Preview Lists

その1その2その3その4その5その6



 ゆっくり歩き出すと、いつも通りの景色と空気が胸の中に染み込んだ。
 途中に急な上り坂が現われた。慣れない潮里が心配だったが、彼女は足場の悪い急な上り坂を慎重に、しかし思っていたよりも早いペースで上がっていった。そんな時、彼女のくるぶしはあの“強さ”が見えるのだった。けれどそのくるぶしは、坂を上りきり大きく息をついて立ち止まると、再び色を失い、透き通る様に見える。なんとも不思議な光景に、康志は刹那、覚め切らぬ夢の中に居る気分がしていた。
 その急坂を過ぎてしばらく行くと、緩やかな下り坂の先が小さな広場の様に道幅が広くなっている箇所がある。裏大仏のハイキング・コースはまだ先迄続いているが、ここが佐助稲荷への分岐点なのである。
この小さな広場の脇に、気付かない程細い、下へ降りる道がある。ハイキング・コースとは逆方向に、戻る様な形で佐助稲荷へ通じるこの道は、まるで獣道の様相である。
 鎌倉では谷を「やと」、「やつ」と呼ぶ。この山あいの谷間は佐助ヶ谷と呼ばれているのだった。
 稲妻模様に折り返す道の幅は、人一人がやっと通れる幅しかなく……と、言うより人一人が歩ける幅を、急激に落ち込む佐助ヶ谷への斜面にようやく確保した、といった状態であり、勿論手すりなど、無い。
 「大丈夫?」
 康志は潮里が心配で声をかけた。あの潮里の“強い”くるぶしを思えば、心配するには当たらないのかもしれなかったが、彼にはまだ、彼女の持ち合わせているか細さの方が大きな存在だったからだ。
 「うん。ちょっと怖いけど大丈夫。」
 そう言って潮里は一歩一歩足元を確かめる様にゆっくり降りて行った。
 この“獣道”を降り切ると、佐助稲荷の境内である。社の横、境内の脇から入る事になる。尾根から下るこんな細い道にも、きちんと鳥居が建っている。
 社の正面は、佐助ヶ谷へと下る階段で、何十本もの鳥居のトンネルである。この道が佐助稲荷の正式な参道なのだ。
 社の両脇には苔むした岩が建っていて、石で作られた狐が守る様に乗っている。その意外に険しい表情が、小さな稲荷に似合わず重厚な雰囲気を造り出していた。この一対の岩は、歴史的なものでなく、近年建てられたものに違い無い。けれど、苔むすだけの年月は重ねている訳である。岩の裂け目からは名も判らぬ草も生えている。その間にこれだけの威厳が備わって来たのだろう。それはとてつもない力である様にも思われた。しかし、この人の心を見透かす様な鋭い目つきをした狐の像も、右側の岩の上にあるものは既に破損し、哀れな印象すら与えている。狐が鎌倉特有の柔らかい石を削って作られたものであるとすれば、色褪せた赤い布を首にかけた左側の狐が朽ちていくのも、時間の問題なのだろう。苔むし、草が生えてゆくのと、どちらが早いのだろうか。康志は時間というものが、積み重なっていくものなのか、それとも崩壊していくものなのか、などと考えていた。
 佐助稲荷には、伊豆の蛭ヶ小島で逼塞していた源頼朝の枕元に、この社の神が翁の姿を借りて現われ、挙兵を勧めたという伝えがある。このお告げに従った頼朝は兵をあげ、平家を破ったのである。後に畠山重忠が頼朝の命で再建し、佐助稲荷という名がついたという。頼朝が当時佐殿(すけどの)と呼ばれていた為、“佐殿を助けた”という意味であるらしい。
 稲荷は、裏大仏ハイキング・コースと佐助ヶ谷の中間、山の中腹にある。わづかな場所に小さな社と、境内を構えていた。
 康志は社の前に立って、財布の中から5円玉を2枚探して賽銭箱に投げ入れた。
 「5円玉を2枚持ってたら、それを入れるといいよ。」彼は潮里に言った。
 「どうして5円玉2枚なの?」
 「再び御縁がありますように……って言うんだってさ。もう一度ここに来られますように……って。」
 「本当?始めて知ったわ。」
 「高校の修学旅行で、宮崎の青島に行った時、バスガイドに教えてもらったんだ。」
 「ふ〜ん、面白い。でも……。」と、潮里は自分の財布を探った。
 「やっぱり、私はもう来られないかもね……。5円玉、1枚しか無いし……。」
