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 風は波を打って吹いていた。時折風が止まると湿り気のある空気が、緑の匂いと共に淀む様だ。こんな所迄潮風がやって来るのかと、山側に居ても鎌倉が海辺の街である事を思い知らされる様だった。
 「これでよし。」康志は化粧坂のスケッチを切り離して潮里に渡した。
 「ありがとう……。」潮里は小さく微笑むと、スケッチを折れない様、そっと緩く巻いた。彼女が、ポケットからハンカチを出すと、中から何かが地面にこぼれ落ちた。浜辺で拾った、桜色の貝のかけらだった。突然、その桜色が化粧坂の緑一色の空気を切り裂いた。それは、見た事も無い程耽美な景色でもあった。彼女は背を向けて、スケッチをハンカチで優しく結ぶと、上半身を振り向いた。
 「卒業証書よ。」と悲しい顔で微笑むと、再び背を向け、足元に落ちた貝のかけらに手を伸ばした。左手に持ったスケッチをかばうかの様に左肩はそのままに右肩を下げ、膝を少し曲げて右手を地面に差し出した。後ろ髪が右肩に落ち、丸いうなじが覗いた。首の白い膨らみに、突然、忘れかけていた夏海の温もりを思い出したと感じた瞬間、康志は潮里を後ろから抱いていた。巻いたスケッチが坂を転げていった。貝は地面に落ちたままだった。
 「いやっ。」
 潮里の言葉にはっとして彼女を抱いた腕の力を緩めたのと、彼女が思いきり康志の腕を振り解いたのは殆ど同時だった。潮里は、彼から逃げた途端、急な坂に足をとられ、少しよろめいて、手をつきそうになったが、2、3歩で踏みこらえた。
 「ごめん……。」
 「ううん……。」潮里は首を振って、地面におちたスケッチを拾い、貝のかけらを拾い上げた。
 はたして康志は、目の前の潮里を抱いたのだろうか、それとも記憶の中の夏海を抱いたのだろうか。潮里のうなじの膨らみに夏海の温もりが蘇って来たのは、事実だった。しかしそれは、潮里に夏海の代わりを見たのであったろうか。夏海の温もりと同じものを“潮里に”求めたのではなかったか。夏海の時と同じ様に、潮里の温もりが欲しくなったのではないのか。気が付くと、康志の腕の中には、潮里の身体の柔らかい感触が残っていた。その感触は、今日今迄、彼が幾度か潮里に触れた時に感じた感触とは、明らかに異なっていた。“意外な女っぽさ”でも“少女っぽさ”でも無い。明らかに“女の身体”、としての感触だった。その瞬間、間違い無く康志は、彼女を“愛でる”対象としてでは無く、“抱く”対象として感じていた。潮里にも夏海と同じ感情を抱いたのだった。それはもはや決定的な事に思えた。
 二人はしばらく黙って化粧坂に立ち尽くしていた。刹那的に盛り上がった彼女への欲情が波の様に引いてゆくと、陽の傾きだけが気になった。
 「美砂ね……、連れて来てあげたいな。本当に。」潮里は、肌色の陽を受けて光る坂の下の住宅を見つめて、口を開いた。
 「連れて来てあげればいいじゃないか。」
 「連れて来られないのよ。」
 「どうして?」
 潮里は彼の言葉には応えずに、一歩一歩ゆっくりと、坂を降り始めた。
 「行きましょう……。」
 絵を描いていた一つ目の角から降りると、道の脇から水が染み出していた。地下水が湧き出しているのだが、坂道である故か山中の清らかな湧き水の様に溜まる事も無く、坂の下へと流れ出し、足元の地面をじめじめと湿らせていた。湧き水自体は清らかな筈なのに、生まれ出る場所によっては、美しくもあり、汚くもある。潮里の「なんとなく」という言葉に立脚した“自殺願望”への固執を考えると、人の生にもそんな“間の悪さ”の様なものがあると思わずにはいられなかった。彼女の“自殺願望”もそんな些細な“間”の違いから、運命付けられてしまっているのではないだろうか。そしてそれは同時に、康志と夏海にも当てはまる事でもあった。康志と夏海の恋愛の現出した場所、時間が少しずれていたなら、二人はそのまま愛し合えたのかもしれなかった。それに気付いた時、彼は潮里が“自殺願望”に固執する哀しみが少しだけ判った様な気がするのだった。そして同時に、失望感の様なものがこみ上げて来た。康志は、夕暮れが近づいて光の黄色味がかった青空を見上げた。
 二つ目の角を曲がると、坂はすぐに舗装された道になる。道の右側は谷を切り開いた崖が、そのまま木の根や雑草等をむき出しに、荒々しい姿を見せているが、左側は住宅地になってしまっている。住宅と坂との境辺りに、この場所が化粧坂(仮粧坂)である事を示す碑が建っているが、それがかえって空しさを感じさせている。この場所から振り返ると、史跡であり、男性的な荒々しさを持った、又緑に埋もれた山間であった筈の化粧坂は、住宅地の裏山につけられた散歩道に過ぎなかった。
 「美砂ね……。」康志の視線に誘われてか、化粧坂を振り返った潮里がつぶやいた声は、はっとする程美しかった。それは幻聴かと思われた位だった。
 「美砂ね……死んじゃったの。自殺だった……。」
 康志は声も出せなかった。彼自身の中で、勝手に潮里の自殺の原因が解明されていった。しかし彼女は、そんな康志の心を見透かした様に話を続けるのだった。
