あの、雨に煙る銀色の海を見たのは、いつの事だったろう。
入道雲に誘われて、午後の講義をサボって海へクルマを走らせた夏は、何処へ行ったんだろう。
夕陽を追いかけ、夕暮れに紫に染まってゆく海を見るために、あの岬のコーナーを駆け抜けたのは、一体どの位昔だったんだろう。
それはまるで遠い幻の様に……浅い夢の中に輝いている。
けれども僕は思う。いつか何処かで聞いた事がある。
「浅き夢みし……」。
浅い夢……。目覚める前に見た夢は叶うと……。
あの海沿いのサンクチュアリを取り戻すには……あの波や太陽の反射を取り戻すためには……もう一度……ワクワク出来るクルマが要る。もう一度クルマでワクワクしたい。ワクワクするクルマで、あの海へ出かけて行けば、きっとその時浅い夢は叶うに違いない……。
そして僕は確かめたい。僕が記憶の中で見たものは、決して幻なんかじゃなかったんだと……。

SCENE1 SHUTO EXP.WAY ( IN THE NIGHT )

夜更けの首都高速横羽線。子安ランプ横のコンビナートの灯りが、巨大な鉄製のクリスマス・ツリーの様だ。闇の中を彼方へ緩やかにうねって行く、青白い色の道路灯。
その灯りを追う様に……辿る様に走って行く。小さな街灯りと、彼方に夢の様に瞬くコンビナートの灯り。羽田空港脇を抜け、トンネルを抜けると、海と、そこから続く水路に夜景が映り込む。
僕は幾度この光景を見て来ただろう。あの夜、グリーンのメーター照明を眺めながら想っていた夢や憧憬は、今、幾つ叶っただろう。時が流れて、眺めているメーターの色は濃いオレンジに変わり、 BGM も変わったけれど、それでもこの夜景の中で選ぶのは、やはり優しいバラードなのは変わらない。大好きなクルマに乗って、メーターの照明だけを頼りに、慰めてくれる様なバラードを聞きながら、点々と散らばる夜景の中を走って行くのは、現実から遠く離れた世界の出来事に思えてくる。今夜があの夜と重なる。時間のテープが巻き戻される。たまらなく切ない気持が、たまらなく愛しい。
東京タワーが大きなロウソクの炎の様にそびえている。あの頃の東京タワーは、確かまだ小さな灯りで縁取った輪郭だった。想い出のあの夜を追いかける様に、東京タワーを追い越して、会社線へ入ると、まるでメトロポリスの映画の様に、ビルの間を駆け抜ける高架道路になる。僕は何故かこの場所へ来ると、無性に哀しくなるんだ。
そして八重洲の地下トンネルへ駆け降りてゆく。シフトを上げて、駆け降りてゆく。
時速100km/h迄メーターの針を数える。トンネルの中のカーヴでシフトダウンしてステアリングをきると、夢はやがて覚め始める。
あの夜、僕が想っていた女性は、とうとうこんな夜景を一緒に見る事も無く去った。次に愛した女(ひと)は、美しい夜景を眺め、流れ星を指差して微笑んだけれど、願いが叶う事はなかった。そしてまだ僕は、次の愛する人を見つけられないまま……。
トンネル内のカーヴを抜けると、地上への出口だ。急な坂を駆け上がって、いつも渋滞している環状線に合流する為にブレーキを踏む。ほんの少しの間だけ混んだ環状線に紛れ、池袋方面への 5号線へ逸れると、再びアクセルを踏み込む事が出来る。けれど、もうここからは記憶のテープは戻らない。現実の時間が過ぎて行くばかりだ。夜景は相変わらず綺麗な筈なのに、何故か美しくないのは、夢ではなくなっているからだろうか……。
会社線が、記憶のタイムトンネルになっている。
僕は、地上に光る星々の間を走り乍ら、 BGM のバラードをつなぎとめて、夢から覚めてゆこうとする気持と闘っていた。

SCENE2 AT SEA-SIDE (A DAY)

岬の突端、フェリー乗場の前のゆるやかな坂を上り、再びゆるやかに下ってトンネルを抜けると、道は先の方で急激に右へカーヴしている。正面はブルーグリーンの海だ。
ギヤを一段落としてステアリングを切ると、遠い水平線を左手に、海沿いのドライブが始まる。湘南道路程華やかで無く、思いがけず静かな海だが、懐かしさや夏の花火の様な刹那的な思いにさせる所は変わらない。ここから始まる海の道が、そのままあの頃につながるセンチメンタル・ロードだ。
CDのオートチェンジャーを操作して、気に入った曲をかける。そういえばあの頃は、カー・ステレオといえばカセット・テープで、好きな曲を集めたテープをよく作ったものだった。そのくせ、一番好きな場所で、一番聞きたいと思う曲は、うまい具合にシンクロしてくれず、いつも悔しい思いをしたものだった。今ならCDで簡単に頭出しが出来る。好きな場所で、望んだ曲を聞きながら走る。あの頃思い描いていた、ほんの小さな望みが、小さく叶った。
剣崎へ向かうと道は高度を上げる。右にカーヴしながら駆け上がるこの場所は、実は逆のルートを辿った方が、良い景色だ。坂を駆け上がってからは、道も細く、海も彼方になる。遠く広がる畑や林のその向こうに横たわる海は霞んで、晴れた日でもその存在を消してしまう時も多い。だからここから濃い藍に輝く海が見えると、とても得をした気分になるんだ。
地元にとっては生活の為の道路をすり抜けさせてもらって、三崎漁港を抜ける。油壷へ向かう道を、途中のT字路で油壷とは逆方向へ向かって裏道を選ぶと、しばらくは海の香ともお別れだ。
大学時代、友人に教えてもらった狭い狭い裏道を抜けて、134号線へ出る。
三崎駅前を抜けて北上するこの道は、なんのへんてつも無い普通の道で、景色も良くは無いが、幾度も幾度も慈しむ様に走り続けて来た僕にとっては、再び海を見る為の……三浦海岸よりも華やかな海と巡り逢う為の、あの海へと続く道なのだ。
そしてやがて……突然の様に海が見える。葉山だ。逗子に近付くと、道はどんどん細く、両側には商店が並んで、海を隠すけれど、強い潮の香は、ここが海の際である事を隠せない。
切り通しを通り抜け、長柄のトンネルを抜けて来る道との合流点を左折すると、そこから始まるのは、湘南道路だ。
さぁ、もう一度走ろう。この短い湘南道路が思い出の蓄積された場所。そして思い出を蓄積する場所。
夕日がまだ赤いうちに。