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プロローグ第一章「夏の終わり」-1-第一章「夏の終わり」-2-
第二章「大黒埠頭」



第三章 「真夜中の匂い」

11月に入って、僕は卒論を急がなくてはならなくなった。就職活動の頃から少しづつ手がけては来たものの、まだまだ完成には程遠かったから。本もあと何冊か読まなければならない。こういう時に週休6日制はありがたいのだが、実際問題、昼間は何をする気にもなれないので、昼過ぎに床を起きてからはTVを見たり、ステレオを聴いたり、ラムダを走らせたり、と卒論には全く手もつけずに遊んでいて、卒論は夜10時頃から翌朝3時半頃迄やる-という不健康極まりない生活だった。もうこれからは嫌でも一生働かなくてはならないと思ったら、アルバイトもする気になれないまま、そんなダラダラとした、けれど自分にとっては精神的に充足した日々を過ごしている。
夜中にラジオの深夜放送を聞きながら卒論を書くのも、結構楽しかった。

そんなある日、大学の部室でいつもの様にたむろしてバカな話をする中、斉藤から来年始めにクルマを買い替える話を聞いた。
「ヤッタネ!!斉藤センセー、いよいよ新型スカイランかな。」
「あゝ、だったらいいけどねぇ。働き出したら返すって形で、親に借金もしなくちゃならないし……そうだなぁ……RSじやなくても、せめてスカイラインならいいけど……金無いし……多分サニーかなんかなんじゃないかナァ。」
「フ〜ン。」
突然、現実という壁が目の前に立ちはだかった。“やっぱり夢だったんだ……スカイラインもスタリオンも……。”
僕自身も考え直さなければならない。やはりスタリオンは無理かもしれない。
「福山センセー、でもオレ最後迄あきらめないよ。」
「そうだね。頑張ってRS買って下さいよ。」そう言ったけれど、僕にとっては考えを変える十分なきっかけとなった。

それ以後、大学に出ない日は昼間はクルマの本、夜は卒論とニラメッコという生活だ。
僕は就職して1年後にクルマを買うつもりでいた。ラムダが嫌いになった訳じゃない。けれど、そのラムダはだいぶくたびれて来て、不具合も多くなったし、やはり新しいクルマが欲しかった。ツインキャブのラムダは、ほとんどのスポーティーカーが電子制御燃料噴射、つまりインジェクションになってしまった中で、まるでブルーノートのジャズの様に粋だと思っていたけれど、そのインジェクションのクルマにも乗ってみたいと思う。目安はやはり就職後1年。それ以上は待てないし、キリが無い。

「斉藤センセー、オレ就職したら1年後にランサー・ターボ買うよ。インタークーラーのヤツ。」
「スタリオンは?」
「やっぱり無理だろうと思う。」
そう言いながら、僕は少し淋しくなった。
「高いからな〜。色は?」
「ランサー・ターボだったら白だな。EC仕様のイメージで……。スタリオンだったら絶対ガングレーのつもだったけど……。」
「でも、いいじゃん。ランタボなら十分過ぎるほど速いぜ。」
「その点はね。」
「富沢センセーは就職したら、とりあえずセリカのツインカム・ターボだって言ってたぜ。いずれはソアラだって……。」
「あゝ、オレも聞いた。アイツは自分とこで買える様になるからイイよな。」
斉藤の場合は数カ月後の話だが、僕はまだ1年以上先の話。それでも今、それを決めておく事はとても大切だと考えている。学生時代に決めていたクルマを買う。それは、大学時代の想い出と気力を取り戻す事になると、そう思えるのだ。

12月……就職活動を終えてからの学生生活は、益々足を早め過ぎ去ってゆく。
深夜、卒論を書きながらラジオを聞いていた。深夜1時からやっている日本のポップスとニューミュージックを中心にしたリクエスト番組が気に入っている。
「次のリクエストです。オフ・コースの『潮の香り』。おハガキを読みます。この曲は私と彼との……。」優しい女性DJの声。僕はコタツの中で壁に貼った海の絵のポスターを見上げた。その絵は何処かハワイかアメリカの西海岸辺りの、夕暮れの浜辺の絵なのだが、僕はその絵から湘南を思い出していた。この絵の中の様な時間帯、状況を幾度も見て来たから……。明るい藤色から濃い紫に変わってゆく空。黒く落ちた街と輝き出す灯りの群れ。遠くグレーに淡く浮ぶ岬。ブルーグレーに色を失ってゆく海……。そして幸江の事を思っていた。彼女から手紙が届いた後、僕はもう一度手紙を書いた。けれど、幸江からの手紙は再び途切れたままだ。

夕なぎ 陽は暮れまどい
遠くに港の灯 見えかくれして
潮の香りに酔い
漂うクルーザー 水面まかせ
沖合い遥かに水平線
目にうつるすべては未来の安らぎ
頬をくすぐるかすかなこの風
今私にこれ以上何もいらない

ゆれるカンテラの灯
迎える人影闇にうつす
立ちつくすあなたはなつかしそうに
襟元に手をあて 私を見つめる
Umm……このひととき
ひとりだけの時間が今遠ざかる
陽が落ちた海岸道路
向こうのあの灯は葉山の街
二人車の中 明日はあなたと海へ出よう

 

[“潮の香り”・オフ・コース・東芝EMIエクスプレス]

12月も半ばを過ぎ、僕は幸江にクリスマス・カードを描いた。毎年送っているこのクリスマス・カードを彼女も楽しみにしてくれている筈だから……。

その年の暮れが素敵だった。12月30日の夜……いや、日付けが変わっていたから、正確には12月31日の午前1時頃だ。寒さと窓をカタカタと鳴らす風の音に気付いて、窓を開けると……雪……。まるで星くずが落ちて来たかの如くに……。
窓を閉めて、又あの夏の海辺のポスターを見た。ふと真夜中の匂いがした。灯りを落とした部屋の中に、不思議な懐かしさが満ちている。そう……あの鎌倉の街のような……。僕は駐車場に停めたラムダの上にしんしんと積もる雪を思った。そして三浦半島や湘南の、あの海に落ちて溶ける雪を。“幸江はどうしているだろう”と考えた。
“こんな夜に何をしよう”僕はもう一度窓を開けて、落ちて来る雪を見ていた。

to be continued