前書き

引き出しを整理していたら、大学時代の、横浜に住む友人からの手紙が出て来た。封筒を開けると、中には懐かしい車の話と、数枚の写真が……。その写真は、曇天のしかも夕暮れで顔さえはっきりとわからない位薄暗かったが、それはまぎれもなく由比ヶ浜を背にした髪の長い私の写真だった。今はもう髪も長くないなと思ったら、何だか急に悲しくなった。
私にとって車は相棒であり、又、時には恋人でもある。免許を取ってしばらくして、車が私にとって無くてはならない存在になり始めた頃から、この物語は始まる。その時から今迄、私と私の車に関わった人達、忘れられない場所、その時その時のBGMを織り込んで、フィクション、ノンフィクションとり混ぜて描きたい。
これは、私と私の車の自伝である。だから必ずしも一章毎に“ヤマ場”を設定していない。物語の“ヤマ場”はきっと全体を通して設定されている筈である。
私の心の拠り所だった数台の車達へ、感謝をこめて……。


プロローグ 「雨に走る」

昭和58年7月の初め……。雨。
「間欠ワイパーこわれてるんだ。」
ワイパーのスイッチを“間欠”にすると、ブレードはフロントグラスの中央で休止状態になってしまう。
「ホラ。」
僕はとなりの友人を横目で見て笑った。友人も笑った。友人の名前は斎藤という。大学の友人で横浜に住んでいる。車好きの仲間の一人だ。
「けっこう降って来たし、普通の作動にしたら?」
「そうだね。通常の作動なら問題無いんだ。」
中古で、もうガタが来ている上に、僕の最初の愛車であちこちぶつけたりこすったりでキズだらけだけど、海色(青)をした大好きな52年式三菱ギャラン・ラムダ1600GSは雨で人気(ひとけ)の無い三浦半島、津久井浜の海岸線を走っていた。
「せっかく休みで海に来たのに、なぁんで雨なんだぁ!」
僕にとって自分の車では始めての三浦半島だった。今、横にすわっている斎藤の車の助手席では何度も来ていたが。
「日頃の行いが悪いからさ。」
「そ〜か、おまえの日頃の行いが悪いせいか。」
「あっ、違うよ〜。この!」
斎藤が僕の左足をつねった。
「イテッ、オイ危ないよ!」
「あやまるか〜。」
「わ〜った、わ〜った。それよりさ、今度の石川ひとみの新曲イイゾ〜。」
「え、なんていう曲?」
「“にわか雨”。あってるだろ〜、この状況に!」
少しやけくそである。カーステレオのカセットを入れ替えてボリュームを上げた。

きらわれているような感じがしていたの
近づくとハンパな冗談ばかり
そっけなくふるまうこっけいな毎日
淋しかった いつも夕暮れ時は
 にわか雨、雨
 入れよ とうしろから
 にわか雨、雨
 初めての二人きり
 逃げ出したかったあの時
小さな傘の中、肩が触れるたびに
ごめんね、とあなたもあせってた

映画に誘われて、ワインで食事した
気取ってるあなたがほほえましくて
好きだとか愛して欲しいとか言わずに
深くなってゆける予感がしたの
 にわか雨、雨
 入れよ、とうしろから
 半分づつ濡れて
 にわか雨、雨
 近道を避けながら
 駅まで歩いた始まり
抱きしめられたなら、泣いたかもしれない
我慢してるあなたを信じたの

 にわか雨、雨
 初めてのふたりきり
 逃げ出したかったあの時
 

[“にわか雨”・石川ひとみ・キャニオンレコード]

雨は益々本降りになり、フロントグラスを叩く雨粒が点から面になる。
「腹減ったよ〜。」と斎藤がとなりで騒ぎ出す。
「ここら辺に何かあったよな〜。前、来た時に。」
「もうちょっと行くとデニーズがあるよ。あ〜腹減った。」