 「でもね、私が死ぬのは、多分貴方が思っている様に、彼女の後を追おうというのじゃないのよ。」
 「なら、どうして?」
 潮里は“自殺願望”の理由を口にするべきかどうか、迷っている様だった。
 二人は“住宅地の中の坂”をゆっくり歩き出した。影はかなり長くなっていて、低い陽の光に照らされた住宅の白い壁や屋根、植え込みの木等は、皆例外無く強いオレンジ色に輝いており、一層反射の強い部分は、その色が黄金色に見えるのだった。潮里の髪も柔らかなオレンジ色の光のヴェールを被って、黒い筈の色が濃い栗色に映っていた。その色は彼女の髪が陽に透けた時の赤い色の様に艶かしくはなく、今はかえって弱々しく生気が失われて見えた。顔や耳に留まった光は、その肌色の赤味を増していたが、それは実際の顔色が赤味を帯びているのではなく、夕日の色の所為である事がはっきりと知れた。顔色はむしろ色を失って白くなっている様だった。
 「みんな言うわ。自殺は良くないって……。死ぬ気になれば何でも出来るじゃないか、って……。でも本当にそう?死ぬ気になれば何でも出来る?それが出来ないから死ぬのよ。道徳的な理屈ではないの。貴方もそんな道徳的な理屈で、自殺は良くないって言うのかしら?」
 「いや……。」康志は次の言葉に迷っていた。彼自身、単に道徳的な理由で、自殺をさげすむ様な考え方は持っていなかった。“死ぬ気になれば何でも出来る”という言葉も信用していなかった。しかし、康志は自殺には否定的だった。彼自身にもその理由ははっきりとは判らない。強いて言うなら、そう……死ぬのが怖いからかも知れなかった。死ぬ勇気が無いという事なのだろう。自分が持たない勇気を他人が持つという事を信じたくないからなのかもしれない。中には自殺に“勇気”という言葉を用いる事に嫌悪感を持つ者も居るが、それはまぎれもなく“勇気”の一つであると、康志は思っていた。そんな“勇気”が持てる事自体が、彼にはある種羨望であり、又自分がその“勇気”を持たない事に、劣等感に似た気持を感じる様な気がした。正しくその瞬間、康志は潮里に劣等感に近いものを感じていたのだった。しかし、彼は潮里にそんな気持を伝える術を思いつかなかったし、“勇気”にまつわる話は、潮里の自殺を否定する為には、甚だ貧弱な返答に違い無かった。それにその方法を思いついた所で、彼自身、そんな道徳的な考えは持っていない事、自殺は“勇気”だ、等という部分だけが潮里の心に響いてしまっては、更に“自殺願望”を肯定してしまいそうだった。
 「彼女……美砂ね、好きな人に別な恋人が出来ちゃったの。それだけよ……。それだけ……。それだけで、ある日突然絵を描く事もやめてしまって、それからはどんどん木が枯れてゆくみたいに、生気が無くなって来て、それから……ふっと花が散るみたいだったな。」潮里は何処を見つめるともない様子で、顔を上げて空を見た。
 「それじゃあ、彼女の後を追うのでなければ……。」
 「どうして死ぬのかって?」彼女は少しがっかりしたという顔で頭を下げ、溜息をつく様に言葉を吐き出した。彼女が康志の問いを責める筈も無かったが、彼には“どうして判ってくれないの”という言葉が聞こえた様な気がした。
 「私、美砂が理想だったの。いつも背筋が伸びていて、穏やかで、絵が上手くって……。でも、彼女はあっという間に駄目になった。あれ程理想的な女性だったのに。それ迄彼女が持っていたうらやましい位の世界は何だったの?そう考えたら何もかも嫌になっちゃったのよ。」
 「厭世か……。」
 「え?」潮里には“厭世”という言葉は判らないらしかった。
 「ペシミストって事さ。」
 「ペシミストなんかじゃないわ……。」と小さな声でつぶやいたが、すぐに思い直した様に「そうね、そうかもしれない。ペシミストになったのね。きっと。」と微笑んでみせた。言葉と笑顔が異常な程、不釣合だった。心の底に根源として溜まっている淋しさが、笑顔の表面に洗われた様な微笑が、言葉との不整合を証明していた。
 「それで死ぬのか……。」
 「楽しい事って無いものね。」潮里は康志の言葉には応えず、そう言った。

 潮里には口に出さない記憶があった。美砂とは同性愛とまではいかないまでも、それと似通った感情があった。男を恋う美砂にジェラシーこそ感じなかったものの、その代りにそんな生き方の彼女に強い憧れを抱いていた。
 男に捨てられた日、美砂は黙って潮里を抱いた。涙をこらえ乍ら肌を合わせて来る美砂を潮里は受け入れた。身体を覆う服や下着をはがされ乍ら、胸が震えもした。潮里を抱き、身体をまさぐり乍ら美砂は泣いた。それは自分の正常な性を痛ぶる行為なのかもしれなかった。
 その2日後、美砂は死んだ。
 潮里には美砂に抱かれた肌の感触が今も生々しく残っている。その感触は柔らかく、暖かく、優し気だが、美砂がもうこの世に居ない事を思うと、薄気味悪くもある。時に潮里はこの感触を一生抱き続けて行くのだろうか……等と考える事もあるのだった。
 潮里独りの心の奥底に沈んだ記憶である。


to be continued