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 化粧坂は新田義貞が鎌倉攻めに主力を傾けた程の重要な地点であった。「太平記」によれば、化粧坂では昼夜5日にわたり、戦さが繰り返されたという。
 「化粧坂」という地名の由来には、討ち取った平家の大将の首に化粧をして首実験に差し出した所だからとか、遊女の里であったからとか、木の生えた坂、木生坂(きはえざか)からきているとか、幾つかの説があるが、“遊里”の説が一般的な様である。当時の切通しは現在の化粧坂を下り切って左手にある海蔵寺の裏にあるらしいのだが、現在の化粧坂からそこにつながっていたのか、坂そのものの位置が違っていたのかは、判らない。しかし何れにしても源氏山公園入口から下る周辺は、木々がうっそうと茂り、かなりの傾斜で下る事になるこの坂は往時を偲ばせるに充分の重たい空気を漂わせている。唯、今ではそんな美しさを湛えた部分は極わづかしか残っておらず、2度程ジグザグに折り返すと、そのすぐ下からは舗装され、住宅地になってしまっているのだった。
 「随分急な坂だね。名前に似合わず……。」潮里は坂の入口から覗き込む様な格好をした。
 「でも、秋は紅葉の名所で、名前の通りになるんだ。それになんかこの険しさが好きなんだ。鎌倉のなかでも特に……。」康志は坂を見下ろした。
 「うん。判る。」と潮里もうなづいた。
 化粧坂は緑一色に染まっていた。真新しい緑色が幾重にも重なり合って、空気を染めていた。まるで淡い緑色をした水の中に居る様だった。傾きかけた陽の陰になって、木の幹や影の部分は既に薄暗く沈み込み始め、立体感がなくなっていた。影の様に濃い色で作られた切り絵の様な木々や葉の間から、暖色系になった陽光の差す坂の下の住宅地が、やけに明るく光っていて、めまいを覚える程だった。
 二人はまるで何かの儀式であるかの様に、同時に一歩を踏み出した。
 康志はここに来る度、いつも思っていたのだった。夏海をここに連れて来たいと。彼は自分にとってのサンクチュアリとも言うべき場所を、夏海にも見てもらいたかったのである。しかし、今はそれも遠い記憶の中の話の様に思えるのだった。隣を歩く潮里の所為で、夏海の面影は遠ざかってゆく一方に思われた。唯一つ身体の記憶を除いては……。それが夏海と潮里とで唯一はっきりと違う感情だったのだ。
 坂は急な上に足元も岩や表面に浮出た木の根等で、歩き辛い。もっともこれだけの傾斜で地面が平らであったら滑り易くて余程危ないのかもしれないが……。
 足元を気遣い乍ら歩く潮里が、坂の途中、一つ折り返した所で立ち止まった。
 「ねぇ、なんかこのまま降りちゃうの、勿体ないね。」
 「あゝ。」康志もそう思っていた。
 「ねぇ、ここスケッチしてよ。」
 「え!?」
 「色はつけなくていいの。鉛筆描きで。で、その絵、私にちょうだい。」
 「あ、あゝいいよ。」
 潮里はこの化粧坂のスケッチを今日の思い出にする心算だろうか。そう思うと、康志はここで彼女の望むままにスケッチを描く事が、果たして良いのかどうか迷うのだったが、彼にはとりあえずスケッチを始めるしか出来なかった。
 康志は一つ目に折り返す角に立って、坂の上を見上げる構図を採った。それは描くのに比較的楽な構図であった。その場所から坂を見上げれば、スケッチ・ブックの上で地面を右上がりに描く事で、上り坂である事を表現する事が出来る。坂の下を臨めば、地面の傾斜を明確に描く事無く、下り坂である事を表現しなければならないのだった。潮里が望む絵を描くのに楽な構図を採る事は、何処かで手を抜いている様な気がして後ろめたさに触れる部分もあるのだったが、陽が翳る前に亀ヶ谷坂を越えて北鎌倉へ抜けようと考えていた彼が、その時、単時間で描ける構図を選んだ事は極自然な事だったのである。それでも康志は懸命に新緑の化粧坂を描きとった。潮里が手にする絵だからである。彼はこの坂の魅力が、彼女にも伝染して、康志と同じ気持を起こさせる事を願っていた。この坂は幾度描いても不思議と飽きるという事が無い。ここに居ると何故か静かな気持になる。この坂は彼にとって、ある種の“精神安定剤”の様な存在だったのである。だから潮里にもそんな落ち着いた気持になって欲しかったのだ。
 「ねぇ」
 鉛筆を走らせる康志に潮里が話しかけた。
 「ねぇ、桜橋とこの化粧坂とどっちが好き?」
 「さぁねぇ。桜橋もここも両方好きだけど、ここはやっぱり僕にとっては特別な場所なんだな。君は、どっちが好き?」
 「私は……」と潮里は辺りをぐるりと見回した。顔だけでなく身体ごと回して緑色の空気を嗅いでいる様だった。ふわりと微かに崩れようとする髪を軽く抑える為に、こめかみにあてた手の細い指に、風が留まった。
 「私は、こっちかなぁ。」
 「どうして?」
 「なんとなく……。ここの方が静かだもの。」と潮里は言った。
 「そうだね。桜橋よりはずっと静かだよね。まぁ、桜橋は元々江ノ電の駅の上だし……。」
 「うん。でも、それを別にしてもこっちの方が、雰囲気が……何て言うか、空気も黙っているみたいな……。」
 「詩人だね。」
 「そうじゃないけど……。」と潮里は照れくさそうに微笑った。
 「康志さんは?貴方はどうしてここが特別なの?」
