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 「ねぇ、康志さんのスケッチ見せてくれます?」どれ位経った頃だろう。潮里が静かに口を開いた。
 「あゝ、いいよ。」
 康志はスケッチ・ブックを開いて潮里に渡した。
 潮里は、ゆっくりと頁を繰っていたが、ふと一枚のスケッチに眼を止めた。サインペンで書かれた木の生い茂った坂の絵だった。
 「けしょうざか?」
 康志のスケッチは右下に必ず場所と日付を書き込んでいたので、彼女はそれを読んだのだった。
 「それ、“けわいざか”って読むんだ。本当は今じゃ化粧っていう字じゃなくて、“化ける”の代わりに仮って字を書くらしいんだけど、昔風に化粧って書く方のが好きだから……。」
 「そうよね。うん……化粧坂って書く方のが良いよね。綺麗な名前ね。でも、さっきの桜橋とか、この化粧坂とか、鎌倉って綺麗な名前の所が多いわね。」
 「あゝ、“雪の下”とか“天園”とか“衣張山”とかね。」
 「化粧坂っていうのは何処ら辺なの?」と潮里が訊いた。
 康志はポケットに折り畳んで入れてあった地図を取り出して説明した。
 「ここが今居る佐助稲荷。ここから出てこっちへ行くと……。」
 「ふ〜ん。ここからは割と近そうね。」
 「うん。ここから北鎌倉方面へ抜けようと思ってるから、後で通るよ。」
 「本当!見てみたいわ。」潮里は眼をきらきら輝かせて微笑んだ。何が潮里をこの坂に引き付けたのかは理解出来よう筈も無い。おそらく単純に“化粧”という名前に魅かれただけなのだろう。しかし、康志はこの坂に特別の想いを持っていた。彼が鎌倉に魅かれたのは、この坂からだったのだ。歌に唄われた坂の艶やかな名に魅かれた。そして康志は、その唄の歌詞に誘われるまま、この坂にやって来たのだった。目のあたりにした坂の険しさ、厳しさ、美しさは彼を虜にした。康志は、潮里も、この坂のそんな力に魅かれたと思いたかった。佐助ヶ谷で思い止まらせる事が出来なかった潮里の“自殺願望”も化粧坂なら静かに消えて行きそうに思われた。
 「じゃ、行こうか。」
 社を背に、石造りの階段を降りると、鳥居のトンネルが始まる。一歩一歩ゆっくりと、トンネルの中へ降りて行く。
 「すごい鳥居の数ね。何本あるのかしら。」
 「さぁ、前に一度数えた事があるんだけど、忘れちゃったなぁ。それに古くなって朽ちてしまえば外してしまうし、寄進されれば増える訳だからいつも同じ数っていう訳じゃないだろうし。」
 鳥居のトンネルの中を歩いていると、康志は、ふと合わせ鏡の中に足を踏み込んだ様な気がしてきた。不吉な予感の様で背筋に悪寒が走るのを感じた。鳥居の連なりが終わる迄に、潮里の身に何かが起こるのではないかと思うと不安だった。何故こんなに神経が昂っているのか判らない。康志から潮里に向けて張った糸があるとすれば、その糸は厳しく張り詰め、ギリギリと音をたてている様に感じられた。
 突然「ピィッ、ピィッ」と鋭く、短い笛の音の様な鳴き声が、谷(やと)に響き渡った。
 「何!?あの声。」はじかれた様に潮里は顔を上げ、木々の狭間を見渡し乍ら、康志の腕を掴んだ。鳴き声に恐れを感じている様子だった。
 「え、リスだろう。」康志はそう応えたが、その瞬間それは確かに魔笛の様でもあった。勿論それは間違い無くリスの鳴き声であったし、恐ろしい旋律でも無かったが、“鳥居の合わせ鏡”に気持を乱されていた彼には、魔笛の様にも思えたのである。潮里も同じ様に、鳥居の列やリスの鳴き声に不吉なものを感じていたのだろうか。
 康志は以前、浄智寺の境内で、リスの鳴くのを見た事があった。だから、その魔笛の正体が、実は愛らしいリスである事はすぐに判ったのである。その時は浄智寺の奥、布袋尊の近くだった。リスは木の幹の途中に作り物の様に動かずに居て、鋭くピイッピイッという声で鳴いていた。その度に、そのふわふわとした綿毛の尻尾を、バネ仕掛けの様に上下に動かすのだった。
