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その11その12



 北鎌倉の駅は円覚寺の総門前にある。正確には北鎌倉駅のある場所は、円覚寺の境内なのだそうだ。駅舎の脇に、偃松橋(えんしょうきょう)と呼ばれる石橋の架かる白鷺池(はくろち)と言う名の池がある事から、元々は駅前を通る道の際に外門(げもん)があったのだろう。周囲はうっそうとした杉木立に囲まれていて怖い様だった。
 灯りの灯った駅舎へ入ると、外の街はより一層暗さを増した様に感じられ、色を失った。
 「ねぇ、別々に帰りましょう。」潮里が微笑んだ。芝居がかった微笑みだった。
 「どうして?」
 「康志さんに“恋人になって”ってお願いしたのは、鎌倉に居る間だけの約束だもの。」
 「約束なんていいじゃないか。もう、そんな約束の為に君と一緒に居る訳じゃないよ。」
 「別々に……そうしましょう。」と潮里は改札をくぐった。
 やはり別れのきっかけは彼女が創り出していた。
 二人は細長いホームを歩いた。改札近くの屋根のついた明るい部分を避ける様に、屋根のないはずれ迄歩いて電車を待った。二人の後ろの鎌倉の街には灯が灯り、神社や寺を飲み込んだ森が黒々と沈んでいた。
 「康志さんが最初に乗って。私は次の電車で帰るわ。」潮里はやはり微笑んでいた。細く優しい声だった。出来るだけ穏やかに優しい口調になる様つとめている様に思えた。彼女が康志を気遣っている様子なのが、彼には情けなかった。気遣わなくてはならないのは康志の方の筈だった。
 「考えは……変わらない?」
 「うん……。ありがとう。心配してくれて。でもやっぱり私は死ぬわ。」
 踏切の警報が鳴り出した。
 「今日は本当にありがとう。楽しかった。スケッチも、ありがとう。」
 康志は焦っていた。何か言わなければ、何とかしなければと思えば思う程、頭の中にも夜の闇が映る様で、判然としないのだった。
 ライトを点けた東京行きの横須賀線がホームに入って来た。改札側に立った潮里の姿に、背後から眩しい光りが射し、彼女の輪郭が白く縁どられた様に輝いた。それは、横須賀線が彼女の背後を通り過ぎる迄の、ほんの一瞬に過ぎなかったが、灯火に集まるカゲロウの様に線の細い美しさで、その残像は康志の目に闇の中の虹となって残った。その直後、電車に少し遅れて風がやって来て、薄暗い景色を揺らす様だった。
 ブレーキのかん高い音を聞き乍ら、康志は潮里の折れそうな美しさは何であるのかを考えていた。浜辺で漣に透きとおりそうだったくるぶしも、佐助稲荷での微かな体温や、奉仕の様な弱い母性も、潮里の美しさは総て壊れそうな脆さから流れ出ている様だった。それはやはり、彼女の中の“女になりきれていない部分”が根源なのだろうと思われた。康志自身が如何に潮里に“女”を見ようと、“肉体を抱く存在”として意識しようと、潮里の中には未だ処女性が残っていて、無垢な光を発しているのではないだろうか。そう思えた。その“未成熟”な部分が夏海とは違う所だったが、そう思ってみた所で、もはや康志の潮里に対する想いが変わる訳でもなかった。
 ホームに停まった横須賀線の扉が開いた。
 「乗って。」潮里は言った。頼む様な口調だった。
 康志は足を踏み出したが、そのまま乗ってしまうのはどうしてもためらわれた。まだ潮里に何も言っていない。それに自分が乗って行った後、次の電車に潮里が飛び込むのではないか、という不安も頭をよぎった。発車のベルが鳴る。
 「出てしまうわ。」
 「やっばり乗れない。」潮里を振り向くと、扉が閉まった。潮里は黙って見つめていた。
 走り出した横須賀線の風に打たれ乍ら、康志は何処かほっとしていた。
 「乗れなかったよ。」赤いテールランプを見送り乍らもう一度言うと、潮里は小さく溜息をつく様に微笑った。
 「ありがとう……。」
 それがどんな意味の“ありがとう”であるのか、彼には判らなかったが、彼女の優しい心根が伝わって来る様だった。康志はその言葉を“自分が潮里の事を想っている”事に対しての言葉なのではないか、と自惚れた。
 黙り込むと、夜の黒さが降ってきそうだった。
 「やっぱり……死ぬの?」
 潮里の口元が一瞬笑みを失ったが、すぐにまた笑顔を造り直して応えた。
 「ええ……。」
 「君の事、好きなんだ……。何度でも言うけれど。」
 「わかってる……。ありがとう。」
 彼女はポケットから、あの桜色の貝殻のかけらをだして、空にかざした。そのかけらはもう輝かなかった。
 「嬉しい……。こんなに嬉しかった事って生まれて初めてかも知れない。今はね、その言葉を信じてるの。本当よ。」
 「本気なんだ。」
 「うん。でも……」
 「でも?」
 潮里は真直ぐ康志に向き直った。
 「好きなんでしょう?まだ……。」
 夏海の事だった。潮里はやはり康志の中の夏海の存在を気にしていた。彼の心の深い部分に居た筈の夏海の姿が、潮里には見えていたのだ。夏海と別れた日の事が康志の脳裏に蘇った。夏海の髪の赤さに欲情を感化され、その直後に別れがやって来た。“私の事を一体どう思ってるの?”という言葉に愛の言葉を返せば、それが偽りに聞こえてしまいそうで、何も応えられなかった様に、今の潮里の問いかけを否定する事は、余計嘘になりそうだった。康志は答えに迷っていた。
 潮里は視線を落とすと、掌の上に貝殻のかけらを乗せ、落とさない様にそっと色々な角度に傾けてみては、眺めていた。わずかでも桜色の反射を返す角度を探している様だった。

to be continued




用  語  解  説


◇外門(げもん)
  道路に面する一番外側に建つ門。その内側にあって山号を掲げている門は「総門」。寺号を掲げている門を「山門」と
呼ぶ。