 「クロード・モネって画家、知ってる?」
 「知らない。」
 「そう……。昔の画家でね、僕はその人の絵が好きなんだ。で、彼が晩年に描いた睡蓮の池の連作があるんだけど、モネはその睡蓮の池がものすごく好きでね、何枚も何枚も沢山描いてるんだ。で、僕も彼にとっての睡蓮の池みたいな場所が欲しくてね、それで、ここが気に入って、ここを僕の絵のモティーフの中心にしようと決めた訳。だからここは特別なんだ。」
 「ふ〜ん。じゃ、ここは康志さんにとっての睡蓮の池な訳なのね。」
 「そう。」
 モネは光と影の画家とも言われる。今でこそ当り前になった“戸外での創作”をメジャーにしていった先駆者達のうちの一人で、更にそれまでの宗教画に代表される様な、写実主義から脱して、自分の心に捕えたままの景色、色等を描いてゆくインプレッショニスム(印象派)の代表者、絵画に対して「印象」という言葉を使った最初の人なのである。彼は光によって変化する影と色をテーマとし、同じ場所を光の変化を追って時間帯を変えて何枚も描く、という様な事をしている。その彼が晩年描き続けたのが、ジヴェルニーの自宅の庭に作った日本庭園の「睡蓮の池」なのだった。彼はこの池と庭を愛し、その水面に映る空の色や雲、木々や草花の投影を写し続けた。そして、「この池を見ていると心がやすらぐ。私はこの池の中に居たい。」と部屋を取り巻く巨大な睡蓮の池を描き始める。この巨大な壁画は、オランジェリー美術館からの依頼であったというが、おそらく彼はそれが無くても描いたに違い無い。何故なら、彼の「睡蓮の池」の創作意欲は凄まじく、途中白内障で殆ど視力を失ったにも関わらず、手さぐりで描き続けた。後に片方だけ手術を受け、わづかに視力を取り戻すと、更に創作に打ち込んだのだった。しかし彼は“見えなかった時”に手さぐりで描いた不出来な部分を、返って慈しむ様だったと言う。そしてモネは、末期には物を形では無く、単なる光の反射として描く様になる。正に色の洪水の様な作品の中で、対象物の形態は光の色の中にゆるやかに溶け出してゆく。彼はもはや“見なくても描ける”境地に入っていたのではないかとさえ思えるのだ。
 康志はモネの絵のみならず、彼のそんな生き方にも圧倒され、敬愛していたのだった。あのセザンヌでさえ、「モネの持っている眼がうらやましい」と言ったというのである。
 「じゃあ、桜橋はどうして好きなの?」
 「あそこはもっと漠然としてるなぁ。それこそ、なんとなく……。あそこの地形とか、陽のあたる感じとか……なんかそういうのが、妙に懐かしい気がするんだ。」
 「詩人ね。」と潮里が微笑った。
 「そうじゃないけど。」と康志も笑った。
 「でも、なんとなく判る気がするわ。あそこが好きだっていう気持も……。」
 「判る?」
 「なんとなく……。」
 「なんとなく……か。」
 「そう……なんとなく……。」
 「でも嬉しいね。なんとなくでも判ってくれて。」
 「そう?でも私、なんとなくがだんだん大きく膨らんできちゃうのよね。」
 「どういう意味?」康志は鉛筆を止めて潮里を見た。彼女は坂の下を見つめたまま、真剣な表情だった。
 「なんとなくが心の中で膨らんで……それで私の生活って、ああしようとか、こうしようとかが、みんな“なんとなくそうしようかなぁ”って思った事で動いてる気がするの。“なんとなく”で悩んじゃったりね。」
 「みんな少なからずそうなんじゃないかなぁ。」康志の言葉に潮里は応えなかったが、彼は気が付いていた。彼女のキーワードが“なんとなく”である事に……。裏大仏のハイキングコースで、自殺願望の理由を問いただした時にも、彼女は“なんとなく”と言ったのだった。“なんとなく”という言葉の後ろにある物は見ようがない。彼女の生活も見えないと思うと、彼女自身の姿も薄れていく様にさえ感じるのだった。彼はあわてて、鉛筆を走らせた。じっと彼女を見つめていると、彼女の“なんとなく”は又“自殺願望”につながってゆきそうだった。康志はそれを恐れていたが、そのつながりを明確にしなければ、彼女が救われないであろう事も又、事実だった。
 風が吹いて来た。陽の翳りと共に、昼間の空気と夕暮れの空気を入れ替えるかの様に、切り通しを吹き抜けてゆく。化粧坂を覆い尽くした木々の葉が風に揺れる音は、彼方の海の波音かと思われた。康志がいつもこの場所で吹かれている風にしては、少し強い様に感じていた。胸の奥底にまで冷たく染み入って来そうだった。スケッチ・ブックの紙を押さえると、風が紙の上に留まった。潮里は髪の乱れるにまかせて、スケッチ・ブックを見つめた。
 「ねぇ、君の親友……美砂ちゃん……だっけ、ほら、絵を描いていたっていう。彼女をさ、ここに連れて来てあげなよ。又、絵を描く気になるかもしれないよ。」
 潮里はうつむいた。
 「もう、連れて来てあげられないのよ。」
 なんて無駄な事か、という気がしていた。彼女はやはり死ぬ気でいるのだ。それならば今迄生きて来たのは何になるというのだろう。康志はスケッチを描き続けた。どうして良いか判らなくなっていた。彼女の“自殺願望”への無駄な固執は腹立たしくもあったが、同時にそんな潮里が、無性に愛しくなってくるのだった。もはや、潮里に対する彼の心の防御は、殆ど崩れつつあった。

to be continued