  5円玉を顔の前に持っておどけて覗いて見せる潮里を見て、康志は“しまった”という思いにかられた。自殺を考える彼女に、死ぬ事を忘れさせるには逆効果だったのではないか。
 「それでも“御縁”にはなるさ……。」そう応えた康志の声は、不覚にも暗く沈んだ感じだった。
 彼女は 5円玉 1枚を賽銭箱に投げ入れ、手を打った。康志も手を打って目を閉じた。その時彼は何を祈っただろう。
 “夏海と再びやり直す事が出来ますように……”。
 潮里の所為で、もはや康志の頭の中の夏海は過去の存在になって行くのかもしれなかった。けれど、彼は義務感にも似た気持で、夏海との事を祈ったのだった。そう……まさしくそれは、義務感であったかもしれない。潮里は康志の中で段々大きな存在になり始めていたが、その気持が果たして恋愛感情なのか、同情なのか、それとも惜しみの感情なのか、自分自身で判断出来ずにいた。と、同時に彼はまだ夏海の事を愛していた事も又、間違いの無い事実だったのだ。夏海をすぐに忘れる等という事は出来なかった。忘れてはいけないと思っていた。そんな決心めいたものがあった。潮里は今日一日だけで、本当に二度と再び逢う事は出来ないかもしれない。それなら彼女にあまり深入りしない方が良い……。一時に頭のなかを駆け巡った様々な想いが、康志に夏海との再会を祈らせたのだった。だが、閉じたまぶたの裏にふわりと浮かんだのは潮里の顔だった。康志はどうやら後戻り出来ない境地に入り込んでいる様だ。ふと夏海に対する(必要の無い)後ろめたさを感じて、目を開け、隣を見ると、潮里はまだ目を閉じて手を合わせていた。
 「何をお願いした?」彼は彼女が目を開けるのを待って、訊いてみた。
 「勿論“御縁がありますように”って。」潮里は笑った。
 「何に?」
 潮里は唯笑うだけだった。

 社の脇に紅葉(もみじ)が立っていた。青々とした若葉の紅葉は、稚児の掌の様な葉を幾重にも重ね、風に揺らし、地面に緩やかな影の漣を寄せ返していた。見上げると、一重の葉の部分は未だ黄色を含んだ若々しい緑色で、二重、三重と葉が重なった部分は、濃い青に染まりそうな暗緑色だった。いかにも薄い葉の揺らめきは、他の木々の揺らめきとは明らかに異なる優しさと繊細さで、涼やかな空間を造り出している。
 潮里は……潮里はこんな景色をどう感じているのだろうか……。
 境内には休憩の為に、板張りのままの粗末な床几(しょうぎ)が幾つか置かれており、これも露天にしつらえられた竃で沸かした茶を、自由に飲む事が出来る様になっている。幾人かの観光客が腰を降ろして雑談をし乍ら茶を飲んでいたが、皆不思議と、生い茂る木々の葉が遮る空を仰いでいるのは、やはり緑のフィルターを通り抜けて来る心地良い空気を吸い込む為だろうか。
 二人は境内の、佐助ヶ谷を見下ろす際に建った、東屋に入った。東屋の中は低い背もたれをつけた床几を、入口を除く三方に回した様に、椅子が備えられていた。腰を降ろすと、途端に空気が柔らかくまつわりついて来た。顔や身体をなでていた風は動く事を止め、身体の中から熱が上がって来る。潮里の上気した頬や首筋からも、熱が上がり始めている事が知れた。背景の緑が更にそれを際立たせていた。それは緑の中に下がった果実を想わせた。彼女の首筋にぽっと灯った赤みが、妙に女らしく思えて、康志はふと目を落とした。潮里は気付かない様だった。
 「ここ、いい所ね。」潮里は周りを見回した。
 「いいだろう。ここ好きなんだ。落ち着くから。」目を上げると潮里の口元に笑みが浮かんでいた。それは微笑んでいるという風でなく、心地よさにふと唇が緩んだ感じだった。佐助ヶ谷の空気は彼女の心にも染みていくらしい。もし、そうであるならば、彼女の「自殺」願望も萎えて行くかもしれない。康志は、そうであって欲しいと思っていた。
