身勝手さがあらわになっているのだったが、それは自分では気付かない。この娘が優し気な風情なのも、彼の思いやりをゆるくした。
 「色盲と、おっしゃったけれども、それでは君には周り中が白黒に見えるんだね?」
 「いいえ……。私が見えないのは赤と緑だけなんです。」
 「赤と緑だけ……?」
 「はい。赤と緑の区別がつきません。」
 「赤と緑だけ白黒なんだね?」
 「いいえ、普段は見えるんです。ただそのものに注目すると、赤と緑の区別がつかなくなるんです。」
 赤と緑……椿か……と有島は思った。この娘は椿の花を見る事が出来ない。椿の花を見ようとすればする程、葉と花の色の区別がつかなくなるのだ。
 「それで椿なんだね。」
 「はい。」
 しかしそれだけでは、娘が何故有島をじっと見続けたのかがわからない。
 「けれど、何故私を見ていたのかね?」
 「おじさまを見ていると、何故か後ろの椿がはっきり見えたんです。」
 「私を見ているとね?」
 「よくわかりませんけれども、さっきも言いましたように、私の場合、そのものを見ようとすると、赤と緑の区別がつかなくなります。多分、おじさまを見る事でおじさまの周りの椿がよく見えたんじゃないかと思います。」
 有島は何故か、胸が明るくなった。自分を見る事でこの娘が椿の花を美しく見る事が出来た。日表になった椿を……。その事がただ嬉しいのだった。
 「普段はよく見分けられない椿の赤が……緑と赤がおじさまの周りだけはっきり見えたんです。だから、目をそらす事が出来なくて……。もう嬉しくて。」
 娘がまるで、責めるような真剣な眼差しであったのも、そのような事情の上であれば納得出来る。この由紀子という娘にとって、普段感じられない色を感じ、見極められないものが見えたという事は、自分自身の魂を傾けるような心地だったろう。娘の魂が自分の目を通して彼自身の中に入ったと思われたのも、そのせいであったか、と有島は思った。
 「私も昨日ね、君と逢った時に、小川を流れる椿の花を見ていたんだよ。一輪だけだったが、実に綺麗だったね。」
 娘は有島の言葉に微笑んだ。そして不意に思い付いたように立ち上がった。
 「そうだ。父の撮った写真の中に、水に浮かんだ椿の花の写真がありますのよ。」
 「ほぅ、是非見てみたいね。」有島も微笑んだ。
 「何処にしまったかしら……。父が帰ればわかるんですけれど……。父が帰るまでお待ちいただけますか?」
 「いや、それにはおよばんよ。そろそろ失礼する。」
 有島はすべての胸のつかえが取れて、実に晴れやかな気分だった。
 「それでは、後ほどお持ちしますわ。おじさまは何処にいらっしゃるんですか?」
 「この路沿いの宿屋に泊まっているんだが……。」
 「あとで父が戻りましたら、写真を探してお持ちしますわ。」
 「でも、それは悪く無いかね。」
 「あら、いいんですの。うちは写真屋ですから、焼き増しをすれば何枚でも作れますわ。」
 「それは、そうだが。」
 「いいんですの。差し上げますわ。」
 「それじゃ、お願いしようか。」
 店の扉の外は、高く昇った日の光が眩しく、有島は思わず目を細めた。
 手を目の上にかざして日射しを避けながら、娘に軽く挨拶をした。
 「それじゃ。」
 「それでは、後ほど。」
 店先へ出て、有島を見送る娘の目に、木々の緑色が映るようだった。

- 完 -