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その11その12その13



 踏切の警報が遠くの出来事の様に鳴って、反対側のホームに逗子行きの横須賀線が滑り込んで来た。
 「好きだよ。夏の海って書いて“なつみ”っていう名前だった。フラれたんだ。確かに君と今日出会う迄は、僕の中には夏海しか居なかった。でも君と一日歩いて、僕はどんどん君に魅かれて行った。夏海に対する“好き”は、恋愛感情じゃなくなったんだ。」そう言い乍ら、康志は自分自身の言葉を疑っていた。
 本当に夏海は愛情の対象では無くなっているだろうか。潮里に魅かれていき乍ら、夏海はもう恋愛感情では無いと、自分自身思い込んだだけかもしれない。愛した人を、引き潮が引いて行く様に、恋愛感情抜きの人間愛等という道徳的な関係に迄、堕とせるものだろうか。それは、自分の愛する感情に順位付けをしているだけではないのか。今、潮里が消えてしまえば、夏海は再び自分の最大の恋愛のモニュメントとして浮上しはしないか。けれど彼には迷っている時間は無さそうだった。逗子行きの横須賀線が、こだまの様なレールの響きを残して去り、そして次にやって来るのは東京行きの上り電車だからだ。康志は自分自身の夏海に対する気持の迷いを過去の記憶の中に押し込めた。
   「いいの。別に責めてる訳じゃないの。さっきも言ったけど、私の事を好きだって言ってくれたのは嘘じゃないと思ってる。でもね、その夏海さんていう人の事、康志さん……大切に思ってるでしょう?きっと……やり直せるわよ。」それは、何処か諭す様な言い方だった。彼女の中の“弱い母性”が再び表われていた。
 潮里が佐助稲荷で、康志の“夏海はもう恋愛感情じゃない”という言葉を純粋に受け取ったのは、演技等では無かっただろう。しかし、彼の中に夏海という女性が、消す事の出来ない記憶として存在しているという事自体が、不信の根になっている様だった。
 「好きなのは、君だよ。」
 「うん……。でもそれは、今私が目の前にいるからだと思うわ。今日ここから帰ったら、私の事なんか好きじゃなくなるわ。」
 康志はその言葉を否定しなければならなかった。けれど、まるで彼の思いが見えているかの様な彼女の言葉は、康志を一瞬たじろがせた。一瞬の間を費やしてしまった後では、否定の言葉は真実味を失いそうだった。
 「どうしても、自殺するっていう考えは変わらない?」康志は否定する代わりにもう一度訊いた。
 「ごめんなさい。」
 「君がそんなに自殺に固執するのは、どうしてなの。」
 「さぁ、どうしてかしら……。」潮里の応えは他人事の様だった。
 「なんとなく何もかも嫌になっちゃったっていうのは本当なの。曖昧な様だけど……。今日は楽しかった。でも、それももう終わってしまうでしょう。そうするとものすごく辛いの。普通の人は“あゝ、楽しかった”って思って、それで済んでしまうと思うのね。でも、私は違うの。楽しい事が過ぎ去ってしまうと、たまらなく辛くなるの。そうすると楽しかった筈の事も、自分を辛くするだけのものになってしまうでしょう。楽しい事じゃなくなってしまうの。」潮里の言葉には共感出来る所があった。それは康志自身にも理解出来る気がした。誰でも多かれ少なかれ、そういう事はあるのではないか。唯それが“自殺する勇気”を奮い立せる程、強い辛酸となってしまうという事が信じられなかった。康志は何と言って良いか判らなかった。
 「美砂からなの……。美砂の姿を見ていてそれに気付いちゃった。」
 「判った……。」判った訳ではなかった。判ろう筈もなかったが、康志は彼女と違う思いを交える事を避けたのだった。別れの時間を気にしていた。
 「判ったよ。君がどうしても死ぬというなら、その君の気持を理解したいと思うよ。唯信じて欲しいんだ。本当に好きなんだ。」
 「もうそれだけで充分。いい思い出になったわ。」潮里は微笑んだ。桜橋で見せた、あの笑顔の様に穏やかで親しげな笑顔に見え、それが彼にとって微かな救いに思えた。
 「僕は約束を果たせたかな?」
 「え!?」
 「今日一日、ちゃんと君の恋人になれたかな。」
 「ありがとう。康志さんは今日、私の恋人だったわ……。“好き”だと迄言ってくれた……。それがたとえ今日だけの気持だったとしてもね。」