 それにしても、彼女は自殺をしようと思ってこの鎌倉へやって来たのだったろうか。それとも最後の思い出の地として鎌倉を選んだのだろうか。“一日恋人でいて欲しい”といった時の、彼女の言葉を考えれば、最後の思い出の地としてやって来たのだと思うが、果たして康志と出会わなかったとしても、鎌倉を独りで歩いて思い出としただろうか。鎌倉にはなんとなく不遇な雰囲気が似合う様な気がして、死ぬ場所としてやって来たのではなかったか。康志があの場に居なければ、そのまま自殺の地としたのではないか。誰でもいい、他の誰かに声をかけただろうか。何れにせよ、誰かに声をかけるという行為は、自殺を止めて欲しいという事ではないのか。
 心地良い緑の中に腰を降ろし、薫る様な空気を吸って落ち着いてみると、潮里の「自殺願望」に対する様々な想いや疑いが、康志の身体の底から湧き出て来る。そう思って潮里を見ると、額にかかった髪の影も薄らいでいく様で、緋い唇も色が褪せる様に見えた。それがかえって彼女の姿を小さく見せ、笑みを浮かべた様に緩んだ唇も尚更柔らかく見えて、康志の中で、彼女の愛らしさが高まって来るのだった。
 東屋のすぐ下は佐助ヶ谷に落ち込む崖になっており、谷の下は草や木が生い茂っている。木々は東屋の前を空に向かって突き抜け、広げられた枝々と若い緑の葉は、重なり合う事で視界を遮り、この稲荷を住宅街となってしまった平地から隔絶させていた。
 潮里は、あの口元もそのまま、谷から生える自分の目の高さあたりの木々を見つめて動かなかった。谷の緑が彼女の瞳に映り込み、その美しい黒い瞳まで緑に染めてしまうのではないかと思われた。
 東屋の横の火にかけられた鉄瓶にお湯の沸く音が、微かに聞こえていた。鳥の声、木々の風鳴り……。静かだ。境内にいる人々も、話し声をひそめている。
 「康志さん。」潮里は彼の目をみつめた。彼女の眼は、少し悲しげに見えた。谷を見つめて何を思ったのか、判る筈も無いが康志には思いもつかない事を想っていたのだろう。
 「何?」
 「康志さん……、恋人は……居る?」
 突然の潮里の言葉に、康志の胸の鼓動は早まった。夏海の顔がはっきりと浮かんだ。潮里の“眼”を意識すると、あれ程思い出そうとしてもはっきりと思い出せなくなっていた夏海の顔が、まるで写真を目の前にしている様に浮かんで来るのは、潮里の一言の所為に他ならなかった。潮里は何故急にそんな事を訊いたのだろう。潮里の悲しげな眼は、何を伝えようとしているのだろうか。
 「いたよ……。1年位前迄は……。」そう自分自身で言葉にすると、あの時の夏海の透けた赤い髪や、白い背中等が彼の頭の中にフラッシュ・バックして来るのだった。  「訊いてもいいかな。」
 「何を。」
 「どんな人だった?」
 「素敵な女性だったよ……。落ち着いてて、いつも凛としてて……。」
 「いいわね。そういう女性って……。理想だなぁ。」
 理想……。そう、康志にとっても理想だった。自分の言葉に、夏海に対する愛情が、押し寄せる様に戻って来るのを彼は感じていた。少なくとも今この瞬間、夏海に対する愛は義務感では無くなっていた。
 「今でも、その人の事好き?」潮里の言葉は、素直だった。子供が何か不思議に思った事を、親に問いただすのに似ていた。応えに策略を用いる余裕を与えなかった。
 「好きだよ……。」
 「うらやましい……。」
 「え!?」
 「うらやましいわ……。私も康志さんみたいな人に愛されたら……。」
 思いがけない言葉だった。彼は少なからず動揺した。愛しいのは夏海なのか、目の前の潮里なのか判らなくなった。彼女の一言一言に自分の感情が正反対に裏返ってしまう。確かに夏海に対しての感情と、潮里に対しての感情は違う。しかし形は違ってもそれはどちらも恋愛感情であった。唯、潮里に対してはまだ、心を防御する気持が強く働いていた。彼女に対する愛情が弱いという事ではない。けれど、夏海と重ねた身体の感覚は、心の奥底に棲みついて簡単には消せないのだった。
 「好きだけど……、その女(ひと)とは、もう恋愛感情じゃないんだ。」それは彼自身にとっての言い訳だったのかもしれない。康志は佐助ヶ谷へと眼を逸らした。潮里に心の変化を悟られない様に、と想っての事だった。今の潮里には総てを見透かされそうで、彼は彼女の瞳を見つめ返す事が出来ずにいた。
 「うらやましい……。本当にうらやましいわ。別れた後でも自然に好きでいられるなんて……。」
