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その11



 亀ヶ谷坂から車道へ出ると、途端に騒がしくなる。切り通しの木々や岩肌が、音を遮っていたのだろうか。ここは車も人の行き来も激しい。電話ボックスの扉を開けた時の様に、急に雑踏の中に投げ込まれ、康志は自分自身の存在が随分小さくなった様に感じられた。
 「暗くなっちゃったね。」康志は潮里に話しかけた。空の影は大分色濃くなり、潮里の髪の生え際も、遅れ毛なのか、髪の影なのか、見分けがつき難くなっていた。
 「うん。でも空が綺麗。」
 藤色から紫、青、薄い藍とグラデーションのかかった空を見上げた。淋し気な青い色が彼女の瞳にも映り込みそうで康志は心配だった。
 「本当だ。」そうつぶやいてみると、しかし空の色は確かに夢の様に綺麗に思えた。
 道の先で交差する踏切の警報が鳴り出し、遮断機が降りた。窓に灯りの灯った東京行きの横須賀線が、黄昏を破る様に走り抜けた。
 星が幾つか瞬き始めていた。まだ完全に黒い色に染まらないまま、薄い藍色の空を背景に、星が浮かんでいるのは、何処か不思議な光景だったが、夕方になって地に近い辺りは薄い雲が出て来た様だった。星は明るい星だけが、上の空だけにひとつふたつ数えた程に光っているのだった。薄い雲に隠されて、おそらくもう地平線の下へ沈んでしまったであろう太陽は、家々や森の彼方の低い空の雲を緋色から黄色に塗り込めていた。潮里は星を見る事も忘れているようだった。
 「星が出てきたね。」
 「うん。」
 康志の言葉に潮里は空を見上げたが、それは星を見ているというよりも、唯遠くを見つめている様に見えた。高徳院でのあの瞳だったが、今は鋭い視線よりも目の潤みの方がより強く感じられる。淋しい顔つきに見えるのは、鎌倉を離れる時間が近付いている事から来る、康志の一方的な旅情かも知れなかったが、この地を離れる事が潮里との永遠の別れを意味する事になるのは、彼女の想いを変える事が出来ない限り、避けられない現実だった。
 天空にも所々雲が出来始めていて、彼女の幸運の星である筈のオリオン座の大星雲は、見る事が出来ない様だ。もしかしたら彼女はそれが判っていて、星を見ようとしないのかもしれなかった。

 康志は、いつか夏海とこんな風に夕暮れの道を歩いた事があった。出会ったばかりの頃だった。夏海を駅まで送り乍ら、瞬き始めた星を見上げた。まだ知り合って間もない夏海と夜を共に過ごしたかったが、彼女を引き止める術を見つけられずにいた。夏海の涼し気な眼やまつ毛、髪の間から覗く耳が妙に艶かしく感じられ、そんな気持を隠す為に空を見上げたのだった。歩き乍ら時々見上げる空には、その度に星が増えていた様な気がする。色を深めてゆく空へ地上から逆に墜ちてゆく様な感覚に捕われ乍ら、駅迄の道がもっと遠ければいいと思っていた。
 「ねぇ。」話しかけたのは夏海の方だった。
 「え!?」
 「綺麗ね。空……。」
 夕暮れと夜との境にあった空は、ぼんやりとにじんだ様な色彩をしていたが、点々と散らばる星の光だけは射す様な冷たい明瞭さだった。
 夏海は空を見上げたまま立ち止まった。
 「ヘッセの詩にね、『砂にしるされた』っていうのがあるんだけど、その中で“星は不変だから愛するに値しない”っていう意味の言葉があるのね。人は自分と同じ様に儚いものを愛するものだって。でも、私は一寸違うと思うの。人は星が好きだから、願いをかけたりするんじゃないかしら。」
 「ヘッセの詩は知らないけど、僕も星は好きだな。」
 「じっと星を見つめるなんて事、中々出来ないけど、こうしてたまに何かの機会で星をじっと見ると、色々な事を考えちゃうわ。あの二つの星、すぐ隣あってるのに、本当は気の遠くなる位離れているんだなぁ……とか。」
 「Stars of Lovers……」
 「そう……近いのに離れている……。」夏海は立ち止まったまま、歩こうとしなかった。夜を共に過ごす術は、彼女が用意したのだった。そして、二人は、その日始めて夜を共に過ごした。
 最早遠い記憶だった。

 夏海との時は、これから始まる予感だった。康志が今、潮里とこうして歩いているのは、別れて行く為である。夏海との時は、星が沢山輝いていた。今は数える程だ。それでも彼には空が同じ様に美しく感じられていた。あの日はわくわくする様な喜びの為、今は淋しさの為……。正反対の環境でも美的琴線は同じ様に震える。それでいいのだろうか。康志にはそれがとても理不尽な事にも思えた。絵を描いて来た事が、感傷という心のひだを歪めてしまっているのではないかとさえ、考えていた。自分の感情とは別な所で美的感覚が働いてしまうなら、それはある種の異常と言えないだろうか。
 そして康志は夏海との夕暮れを思い出した事で、もうひとつの自己嫌悪に陥った。夏海との初めての夜、別れ、今日の潮里との出会い……自分の感情を大きく動かす様な場では自分は常に受け身で、きっかけはいつも相手が創り出していた事に気付いたからだった。それならばせめて今くらいは、自分が潮里の“自殺願望”をなんとか止めなければならないとは思うのだが、やはり「死ぬな」と言う事は逆効果にしかならない様に思える。肯定する訳ではないが、潮里の気持を察して同意してやる事が、彼女の“自殺願望”を失わせる事になる様な気がするのだが、その具体的な方法は見当もつかないのだった。
 横須賀線の線路を渡ると、今迄の鎌倉は夢の様に思えた。ここから先にもまだ神社仏閣は幾つもあり、歴史的都市としての鎌倉は広がっていたが、二人はもう何処へ寄る事もなく、唯別れへの時間を消化してゆくに過ぎなかった。その事が、鎌倉特有の情緒や精神安定剤の様な雰囲気を覆い隠し、ここまでの道のりを美しい過去に変えてしまったのだった。潮里とこのまま別れてしまいたくはなかったが、歩く速度を落としたところで、その瞬間をほんの少し向こう側へ押しやるだけで、結末を変える事は出来ないのだと思った。淋しく悲しいだけだった。
 「何処へ行くの?」と潮里が訊いた。潮里はこの道が、北鎌倉の駅へ行く道である事を知らないのだった。又、康志はこれから何処へ行くのかを彼女に告げていなかった。
 「あゝ、北鎌倉駅……。」
 「そう……。」潮里はそうつぶやいて、車道を走って来る車のライトに眼を細めた。
 「帰るのね……。」
 街は暗かった。同じ様な観光客が帰路についており、車の往来も多かったが、そこには既にここに住む人達の静かな夜の日常が始まりつつあって、駅へ向かう人々は皆異郷の顔に戻っていた。楽しげな笑い声や親しげな会話は、夜と駅が近付くにつれ失われつつあった。そんな気持の上だけでなく、街灯も少ない様に思われた。北鎌倉駅の駅舎と、隣接した店の灯りだけが、藍色の景色の中に冷たく浮かび上がっていた。

to be continued