Preview Lists

その1その2その3その4その5



 康志はこの先、佐助稲荷へ行く心算だった。高徳院から佐助稲荷へ行くには、大きく三つの方法がある。一つは徒歩で市街地を抜けて行く方法。二つめは江ノ電で長谷から鎌倉駅へ戻り、そこから徒歩で行く方法。そして三つめは裏大仏のハイキングコースを歩いて佐助稲荷の背後の山から、社の裏側へ降りる方法である。
 ふと見上げた春空の高さが気持ち良過ぎた為、康志は裏大仏のハイキングコースを歩きたくなったのだった。春空が高いと言っても、冬の日の晴れた空の様に何処迄も突き抜ける様な高さではない。夏の空の様に巨大な入道雲に押し上げられる程の高さでもない。微かな風で消えてしまいそうな儚い綿毛の雲が、遥かに流れて行くのだったが、その儚く淡い高さが、今はほっとするのだった。
 康志は潮里をハイキングコースへ誘ってみた。
 「佐助稲荷っていう山の中のお稲荷さんに行こうと思ってるんだけど、ハイキングコースで行ってもいいかな?」
 所詮は鎌倉という街に隣接する、“少し高めの丘”程度の山を巡るハイキングコースだが、場所によっては中々険しい所もあり、女の娘の足には少し辛いかもしれなかった。けれど潮里はかかとの高い靴を履いている訳ではなかったので、きっと歩けると考えたのである。
 「良いけど、ハイキングコースってどういう道?」潮里は少し不安そうな顔をした。
 「起伏がけっこうあってキツイかもしれないけど、道自体は家族連れでも十分歩けるから……。」
 「いいわ。でもゆっくり歩いて。」
 「わかった。」

 高徳院を出て山側へ向かう歩道は、道幅が極端に狭く、こちらへ歩いて来る人とすれ違うのもやっとの状態である。当然二人並んで歩く事は出来ない。康志はそれとなく彼女を前に歩かせた。彼が一人で前を歩くと、つい歩き方が早くなってしまいがちだったからだ。
 彼女はすれ違う人々を、不思議な程するりとすり抜けて歩いた。踊る様な潮里のくるぶしを見乍ら、康志は浜辺での彼女とは違う、ある種の“強さ”を感じていた。柔らかく透き通って、消えてしまうかに思えた、あの浜辺での彼女のくるぶしはここには無かった。逞しいという程では無い。そこにはやはり女性らしいか細さが備わっていたが、自らの時間を自分で歩いて行けるだけの力は感じられた。そう感じると康志には、尚更彼女が“自殺”を考えている等という事が不思議に思えて来た。はたしてあの話は本当だったのだろうか……。或いは彼女のくるぶしに“強さ”を感じたのは、足先を洗う漣が無い所為かもしれない。