「ホ〜ラ、飯にありつけるぞ〜。」
海色のラムダはデニーズの駐車場に滑り込んだ。重いステアリングと格闘してラムダを停車位置に停めてエンジンを切る。カム・チェーンの音が止んで雨の音が大きくなった。フロントグラスを流れる雨の向こうで、デニーズの扉がゆがんでいる。車から扉までは5〜6メートルといった所か。僕は斎藤と顔を見合わせた。
「どうする?傘をさすのは面倒な気もするし……。」
「行くか!」
斎藤はニヤリと笑った。考えている事は同じ。
「そうするか!おまえそっちのドア、ロックしろよ。」
「あゝ。」
「せ〜の。」
僕達は車を出てドアをロックし、扉迄走った。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね。どうぞこちらへ。」
アルバイト風の若い女の娘が微笑んだ。僕達が通されたのは海を見渡せる窓側で、ガラスの向こうはテラスになっている。しかし、そのテラスはもう全く使われていないのだろう。海風にさらされ、白い塗料がはげて赤く錆びてしまったイスやテーブル、汚れほうだいの電灯……。けれど、その古びて朽ちかけたテラスは不思議と雨の海岸の景色に溶け込んでいた。何となくもの悲しく美しい。そう、雨の海がこれ程美しいと知ったのはその時だった。銀色に波立つ海。水平線は灰白色の空と見事なグラデーションを見せ、空と海との境界を消し去っている。
「新車が欲しいねぇ。」
斎藤が口を開いた。」
「欲しいねぇ。」
僕も言葉を繰り返す。
「オレ、スカイラインのRSターボが欲しいなぁ。」
「オレはこの間出たばかりのスタリオンのターボ。インタークーラー付きの奴……。グレードはGSR-IIだな。」
「いいよなぁ……。でも何たって高いからナァ……。夢だよ、夢。」
「そうだなぁ、マァ一寸無理だろうな。」
「でもオレ諦めないけどね。」
「オレも。」
「だけどオレ今の車も気に入ってるから手放したくないし、2台持てたら最高だろうな。」
斎藤は47年式スカイライン2000GT-Xを持っている。SUツインキャブを装備したモデルで、スカイライン・シリーズではGT-Rに次ぐホット・モデルだった。僕がツインキャブの(ダウンドラフトのストロンバーグ型だが)ラムダを買ったのも、彼の“ツインキャブは面白い”という言葉に共感したからだった。
「オレも今の車、気に入ってるから、やっぱり2台持ちたいね。ツインキャブは確かに面白い。」
「あのラムダよく吹けるもんな。」
「あゝ、実用になるのは6000回転位迄だけど、レスポンスは最高。本当、下手なDOHCより良いよ。さすがサターン・エンジンだ。」
「ワイパーがなんとかなればな。」と斎藤が笑う。
「そ〜なんだよ。あれなんとかしなくちゃ。」と僕も笑った。