 「え!?あれ、リスの声なの?鳥ではないの?」潮里が訊いた。
 「いや、間違い鳴くリスの声だよ。」
 二人はリスの姿を探した。愛らしいリスの姿を見つけられれば、不吉な予感も消え去るかもしれない。康志はそう思ったが、その姿を見つける事は出来なかった。それだけにリスの姿を探し乍ら、鳥居のトンネルが途切れた時は、ほっとした気持ちだった。合わせ鏡の呪縛から逃れ、安らいだ空気が戻って来た。彼にとっても、佐助稲荷を歩いていてこんな気持になった事は、初めてだった。今日のこの気持は潮里の存在と“自殺”という二文字の所為である事は明らかなのだ。潮里の“自殺願望”がどうやら本物であるらしい事が、否応無く迫って来て、彼自身でも不思議に思う位、小心になっているのだった。
 鳥居が途切れると、そこは既に路地に建ち並ぶ住宅地になってしまう。緑なす佐助ヶ谷もここ迄で、その先は人々の生活に支えられた谷の姿になるのである。その住宅地の路地を抜けると、鎌倉から北鎌倉へ通じる道になる。鎌倉駅方向とは逆に左へ折れると、道はやがてだらだらとした上り坂になる。舗装されてはいるが、思いの外、急に感じられる坂道で裏大仏のハイキング・コースを歩いた後の彼女の疲労が一寸心配になった。
 「大丈夫?」
 「うん。でも、ここきついわね。」
 「頑張って。」
 山の中の道で、生い茂った木々がこの坂道全体を影の中に落とし込んでいるのが幸いだった。  潮里は、歩き乍ら時々木々を見上げた。
 「何?」
 「リス……いないかと思って。」
 「あゝ、時々居るけどね。」康志も周りの樹上を見渡したが、眼に飛び込んで来るのは木洩れ陽だけだった。坂は小さな谷を右手に見下ろす様に高度を上げて行く。左手は山側で、坂道に沿って土や岩の壁が立ち上がっている。
 やがて坂の頂上近くの山側の岩場に、ぽっかりと洞門が口を開けた。銭洗弁財天である。ここは観光客が中の湧き水でお金を洗う事で有名である。ここの湧き水でお金を洗うと、増えるというのだ。しかし、むやみに洗っただけでは増えない、洗ったお金を世間に役立つ様に使わなければ……という但し書きがあるのは、伝説を守る為の戒めだろう。
 「ここの中が銭洗弁天だよ。」
 「あっ、ここは知ってる。雑誌で見た事あるもの。」
 しかし、二人は少し道を急がなくてはならなくなっていた。春の日はまだ充分に長いとは言えず、陽の傾きは地上の影を長く引き伸ばし始めていた。この坂全体が影の中に沈んでいたのも、陽がかなり傾いてきたからだった。
 「残念だけど、大分陽も低くなって来たし、ここはこの次にしようよ。」
 「うん。」と潮里はうなづいた。それはおそらく何の気もなしに応えた言葉だったに違いない。唯、彼の言葉に単純に反応しただけなのだろう。けれど康志にはとても大切な言葉に思えたのだった。“この次”を肯定するとすれば、彼女は死なない事になるからだ。何処か策謀的な言葉遊びの様だが、彼女の返事一言の持つ意味を信じたかった。心を占めつつあった“潮里”と“死”の間の等式を少しでも崩したい。康志はもう一度彼女に“この次”がある事を確かめたかったが、それは同時にとても怖い事でもあった。改めて彼女の口から“この次”が無い事を聞くのが嫌で、再び「今度来た時は……」という台詞を口に出来ずに、結局彼は黙ったまま歩いた。潮里は洞門のなかを覗き込む様な格好をし乍ら、彼について来た。
 銭洗弁財天を過ぎると、やがて道は平坦になり、程なく真直ぐ続く道と右へ折れる道とに分岐する。この場所を右に曲がり、緩やかに少しだけ下ってゆくと、正面が源氏山公園だった。その源氏山公園入り口の手前から左に、急激に下っていく坂が化粧坂である。

to be continued