 潮里の後を追い乍ら狭い歩道を進むと、眼前に壁の様にそびえる山をくり抜いた大仏坂切り通しのトンネルに行きあたる。かつての大仏坂切り通しは、道路の反対側のトンネルの上辺りに、その名残を止めるらしいが、康志自身は行った事は無かった。そして今歩いている歩道側のトンネルのすぐ脇に、裏大仏ハイキングコースの入り口はある。細い階段で始まるこのハイキングコースは、急激に山の尾根へ向かう為、その傾斜がひどく急で、おまけに一応石組の形を採る階段はすぐに途切れ、単なる急坂になってしまうのだった。始めて歩く女性の足には少し辛いかもしれなかった。康志は階段が途切れる辺りで、彼女を追い越し前に出た。勿論道案内の心算だった。ハイキングコース自体は一本道で迷う事は無いと思うが、尾根へ上りきった辺りが二股に分かれており、そこを教える為だった。潮里はスカートを絞る様にして持ち、少し持ち上げて、一歩一歩足元を確かめ乍ら上って来ていた。坂を上り始めると、潮里はすぐに遅れがちになった。彼は途中で幾度か立ち止まって彼女を待ったが、潮里は既に大きく肩で息をしている。それでも康志に追い付こうと、少しペースを上げるのだ。
 「大丈夫?」
 「うん。」
 潮里はまるで息をもらす様に、それでも笑顔を作ってそう応えた。彼女が浜辺で“自殺するの”と打ち明けた時よりも、ずっと不自然な笑顔だった。けれど、同時にその笑顔は、康志には無性にいじらしく見えた。彼の足を追いかけて、坂を上って来た火照りが冷めぬままだった所為もあったろう。
 「少し休もうか?」
 「ううん。平気。まだ上り始めたばかりだもの。」
 紅潮した潮里の頬が、彼女の髪の、あの赤い色にも劣らない程の強さで、心に染み込んだ。しかし、それは“髪の赤い色”の様な耽美的な衝動ではない。それは麝香(ムスク)ではなく、香水(オー・ド・トワレ)だった。
 そういえば、今の潮里の様な顔をした夏海を、康志は見た事が無い。夏海にはいつも何か涼し気な乾いた空気がとり巻いている、そんな印象があった。いつでも落ち着きはらっていた、という意味では無い。夏海はいつも明るかったし、彼は彼女のそんな明るさが大好きだったのだが、潮里の様な“いじらしさ”には欠けていたと思えた。それは正しく麝香であった。例えば、今ここへ上がって来たのが、潮里ではなく夏海であったとしたら、夏海は多分、康志に合わせて無理にペースを上げる様な事はしなかっただろう。自分が乱れない程度のペースで足を運んだに違い無い。けれど、夏海のそういった性格は、彼にとっては大きな魅力として映っていた。いつでも破綻を見せる事の無い女性として……。康志にとっての、彼女の唯一の破綻は、別れ際「終わりよ……。」と言った言葉を震わせてしまった事だけである。しかし、それは彼にとっての慰めになったのだから、結果的には彼女の破綻では無くなった。つまり夏海は最後迄、康志にとって完璧に魅力的な女性だったのである。
 それにも関わらず眼の前の、額に汗をにじませた潮里の姿は、夏海とは異なった形で、康志の中の甘い琴線に触れる所があった。潮里の笑顔が琴線を震わせ、夏海の別れ際の淋し気な顔とオーバーラップした。やはり潮里の存在は、夏海を思い出すきっかけにもなっているのだった。
ここに居るのが夏海であったなら……、夏海はこんな時はどうであったか……。
 尾根の上は、所々アップダウンはあるものの、比較的楽な道が続いた。康志は潮里にペースを合わせて、ゆっくり歩いた。ここへ上がって来た時の身体の火照りが過ぎ去ると、両側に生い茂る木々の隙間を、影の様に吹き抜ける涼やかな風が、気持良かった。
 「康志さんは何回位鎌倉に来てるの?」
 「何度も来てるよ。好きだからね。もう30回以上来てるな。」
 「そんなに!?よっぽど好きなのね。」
 「ぶらぶらしたり、スケッチしたりね。」
 「じゃあ、スケッチもいっぱいあるんだ。」
 「20枚位かな。スケッチをさぼって、唯ぶらぶらしてる事も多いからね。」
 「スケッチは後で油絵にするの?」
 「君の親友はそうしてた?」
 「うん。なんだかよくスケッチして来たのを見乍ら、油絵を描いてたわ。」
 「そう。僕も油絵にする事あるけど、この鎌倉のスケッチはスケッチとして描いてるんだ。いずれ歳をとってからでもいいから、描き貯めたスケッチで鎌倉のスケッチ集を出したいんだ。自費出版でいいから……。」
 「いいわねぇ。夢があって……。私にもそんな夢があったら、死ぬ事なんて考えなかったかもしれないのに……。」
 潮里は再び自然に“死”を口にした。康志は、ひどくがっかりした気分になった。夏海の甘い記憶迄、強制的に押し止められてしまった様な気持がした。
 「それ……本当の話?」
 「え!?」
 「自殺の話……。」