注文した食事が運ばれて来る。しばらく黙って二人共食事に夢中になった。けれど、ナイフとフォークを動かしながら僕が時々見ていたのは、窓の外の景色。銀色にたゆたう海と、テラスのひさしから落ちる雨の雫。そして考えていたのは幸江(サチエ)という女性の事。幸江とは時折手紙のやりとりがあった。昔の同級生で、僕は彼女に惚れていたが、彼女はそう思ってはくれなかった。特に最近は手紙もあまり来なくなった。“彼女は見た事があるだろうか、こんな景色を。知っているだろうか。雨の海がこんなに綺麗に見える事を……。”
窓の外を見ている僕に気付いて斎藤が言った。
「そういや今年の春、夜中に走ったよな。ラムダで。」
「あゝ、そうそう。オレあんな状態で走ったの初めてだった。」
「あの時も、“どうしてこんな状態の時にわざわざ出て行くんだ”っていう位降ってたな。」
「そう、今日よりヒドイどしゃ降りだったよ。夜の湘南案内してやるって言われてさ、おまえに。オレももの好きだから出て行ったけど、オレのラムダ、ヘッドライト暗くて怖いんだよな。」
「朝比奈峠ね真っ暗でサァ……。」
「あそこの180度カーヴ。カーヴが曲がってんのわからなくて、気が付いたらサイドウインドウの中で、センターラインがぐるっと回ってんだよな。アレッと思ったら前に急にガードレールが見えたりして、あわててハンドル切って……。」
「鎌倉の段かづらは桜が咲いてたなぁ。」
「ヒドイどしゃ降りの夜桜。」
「それから西湘バイパス。おまえあそこで何キロ出してた?」
「90キロ。怖かったなぁ。ワイパー、ハイスピードにしても前は見えないし、車線のラインが光っちゃってわかんなくってサァ、気が付くと真ん中走ってんだよなぁ。」
「翌日はおまえが連れてけってウルサイから“ドルフィン”に行ったしなぁ。」
「お世話になりやした。お陰でイルカのぬいぐるみも買えたし。」
「でもあそこ混んでんだよな。ユーミンの歌のお陰で。」

あなたを思い出す、この店にくるたび
坂をのぼって今日も独り来てしまった
山手のドルフィンは静かなレストラン
晴れた午後には遠く三浦岬も見える
 ソーダ水の中を貨物船が通る
 小さな泡も恋のように消えていった


あの時目の前で思いきり泣けたら
今頃二人ここで海を見ていた筈
窓に頬を寄せてカモメを追いかける
そんなあなたが今も見えるテーブル越しに
 髪ナプキンにはインクがにじむから
 忘れないでってやっと書いた遠いあの日
    

[“海を見ていた午後”・荒井由実・アルファレコード]

「あのイルカどうしてる?」と斎藤が訊いた。
「寝てるよ、ウチで。又ドルフィンに行きたいなぁ。一寸高いけど。」
「え〜、混んでるからなぁ。それよりIZAに行きたいな。」
「あゝ、IZA行きたいねぇ。」
IZAというのは鎌倉の小町通りにあるジャズ喫茶である。僕は大学に入ってから鎌倉に魅せられ、暇を見つけてはスケッチに出かけていた。IZAはそんな時の一寸した休憩所でもあった。軽いコーヒーを飲みながら、McIntoshで鳴らすALTECのA7から流れるジャズを聴く事が出来る。
「あそこの音、聴きたいなぁ。」
「聴きたいねぇ。あそこの音って、本当に良い音かどうかは別にしても、すごくいい雰囲気で鳴ってるもんな。雰囲気だけでも充分酔えちゃう。」
鎌倉という土地と、灯りを落とした店内と……。けれどその時、何気なく店内を見回した僕は、この海沿いのファミリー・レストランの中に掛かっている絵が、総て船の絵だという事に気が付いた。そして、やわらかな音楽が流れている事も……。IZAとは違った意味で“この店もまんざらじゃないな……”と思った。