 康志は潮里の言葉を聞き乍ら、桜橋で出会ったのは、もう随分前の事の様な気がしていた。あの日差しさえ懐かしい。今のこの瞬間も、懐かしい記憶のひとつになってしまうのだろうか。康志の潮里に対する気持は、彼女の心の奥深くには届いてはいない様なのが、悲しい気がした。けれどそれは、康志自身の迷いの所為であるのかもしれなかった。
 緩やかな風が吹いて来た。優しい息づかいの様な、康志がいつも吹かれた鎌倉の風だった。ふと、桜橋の欄干の朱色が浮かんだ。
 “桜橋……。”暖かい陽の光……、若葉の緑……、日を受けた、潮里の肩まで垂れた髪……。  「もう一度会おう。桜橋で……。来年の今日。同じ時間に……。死ぬのはそれ迄待って。そうしたら信じて欲しい。僕が今日だけじゃなく、君の事が好きだっていう事を。自殺はそれから考えれば良いじゃないか。」
 潮里は少し驚いた様だった。眼の表情が変わった。
 「好きでいられる?一年も先迄……。音沙汰無しで……。」
 「いられるさ。絶対。」
 「私は駄目……。」彼女は目を逸らし、暗く微かに光るレールに視線を落とした。冷たく固まった人形の様だった。藍に色を失った景色と同化して、生気を失い始めたかに見え、康志は焦った。潮里が藍の中に完全に染まってしまわない様に、思わず手を伸ばしそうになった。
 「怖いんです……。もし一年後、康志さんが私の事を好きでなかったら……。私はもう、これ以上そういう辛さを重ねたくないの。それに一年間も耐えられそうにないもの……。今日の楽しかった思い出と、その思い出の辛さだけで充分。」
 「じゃあ、半年後でもいい。明日だって……。」
 「康志さん……、明日から毎日の様に私と会って、こうして一緒に居たとして、この先いつか夏海さんが現われた時、それでも心から私が好きだと思えるかしら……?その時私は夏海さんに嫉妬もせずに、康志さんを少しも疑う事も無しに居られるかしら……?結局美砂と同じになってしまう様な気がする。私はそんなのが嫌で死ぬの。康志さん……判ってくれたよね。“判った”って言ってくれたよね。」静かで優し気だが、それは康志を責めている様だった。いつの間にか康志は彼女の“自殺願望”を否定する側に立っていた。やはりそれが彼女を固執させ始めているのだろうか……。しかし彼女の言うまま、物判りの良い人だけを演じていては、潮里を失う事になってしまう。彼は潮里を失いたくなかった。
 「信じて。僕を信じて、一年待って欲しい。来年、僕が君の事を本当に好きだっていう事が証明出来たら、今度は僕からのお願いだ。僕の恋人になって欲しい。一日だけじゃない。ずっと……。」
 「嬉しい……。本当に嬉しい。でもその分辛さも増すのよ。やっぱり約束通り、今日だけの恋人でいましょう。」
 東京行きの横須賀線のアナウンスが流れ、踏切の警報が鳴り出した。
 康志はそれ以上言葉を繋ぐ事が出来なかった。潮里を慕う気持を告げれば告げる程、彼女の辛さを増し、自殺へ追いやってしまう事になるのだった。
 「僕に見送らせてくれないかな……。君が先に乗って。僕は君を置いて行きたくない。」
 潮里は一瞬迷う様な素振りを見せたが、微笑ってうなづいた。そして掌に乗せていた桜色の貝のかけらを、康志に差し出した。
 「あげる……。」
 「ありがとう。由比ガ浜での君を思い出すよ。」
 横須賀線が、風を引き連れてホームに入って来た。康志は、走行風に髪が乱れるにまかせた潮里を見つめていた。この夕闇の中では、髪は深々と黒いままで、赤く透ける筈も無い。生気の“か弱さ”と“意志の強さ”が、力無く乱れた髪と電車を見据えた眼に表われている様だった。
 扉が開く。
 「スケッチをありがとう。」
 「僕は来年の今日、やっぱり桜橋に来るよ。君を待ってる。」発車のベルの翳で康志はもう一度告げた。それでも潮里には聞こえた筈だ。
 「じゃ。」潮里は一言だけ言って微笑んでみせた。
 扉が閉まると、顔の横で小さく手を振った。
 動き出した電車のガラス越しの潮里の顔は、夜の迫り始めた濃い色の空気に隠されて、すぐに見えなくなった。レールに伝わる車輪の響きがいつまでも鳴り止まなかった。
 康志は桜色の貝のかけらを、潮里がしていた様に、指でつまんで空にかざしてみた。暗い色だった。

