華菜島-1-


 「大丈夫ですかね。」羽鳥が言った。
 二人は父島へ向かう船の上に居た。
 例の緊急連絡のテープを確認した後、山科はすぐに小笠原行きの定期連絡船の手配をしたが、小笠原迄の便数は少なく、乗船迄に2日待たされる事になった。しかも東京からの定期連絡船は、父島迄しか運行していない。華菜島へは、父島から更に小型船舶をチャーターする必要があった。
 「何が?」山科は羽鳥を振り向いた。
 「今迄2隻沈められてますからね。」
 甲板から海を見つめる羽鳥の顔には、不安がにじみ出ている。
 山科は、可笑しくなった。"ゴジラ伝説を本気で信じているのか"と、言ったのは羽鳥の方なのに、今、逆にこの男は自分でそれを心配しているのか。
 「羽鳥、お前こそゴジラを信じているんじゃあ……。」山科はにやにやしながら羽鳥の肩を叩いた。
 羽鳥は慌てた様子で、
 「違いますよ。怪物なんか信じちゃいません。でも、やっぱりあの華菜島の漁船の事故は、普通じゃ無いです。それで、ずっと考えていたんですがね、潜水艦にしてもですよ、2度というのはおかしいですよ。」
 「おかしい?」
 「おかしいです。事故なら、少なくとも1度衝突事故を起こせば、船に重大な損傷が無かったにせよ、もうぶつかるまいと気をつけるのが普通だと思うんです。自分の正体を隠したいなら尚の事です。でも、2度もぶつかってる。」
 「そこには何か意図があったと?……」
 「そうです。こんな事を言うと笑われそうですが……、山科さん、ヴェルヌの"海底二万マイル"知ってます?」羽鳥は真剣な目つきで山科を見つめている。
 山科は声を上げて笑った。"この男は何を言い出すのかと思ったら、今度は古臭いSF小説だ"。連続事故の海域を通過するのが不安なのは判らないでは無いが、あまりにも発送が稚拙ではないか。
 「ネモ艦長のノーチラス号が居るって?」
 「違いますって……。唯、似てるじゃないですか。あの物語も、発端は日本近海だったし、船に体当たりして沈めて行く潜水艦の話ですよ。だから、あの物語を利用した、テロという事だって……。山科さんこそ、今回の2度の事故をどう思ってるんです?」
 山科は海に目を移すと、手すりに手をかけた。
 「俺は単純に衝突事故だと思ってるよ。2件ともね。今はそう思ってる……。」
 「じゃ、"ゴジラ"はどうするんです?」
 「勿論調べるさ。その為に来たんじゃないか……。唯、怪物探しをしようっていうんじやない。"ゴジラ"は単なる客寄せパンダだよ。今回の事故の原因が潜水艦だとしたら、そいつこそが現代の"ゴジラ"じゃないか。華菜島の漁船が、その残骸にしろ回収が済んでいるとすれば、そいつから何か掴めるかも知れないしな。」
 「なるほどね……。」それでも、まだ羽鳥は不安気に水平線に目を向けた。
 お互いが黙り込むと、潮の香りが強く感じられる。風も穏やかで船が波を分けて行く音も心地よい。
 「なぁ、羽鳥……。」随分経って、山科が口を開いた。
 「なんです?」
 「お前……、結婚はまだしないのか……?」
 「なんですか、いきなり。」羽鳥は笑った。
 「しようったって、独りで出来る訳じゃないですからね。」
 「そうだな……。」山科は口の右端を少し釣り上げた。明らかに作り笑いだった。
 「山科さんは良いですよね。綺麗な奥さんが居て。……あ、山科さん、船上で、もう奥さん恋しくなっちゃいました?」
 「馬鹿。結婚してもう何年経つと思うんだ?7年だぞ、7年。もうそんな甘い時期は、とうの昔に忘れちまったよ。」
 山科は淳子の事を考えていた。淳子は以前山科の会社でアルバイトとして働いていた娘だった。彼の下で、こまごました仕事を担当していた。その頃淳子は大学院生だったが、彼女は今もそのまま大学の研究室に残り、遺伝子工学の研究を続けている。
