Preview Lists

その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10



 住宅地の坂を下りきって右に折れると、横須賀線が走っている。天井の低いガード下をくぐる時、自然とわずかに頭を下げた。潮里のそんな姿が、康志にとって首をうなだれた様に見えたのは、彼女の“楽しい事って無いものね”というつぶやきの所為に違い無かった。
 康志は、夏海とはどうだったろうかと考えていた。夏海との1年足らずは本当に楽しかったのだろうか。楽しいと思えた毎日が、もし楽しいと思い込んでいた、いや思おうとしていたのだったとしたら、自分はそれを糧にして生きてきたのか。夏海はそれに気が付いていたのではなかったか。そうだとすると、そんな自分自身よりも、淋しさに押し潰されそうになっている今の潮里の方が、余程純粋なのではないか。不意に“愛している”という言葉が康志の頭の中に浮かび上がって来た。言葉だけではない、その想いは身体の底から微熱の様に沸き上がってくるのだった。それは“潮里が純粋だ”と思ったのと殆ど同時だった。
 「好きだよ……。」
 潮里は不思議そうに康志を見た。
 「君のことが好きだよ。好きになった。」
 彼が潮里を愛する気持を隠さずに、その場で言い放ったのは、彼女と同じ様に純粋でありたかったからだった。それが彼女の“死”への思いを萎えさせてくれるかも知れないという期待も、無いと言えば嘘になるだろう。
 「ありがとう。嬉しいわ。たとえ嘘でも。」
 「嘘じゃないさ……。」彼女が康志の言葉を俄には信じ切れないのは、仕方の無い事だったが、康志が彼女の事を愛しく思い始めた事は彼女自身も気付いていない筈も無かった。何しろ彼は、彼女を突然抱いたのだ。唯、彼女が疑っているとしたら、佐助稲荷で話した夏海の存在だろうか。自分に思いを寄せているのか、その昔の彼女の幻を見ているのか、という疑惑。そして、自分の自殺を阻止する為の芝居としての疑惑……。
 横須賀線のガードをくぐり抜け、すぐに左に折れると亀ヶ谷坂の切り通しである。昔は亀も引き返す程の急坂だった事からこの名がついたというが、勿論今は堀り下げられている。それでも(化粧坂よりはなだらかだが)やはり、歩くのが少し辛い程の坂だ。ある程度整備されている為、化粧坂の様な趣には欠けるが、舗装はされておらず(註:現在は舗装されている)、道幅はあるが、車の通行は出来ない様になっている。亀ヶ谷坂の入口には香風苑という老舗の旅館がある。岩肌をくりぬいた洞門を入口にしたこの古めかしい風貌の旅館が、この何気ない坂道に重厚な雰囲気を与えていた。
 陽の傾いた亀ヶ谷坂は、うっそうとした木々と岩肌の翳に沈もうとしていた。暗いトンネルのなかへ足を踏み入れて行く様だった。
 「同情じゃないよね……。」確かめる様に訊いた声は、消え入りそうに小さな声だった。
 「あゝ。」
 「誰かの代わり……じゃないよね……。」
 「あゝ、違うよ。本気だ。」
 康志の言葉に、潮里は応えないまま少しうつむいて歩いた。彼女の漏らす息だけが、坂道に響いた。
 康志は夏海の事を考えていた。夏海……。彼の気持は潮里に向かって傾いていたが、夏海はそれだけ……その分だけ哀しい存在として胸に残っている筈だった。あの頃、夏海にも純粋な気持で接していたら、彼女を悲しませずに済んだかもしれない。けれど潮里に対しての気持がはっきりした今、思い出すのは楽しかった時の夏海との生活ばかりだった。それは彼自身の都合の良い解釈に過ぎなかったかもしれない。新たに愛する相手が出来た為に、過去の恋愛を美しいだけのものに変えてしまったと言えるかもしれなかった。しかし、それで彼自身も夏海も救われる様な気がした事も又事実だった。夏海はその名前の通り、夏……一つの季節だったのではないかとも思われた。康志は、夏海という真夏の国道134号線(湘南道路)を走り抜けてしまったのだろう。今救われないのは、潮里なのではないか。
 空の色は既に黄色味がかった光も消えつつあり、青空は藤色に変わり始めていた。空には明るさがまだ残っていたが、亀ヶ谷坂は既に藍色に染まってしまっていた。今は風も止んで、空気迄もその重さを増した様に思われた。
 坂が下り坂になって、緩く右に曲がると道幅は少し狭くなるが、道の整備状況は(やはり未舗装乍ら)ずっと良くなる。歩き易くなる代わりに、趣は薄れて街の匂が漂って来た。
 康志は潮里の肩を抱こうとして、彼女の背に上げかけた手を降ろした。肩を抱く事すら夏海の美しい記憶を心根にした、彼自身の身勝手な態度の様に思えたからだった。それは極短時間で失せてゆく思いかもしれなかったが、少なくとも今、この瞬間は彼女の身体には触れずに隣を歩く事が、彼自身の“本気だ”という言葉を裏付ける事にもなりそうな気がしたのだ。
 潮里に対する気持を自分自身で認めた以上、“潮里の自殺を止めなければ”という思いはあったが、それを懇々と説得する事は、返って潮里を意固地にしそうに思えた。化粧坂を降りた時の潮里の“貴方もそんな道徳的な理屈で、自殺は良くないって言うのかしら?”という言葉にそれは現われている。しかし、言葉で説得する以外にもはや方法は無い様にも思われた。決心のつかないまま、康志は黙って潮里の隣を歩いていた。
 亀ヶ谷坂の切り通しを下りきると、車道に出る。左へ曲がると、鐘楼が印象的な浄智寺や縁切り寺として名の知られた東慶寺、夏目漱石の「門」の舞台となった円覚寺、そして北鎌倉駅方面である。二人は北鎌倉駅から、この地を後にするのだ。


to be continued