 あの日から一年……。今、康志は桜橋に立っていた。
 思えば、去年は不思議な年だったと、彼は思った。一人の女性アイドル歌手の自殺をきっかけに、自殺が大流行した年だった。毎日の様に、テレビや新聞が若者の“たいした理由も無い自殺”を報じていた。康志はその度に震える程恐れ乍ら潮里の名前を探したが、幸いにも彼女の名前を見つける事は無かった。もっとも、総ての自殺が報道される訳ではないから、潮里が生きているのか、それとも死んでしまったのか、本当の所は彼には判らないままだった。潮里もそんな社会現象の中に巻き込まれた一人だったのだろうか。
 この一年間康志は潮里の事を忘れた事が無かった。それが本当に潮里独りを愛して、他の誰も心の中に棲まわせる事の無い純粋な気持なのか、それとも夏海との単なる順序付けなのか、判らないままだったが、少なくとも康志は夏海とやりなおす為の努力をする事は無かった。しようとも思わなかった。夏海は、潮里と鎌倉を歩いたあの日からずっと、記憶の中の“悲しいが故の美しい過去”として止まったままだった。
 康志はあの日から今日迄の間に、一度だけ鎌倉を訪れていた。鎌倉駅から江ノ電に乗り、極楽寺駅で降りた。桜橋から成就院、由比ガ浜、高徳院、そして裏大仏ハイキングコースを歩き、佐助稲荷、化粧坂、亀ヶ谷坂……。あの日と同じルートを歩いた。あの日見ていた景色、聞いていた様々な音は、総て違って感じられた。どれも皆、退屈で安穏としたものに思えた。潮里の言葉や態度に一喜一憂し乍らも、何処か懐かしい様な、優しく切ない気持がしていた、あの日程素敵なものでは無かった。  康志は、自分が鎌倉に魅かれたのは、何故だったろうかと考えていた。それは“淋しさ”がきっかけだった様な気がする。それ故に鎌倉の美しさに気付いたとも言えるだろう。そして鎌倉を訪れる事はいつか習慣の様になっていった。
あの日……あの日も康志は、夏海と別れた心痛を、いつまでも忘れられないまま、鎌倉にやって来たのだった。
 康志は淋しくて、この橋を描いていた。潮里も淋しさから彼に話しかけた。二人は淋しさに惹かれて知り合った。自分の淋しさを愁う心が二人を引き寄せ合ったのだった。潮里が夕暮れの北鎌倉駅を去った瞬間から、康志は彼女の淋しさも背負う事になった。彼の淋しさは倍になった。あの日、潮里も康志の淋しさを背負って帰ったのかもしれなかった。

 康志は潮里にもらった桜色の貝のかけらをポケットから取り出し、指でつまんで空にかざしてみた。あの日の潮騒が聞こえてくる様な気がした。貝のかけらの桜色が、太陽の白い反射に変わる。
 その時ふと、彼は背中に優しい息づかいの様な空気の波動を感じた。
 振り返った康志の視野の片隅に、ちらちらと飛ぶ白い蝶の群れと見えたのは、極楽寺の山門前に咲く胡蝶花(シャガ)の花群れだった。

終わり






用  語  解  説


◇胡蝶花(シャガ)
  アヤメ科の植物で春に咲き、正式には「著莪」と書く。一般には「胡蝶花」とも呼ぶが、正しくないという説もある。