 彼女がアルバイトとして山科の会社へ来ていたのは1年程だったが、普段から行動を共にする事の多かった二人は、彼女がアルバイトをやめてからも、都合を合わせて逢う事がしばしばだった。勿論それは単に食事をしたり、酒を飲んだりという事に過ぎなかった。
 深い関係になったのはこの半年位だろうか。
 最初に気を許したのは淳子の方だった。いや……最初にその気になったのは、山科の方だったかもしれないが、彼にはまだ妻の慶子に対する後ろめたさがあったのである。
 部屋の灯りを消したホテルの一室で、山科は、窓からの夜景に薄く浮かび上がった淳子の、夢の様な裸身を抱いた。
 「遺伝子工学を研究している君が……良いのかい。こんな……。」
 「興醒めする様な事、言わないで。生物には遺伝子に脈々と受け継がれた、種の保存本能というものがあるのよ。本能には抗えないわ。」淳子は"ふふ"と小さく笑うと、そう言った。
 「遺伝子工学の研究者らしい、台詞だね。」
 「あら、これはもっと動物学的な話だわ。遺伝子工学とは分野が少し違うの……。関係はあるけれどね。」
 「何れにしても、理性を持つ人間とは言え、本能には抵抗出来ない訳だ……。生物としての遺伝なんだね。」
 「そう……ずっと太古からのね……。」そう呟く様に言うと、淳子は山科の唇を塞いだ。
 彼は、妻の慶子に特別な不満を持っていた訳ではない。それでも淳子に惹かれたのは何故だったろう。淳子の若さ……?いや、そればかりでは無い筈だった。彼の妻の慶子は今でも十分に若々しいままでいたし、すれてもいなかった。
 "では、何故……"
 考えてみても、山科自身はっきりとした答は出せない。行動的な淳子に妻の慶子には無い何かを見付けたのだろうか。しかし、それは淳子の言う様に、単に生物の"雄"としての身勝手な"本能"に過ぎないとも思われる。何れにしても今の彼は淳子に強く惹かれていた。そして淳子に惹かれて行く分、妻の慶子に対して何処か冷めて行く自分が居る事も、山科は気付き始めている。妻の言葉の端々に彼は気持ちを尖らせる事が多くなっていた。
以前には無かった事だ。妻が自分を気遣ってくれている事は痛い程判っている。判っているのに、鬱陶しく感じるのは、何処かで淳子と比較しているからに違い無かった。今回の華菜島への出張にしても、淳子には自ら電話を入れたのに、妻の慶子には、同僚に伝言を頼んでしまったのも、妻の言葉を聞きたく無かったからだった。出張を決めてから、出航迄は日数があったのに、話す気になれなかった。説明を求められそうなのが、なんとなく嫌だったのだ。"愛情が萎えてしまった訳じゃない"と山科は思った。
 "淳子への愛情が強くなっただけだ……"

 「山科さん!」
 羽鳥の声で山科は、はっと現実に引き戻された。
 「やっぱり奥さん恋しいんでしょ?」羽鳥はにやりと笑った。
 「馬鹿言うな……。何だ?」
 「山科さんは華菜島の古文書の"ゴジラ"って元々は何だと思いますかって聞いたんですよ。」
 「"ゴジラ"ねぇ……。」山科はそう言いながら空を仰いだ。午前10時に東京の竹芝桟橋を出たのだが、もう日はかなり傾いていた。
 「ステラーダイカイギュウか何かじゃないかという気もするな。」
 「ステラー……何です?」
 「ステラーダイカイギュウだよ。今じゃ絶滅したとされている生物でね、姿・形はマナティーとかジュゴンに似ているが体長は7、8mもあったそうだ。骨格からマナティーやジュゴンとは別種扱いになっているみたいだけどな。1700年代後半迄は生きていたっていう記録があるそうだ。1800年代半ばにもそれらしい姿を見たっていう報告もあるらしい。」
 「へぇ……そんなのが居たんですか。で、そいつは凶暴な奴なんですか?」
