昭和47年4月16日、川端康成は逗子マリーナのマンションの一室で自らの命を絶った。ガス自殺。72歳だった。遺書の様なものは一切残されていなかった。
絶筆は「志賀直哉」。遺作は昭和39年から書き綴って来たまま、未完の「たんぽぽ」である。遺稿(という言い方は正しくないかもしれないが)は、死の直前、昭和47年1月、2月に書かれた「雪国抄」という事になるだろうか・・・。
生まれてすぐに両親を亡くし、引き取られた祖父も早くに亡くして孤児となった川端が、死を選んだその日に見ていたのは何だったのだろう・・・。
川端秀子夫人の「川端康成とともに」の中に、逗子マリーナのマンションについて「・・・それに富士の見える部屋でしたから、湯ヶ島でごろんと寝ころがって富士山を見ていた時のことや、鎌倉のなぎさホテルや海浜ホテルで仕事をしていた時の郷愁があったのかも知れません。」とある。
あの懐かしい湯ヶ島・・・。踊子と語らい、淡い恋をし、作家としての駆け出しの頃、まるで自分の家の様に滞在し続けた場所。
懐かしさという空気に浸る中で、川端の胸に去来したものは・・・。
踊子の眦に滲んだ紅や、若き日に伊豆から見た富士だったのだろうか・・・。
何れにしても、川端の死は、ほんの一瞬の発作的な衝動だったに違いない。

川端康成が死んだその日、不思議な現象があったと、伊吹和子著「川端康成 瞳の伝説」に書かれている。
鎌倉に住む中央公論社社員の話という次の文である。
「そう、そうなんだよ。波も穏やかでね、いい気持で岩の上にいて、夕景になって江ノ島の方を見たら、美しい雲が光って、こんなきれいな夕焼け雲は見たこともない、とびっくりしたんだよ。そしてしばらくしたら、急にその雲が赤紫とも茜色とも、何とも言えない色に変わって、風がざあっと吹いたと思ったら、何百とも知れない千鳥が、どこからか一斉に飛び立ったんだ。それが、発表された川端先生の死亡推定時刻に合うんだよ。あの時なくなったんだと、僕は思いますね・・・」
伊吹和子女史自身も、その細く輝く雲を立原正秋邸の庭から見ていたと言う。
その日、川端康成は、細く輝く雲を残して、作家として生きた世界に別れを告げた。

逗子マリーナ
このマンションの一室で川端は自らの生涯を終えた