 “うらやましい……”。“本当にうらやましい事だろうか。ほんの数時間前迄僕は、もう逢えもしない夏海の事だけを考えていたのだ。もう一度、夏海とやり直したいと……。“別れた後でも自然に好きでいられる”等というのは、“恋愛感情じゃない”という自分の言い訳じみた言葉を、純粋に受け取った潮里のかいかぶりに過ぎない。潮里はこんな自分に“うらやましい”と言う。そんな彼女の気持を僕はそのままにしていて良いのだろうか?彼女の純粋な言葉を、言い訳じみた僕の心の中にそのまま受け入れてしまって良いのだろうか……。”康志は迷っていた。しかし、それを口にする事は、言い訳の上に言い訳を重ねる様で、彼には出来なかった。
 「君は?」
 「え!?」
 「君は好きな人は?」
 「いない……。いないわ。いたら死なないわ。」
 “死ぬ”という言葉に康志が彼女を振り向くと、今度は潮里が彼の視線から逃げる様に、東屋のすぐ脇に生えた木の枝葉に眼を向けた。それは彼女自身、絶望感を感じた様な口調だった。佐助ヶ谷の空気が、彼女の“自殺”を思い止めさせてくれるのではないか、という康志の淡い期待も崩れてしまう様だった。
 「過去にはいた?」
 もし、いたとすれば、自殺等と言い出す原因は、その好きだった男の事だろうか、と康志は考えた。
 「ううん。過去にもいないの……。私、駄目なのよね……。」
 「本当に?」
 「本当に。」
 それでは潮里の“自殺願望”の原因は一体何なのだ。裏大仏ハイキング・コースで聞いた、“なんとなく”が総てだと言うのか。
 康志は潮里を見つめた。彼女はずっと佐助ヶ谷の木を、ぼんやり見つめたままだった。長くはないが、美しく揃ったまつ毛が、瞬きをする度に小さく震え、乱れた幾筋かの前髪を揺らしていた。そのまつ毛が濡れた様に見え、泣いているのかと思ったが、それは彼女の瞳の潤いに過ぎなかった。彼女の瞳は他人(ひと)よりも少し潤みが多いらしかった。それが彼女の眼を大きく見せ、水平に伸びた目尻の影を深めていた。
 突然、そのまつ毛がぴくりと動いた。
 「ね、あそこに何か居る。」潮里が谷に生えた木の梢を指差した。
 「多分リスだろう。何処?」
 鎌倉にはリスが多い。元々、日本にはいない筈の台湾リスだが、飼われていたものが逃げだして野性化し、繁殖したらしい。
 この東屋の谷側にはリスの餌台が作ってあり、観光客にも慣れてしまったリスが、餌をとりに木の上から降りて来る。
 「あそこの枝が二股に分かれている所。」潮里は、康志の視線に近付けようと顔を寄せ、木を指差した。
潮里の体温が康志の頬に伝わって来た。切ない微かな温みだった。このわづかな温もりで、彼女は今迄生きて来たのかと思うと、潮里という存在が益々危ういものに感じられた。
 潮里の指の先を追うと、灰色をした毛玉が、恐る恐る餌台の様子を窺っている所だった。
 「あ、やっぱりリスだ。」
 「私、野性のリス見たの初めて。」
 リスは素早く枝から枝へ飛び移り、餌台迄やって来ると、何かの種らしい餌をくわえてサッと上の枝へ逃げる。そこで小さな子供の様に、両手で餌を掴んで食べるのだ。
 「可愛い……。」
 リスの動きを追いかける潮里の横顔は、子供を見守る母親の表情の様でもあった。女というものはやはり何処かに母性を持ち合わせているものらしい。けれど彼女のそれは、決して“強い母親像”ではない。滑らかに優し気なだけで、何かを守る気力には欠けている。それが彼女の“自殺願望”の所為なのか、未成熟な心身の所為なのかは判らないが、その弱い母性が言いよう無く美しいのは事実だった。目的を持たない奉仕の様な優しさが、白痴美にも似た感覚で、康志の心に映り込んだ。それは同時に悲しい優しさでもあった。
 腹を満たした様子のリスは、梢から梢を飛び渡り、谷の奥へと消えて行った。
 「あっ、行っちゃった。」
 境内は再び木々の葉の擦れ合う音と、何処かで鳴く鳥の声だけに包まれた。
 潮里はしばらくあきらめきれない様子でリスを探していたが、ふと康志を見て微笑んだ。康志も微笑んだ。彼女の“目的の無い奉仕の様な優しさ”が、彼は自分に向けられた気がした。

to be continued