 潮里は康志を追い越して少し先へ小走りに進むと、微笑って振り向いた。
 「本当よ。」
 あまりにもくったく無く応える彼女の前で、康志の方が深刻だった。彼女は自殺志願にしては、明る過ぎる。
 「どうして?」微笑んで訊いた心算の康志の声は、彼自身も驚く程、か細かった。
 「う〜ん。」潮里は立ち止まった。
 「何もかも嫌になっちゃったの。」
 「どうして?」康志はまだ微笑んでいた。真剣な顔で訊く事は、彼女の明るい気持を壊してしまいそうに思えたし、彼の中でまだ何処か“自殺”の話を信じ切れずにいる部分が、彼女の自殺話が戯れであった時の為の予防線を張っていたのだった。
 「なんとなく……。」
 彼女の応えは、それだけだった。康志はそれ以上問いただすのを止めた。“なんとなく”という言葉には発展性が見出せないと思えたからだった。それに彼は、今を壊すのが怖かった。潮里と約束した様に、恋人としての二人で居たかったのだ。
 会話が途切れた。彼女の機嫌を損ねた訳ではない。唯、ふっと空白の時間が出来たのだった。潮里は木もれ日が気持良さそうに、一瞬眼を閉じて顔を上げ、息を吸った。
 道はアップ・ダウンを繰り返し、葛原岡方面へ続いている。
 雑木の間から、彼方に海が見えた。青葉の狭間から見る海は、さっき迄の、成就院参道や浜で間近に見ていた海とは、又異なって見えた。それはまるで陽炎の様にちらちらと陽の光を反射し乍ら揺れていた。ここではその碧い色はすっかり薄らいで、白い反射の上に色砂を蒔いた様に散らばっているに過ぎなかった。
 康志はその海を見て、立ち止まった。
 「海が見えるよ。」
 「何処?」潮里は、康志の視線の先を追いかけて木の葉の間を覗き込んだ。
 「あそこ。」と康志は指をさしたが、遠いけれど彼方いっぱいに広がる海の何処をさしているのかは、彼自身でも判らなかった。海の様な大きい、部分を指定出来ない様なものを指さすのは、何かおかしな気もして、康志は急いで言葉を繋いだ。
 「由比ガ浜だよ。さっき居た所。」
 「本当だ。綺麗だね。」
 彼方の海を見つめる潮里の横顔に向かって、新緑の間から射す光が、それぞれ小さなスポットライトの様だ。緩やかな風が木の葉を揺らし、光が瞳にかかる度、彼女は眼を細めた。その度に康志は彼女のまぶたの穏やかな膨らみに、動揺する気持を感じていた。日に透けた赤い髪……その髪の艶かしさとはうらはらに、清楚で無垢なものを感じたからだった。女として見始めていた気持を、隠さなければならない様な気がした。彼女に触れたいが、そのまぶたから感じる感情は、“抱く”のではなく“愛でる”という言葉がふさわしい様に思えた。はっ、としていた。いつの間にか、潮里は康志の心に入り込み始めている様だった。夏海とは違う……。夏海に抱いていた感情とは違っていたが、康志の心に小さく潮里の灯が灯った。
 「その親友がね……」と、潮里は急に、独り言の様に言った。
 「え!?」康志は不意をつかれた気がした。
 「私の親友がね、海は見るものじゃなくて聞くものかもしれないって言ってた。なんかラジオの深夜放送でそんな事を言ってたらしくてね、自分でもそうだなぁって思ったんだって。」
 「ふ〜ん、絵を描いてるのに珍しいね。」
 「でも海の絵は駄目なんだって……言ってた。どうしてもうまく描けないって。」
 「確かに海は難しいね。」
 ここ迄来ると、もはや耳をすましても波の音等は聞こえようも無い。唯、そよ風が木々の葉を揺らし、枝を擦れ合わせる音と、鳥のさえずりが聞こえるばかりだ。康志が道を振り向くと、少し動き出した風に、モザイクの様にちりばめられた日溜まりが、万華鏡となって不規則に揺れ動いていた。自分の足の下の地面も揺れている錯覚に陥り、めまいの様な感覚に足を踏み出して身体を支えると同時に彼女に視線を戻すと、外側から光を当てられた髪が、赤く透ける事も無く、緑色のまま風に乱れて、背景の若葉にからまりそうだった。それは例えようも無く美しい光景に思えた。康志は“この光景を一生忘れずにおこう”と心に焼き付けた。
 海は水平線の辺りが、空に消え始めていて、海と空の区別はきらきら光る反射だけである。いかにも春の海を思わせた。
 「僕はやっぱり海は見る方がいいな。」
 「私も……。私も見ていたいわ。」
 彼女はふっと淋し気な表情をした様に見えた。潮里が何故そんな話をしたのかは判らない。けれど彼女は、親友の事を話す時には、何処か感傷的になっている様子だった。
 「親友……、なんていう名前?」
 「美砂。」
 「その美砂ちゃんはどの位絵を描いてるの?」
 「判らない。知り合った時にはもう描いてたし……。」
 潮里の声は、又半音トーンが下がった様だった。康志はそれ以上親友の話をするのを止める事にした。
 「行こうか。」

to be continued