さっきより雨足が弱くなった。
「行こうか。」僕らは席を立った。

「左、オーケーだよ。」
斎藤が合図する。右にウインカーを出し、同時にアクセルを開けた。
「剱崎(けんざき)の方へ行くからな。」
剱崎は本当は“つるぎさき”という。“けんざき”というのは、我々の仲間内での愛称だった。
斎藤の道案内に従って走る。
「そこの先の二又を左。」
僕が初めて車で三浦半島に来た時(勿論斎藤の運転で、だった)、彼が何故こんな道を知っているのか不思議だった。剱崎方面はそれ程道幅も狭く、比較的車の少ない“生活道路”なのである。
左手に海を抱いて走る。雨に煙る濃い緑が右側を過ぎてゆく。車速は50キロ程。ゆるいカーヴが続く。前方に90度位に曲がった登り坂のコーナーを控え、僕はヒール・アンド・トゥを行わないワン・クラッチ・シフトでギヤを落とす。ブレーキング……。車速を落として、落ちかけたタコ・メーターの針を戻す為に、クラッチを踏んだまま、アクセルを吹かし、回転数を合わせてギヤを落とす。アクセルを踏みながらコーナリング。落ちてくる雨に向かう様に坂をかけ上り、ホッと一息。
「斎藤、就職活動の方はどうなってんの?」
我々はその時大学4年。卒論と就職が悩みのタネだった。
「マァ、色々調べてるよ。福山はいいよナァ。もう、1つダイハツが合格してるもんな。」
「埼玉ダイハツか。試しに遊びに行ってみただけだよ。ウチから5分の所だし……。ダイハツなんて行かないヨォ。だってあそこに入ったら何を買うんだい。シャレードか?オレ、スタリオンに乗りたい。」
「でも1つ、うかってるってのは気分的に違うだろう。」
「そうでもないよ。」
右に左にステアリングを切りながらコーナーを抜けてゆく。雨でカーヴ・ミラーが役に立たない。さほどきつくはないコーナーが続いている。それでも坂を駆け上がってからは道幅もいよいよ狭く、コーナーもブラインドばかりだ。しかし、中々リズムにのって調子よく走っていた僕は、知らぬ間に少しづつスピードを上げていたらしい。ある下りの左コーナーにさしかかった。勿論ブラインド。カーヴ・ミラーはあるが、やはり雨の雫で役に立たない。ステアリングを切る。
“深い!”
思ったよりコーナーは深かった。当時の僕のウデ、車ではオーバー・スピード。“ブレイクしたら……”一瞬脳裏を、テールスライドを起こして、道路脇の壁面に激突する状態が浮かんだ。
ブレーキを踏む。コーナリングの最中にうかつにブレーキングすれば、かえってテールスライドを誘発してしまう。そんな事になれば、それを立て直すだけのウデの無い僕にとっては致命的だ。けれど踏まずにはいられなかった。頭の中で“ブレーキを踏んじゃいけない”という言葉が渦巻いていたが、僕にはそれ以上踏力を増やさない様、こらえるのが精一杯だった。
「おおっ!」斎藤が隣で声を上げる。
僕の海色のラムダは狭い道幅いっぱいに膨らんで……つまり対向車線を走る様な形でそのコーナーを駆け抜けた。
胸の鼓動が収まらない。
「対向車が来たらアウトだったぜ。」斎藤はそう言ってフーッと息を抜いた。
「いや……ブレイクしたら……マズイと思って……。」
そのままハンドル切り足して行くと思ったよ。」
“なんて下手クソなんだ……”自己嫌悪に陥った。

雨足がまた少し強くなった。忘れていたカーステレオの音が、電話ボックスから雑踏の街中へ出た時の様に、また聞こえ出した。

日暮れに降り出す雨が、君を眠らせたら
うしろにドアを開いて、一人出かけよう
傘はひとつ、君のものだから
僕は濡れて歩くだけ
 冷たい時も、やさしい時も、いつでも側に
 いて欲しいと君は言うけど、聞こえない振りさ
 雨に濡れてるくちなしの花、香りが昇る
 君の愛と僕の自由が、すれちがうように

灯りをつけたら、君の傘はどこにもなくて
机の上のコップに、刺した白い花
僕はきっと、枯らせてしまうよ
だけど君の所為じゃない
 裏切ることも、傷つくことも、みんな許せる
 そんな季節にできる事なら、たどりつきたい
 君は東に僕は西に、愛を捜して
 さまよい歩くよ、幼い夏の雨が上がるまで

 雨に濡れてるくちなしの花、香りが昇る
 君の愛と僕の自由が、すれちがうように
 君の愛と僕の自由が、すれちがうように

 

[“レイニー・サマー”・鈴木雄大・東芝EMI]

その日は一日雨は上がらず、それから僕は少しだけ無口になった。

to be continued