 「いや、いたって大人しい奴だったらしい。」
 「そんな大人しい奴が怪物伝説の元になりますかね?」
 「得体の知れないデカい奴は、怪物って言われてもおかしくないだろ?」
 「なるほどね……。で、そいつがこの辺りに生息してたんですか?」
 「いや……、ベーリング海だけどな。」
 「ベーリング海って……無茶苦茶北じゃないですか。そいつがこんな所迄南下して来るんですか?」羽鳥はいかにも呆れた、という顔をして見せた。
 「そうじゃないさ。そういう話が形を変えながらここ迄伝わったんじゃないか、っていう話さ。」
 「はぁ……しかし、山科さん詳しいですね。」
 「まぁな……。」
 淳子だった……。淳子からの受け売りだった。この華菜島への出張に出る前日の夜、山科は淳子へ出張を知らせる電話を入れたのだが、その時、彼の話した華菜島のゴジラ伝説を聞いて、淳子はステラーダイカイギュウの話をしたのである。
 「詳しいんだね。遺伝子工学ってそんな事迄やるのかい?」
 「やらないわよ。」と淳子は笑った。
 「唯、近世の絶滅種に関してはちょっと興味があるから、本を読んだりしてるだけ……。ね、でもその"ゴジラ"伝説面白いわ。帰って来たら詳しく教えてね。」
 「あゝ。判った。しかし、淳子も変わった事が好きだねぇ。」
 「あら、好奇心旺盛と言って欲しいわ。遺伝子工学なんて常に好奇心を持っていなければ出来ないもの。」
 「俺も好奇心は旺盛な方だけどな。」
 「そうね、小さな島の神社に伝わる古文書の怪物を調べに、わざわざ出張に行く位だものね。それと……私なんかと、つき合ってる……。」
 「本能だろう?」
 「そうだったわね。」淳子は可笑しそうに笑った。そして、電話を切る直前、まるで小さな子供の様に、山科にこう言ったのだ。
 「行ってらっしゃい。お土産を忘れないでね。」

 その夜、山科は揺れる船室で中々寝付かれなかった。ウトウトしてしばらくすると目が覚める。その繰り返しだった。隣を見ると羽鳥はぐっすりと寝入っていた。
 「こいつはどんな状況でも熟睡出来るんだな。」
 昼間、海底二万マイルを引き合いに出して迄、国籍不明の潜水艦のテロを恐れていたと言うのに、羽鳥はそんな事はもう忘れてしまったかの様に眠り込んでいる。"都合良く出来た奴だ"と山科は思う。こう熟睡出来ずにいると、逆に山科の方が不安になって来るのだった。眠れないままの時間を持て余し、色々な事が頭に浮んで来る。羽鳥の言った"テロ"の話も妙に真実味を帯びて来る様な気がするのだ。
 "今、この場を攻撃されたら、どうしようもないな……。"
 もし、この出張で命を落とす事があるとすれば、最後の会話は淳子とだったなと、山科はそんな事迄考え始めていた。
 どの位経った頃だろう、明け方近く何度かの浅い眠りと覚醒を行ったり来たりした後、山科はふと、遠くで鳴る雷鳴の様な音を聞いた。外はまだ暗く、その音も夢の中なのか、現実なのか、判然としなかったが、ゴロゴロという雷の様な、何かが軋む様な、そんな音だった。
 "天気が崩れているのか……"と山科は思った。夜が開けて父島へ着いたら、今度は小船で華菜島へ渡らなければならない。天候が荒れているのは嬉しい事では無かった。又、定期連絡船の運行スケジュールから、時間単位で出張を延長する事は出来ず、取材の日数も限られていたので、もし、華菜島へ渡れないとすれば、それは致命的だった。取材の為に地元の郷土史研究家の同行も依頼していたが、場合によってはその男へのインタビューだけで終わってしまうかもしれない。山科は、何としても華菜島へ渡りたかった。
 いつの間に眠ったのか、山科は羽鳥に起こされた。
 船窓からは明るい日射しが差し込んでいる。山科は安堵の溜息をついた。

to be continued