Preview Lists

その1その2その3その4



 長谷の駅にさしかかると、踏切が降りて来た。潮里はふっと黙り込んで、鎌倉行きの江ノ電が駅に停車するのを見つめている。康志はそんな潮里の横顔を見つめ乍ら、今の二人がどうすれば恋人同志に見えるだろうかと考えていた。こうして肩を寄せ、微笑い乍ら歩いていても、それだけでは恋人には見えないだろうと思われた。彼女の願いに応える術をあれこれ考え乍ら、彼はだんだんと絶望的な気持ちに落ちて行った。
 夏海を哀しませる事しか出来なかった自分に、潮里を受け止める事等出来る筈がないという思いが、康志の頭の中に暗雲の様に広がって来るのだった。
 耳を刺す様な踏切の音が鳴り止むと、一瞬、長谷駅のすぐ傍らを通るこの道は、静まりかえってしまった。駅では多くの人々が乗り降りをし、アナウンスが流れ、踏切を車が渡って行き、観光客が笑い乍ら歩いているのに、妙に静かだった。総ての音のトーンが、下がってしまった様に感じられた。
 「ね!?」と潮里が康志の顔を覗き込んだ。
 「何?」不意をつかれて、彼は少しとまどった。きっと目をむいて彼女を振り向いた形だった。
 「何処へ行くの?」
 「あゝ、大仏。でも、その前に食事しようか。」
 二人は道の左手にある蕎麦屋に入った。昭和の初めに長谷の駅前から、この場所へ移ったというその店は、小じんまりとして飾り気が無いが、やはり何処となく歴史を感じさせる。この何気ない昔ながらの装いの店内で、潮里はふわりと舞い降りた綿毛の様に見えた。今風の喫茶店にでも入れば、そんな風には見えなかったに違いない。けれど、時代のネジを巻き戻してしまったとも思える店の中では、彼女の存在自体が浮き立っているのだった。
 康志は、“彼女はどうして自殺等という言葉を口にしたのだろう”と考えていた。
 再び星の話などを始めた潮里の声も、唯彼の頭の中を通り過ぎて行くだけだ。折角の老舗の蕎麦も、味気なかった。
 店を出ると、白い日差しと人波によろけそうになった。大仏のある高徳院周辺は流石に人が多い。行き交う人々に押されて、潮里の腕が康志の腕に触れた。彼は、その意外な柔らかさにハッとした。夏海の……何故か夏海の温もりが、身体の中に蘇って訳も判らず哀しくなった。夏海の肌が恋しくなった。潮里の腕から伝わる柔らかさと暖かさが惜しくてそのまま身体を離さない様、康志がそのまま彼女の肩に手をまわすと、潮里は少し驚いた様子で彼を見つめたが、唇は微笑んでいた。康志はそんな潮里の瞳に、頭の中に浮かんだ夏海の姿が、透けて見えてしまう様な気がして気が気では無かった。潮里の恋人のふりをし乍ら、心のなかでは夏海を渇望している。潮里を裏切っている様な気もするのだったが、夏海はまだ彼の心の奥に深く突きささっていたのだった。彼女の肩に手をまわして歩く姿は、傍目には恋人らしく映ったかもしれない。しかし、康志の心は……。
 高徳院の門をくぐる。往来の人達を避け乍ら狭い仁王門をくぐると、境内の広さに人ごみは急激にその密度を落とす。人の多さに淀んでいた空気も、緩やかな風となって動きだしていた。  「大きいね。」潮里は眩しそうに天を仰いだ。
 「あゝ、奈良の大仏程じゃないけどね。」
 大仏は、いつもと変わらず裾にまつわる人々のざわめきの中に居た。
 “鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな”という与謝野晶子の歌は有名である。そして又この大仏が“釈迦如来”ではなく、実は“阿弥陀如来”で、この歌が誤りである事も有名になってしまった。如来は手指によって形づくられる“印相”等によって区別される。与謝野晶子が何故こんな間違いをしたのかは判らない。その印を結んだ手は、大きな烏瑟膩沙(うしにしゃ)と優し気な眼差しを投げかける眼を持つ頭部に比して小さく、遠くから見ると一見頭でっかちでアンバランスだが、これは大仏の下から見上げて始めて最良のバランスになる様、遠近法迄も考慮に入れた設計の為なのである。建立当時は勿論大仏殿を持ち、全身に金箔を纏い、黄金色に輝いていたと言う。人々の、様々な願いを集めるのに十分な存在であったに違いない。しかし大仏殿は二度洪水で崩壊し、それ以後再び再建される事はなかった。そして現在の様な露座になったのである。身体を覆った金箔がはげ落ちてゆくのを、当時の鎌倉の人達はどんな思いで見つめて来たのだろう。明治時代に一度、高徳院の住職の手で大仏殿再建の勧進帳が作られたが、決局それは実る事無く幻となった。今は全身緑青(ろくしょう)に覆われ、文字通り青緑色に佇むが、右の頬と耳の辺りに、かつての金箔の名残が微かに残っている。
 「ねぇ、大仏様は描かないの?」潮里が康志の顔を覗き込んだ。
 「今日は桜橋を描きに来ただけだから、良いんだ。パレットもグチャグチャだし……。」
 「桜橋って、さっき描いてた橋の事?」
 「そう。」
 「綺麗な名前の橋ね。でも大仏様を描かないのは一寸残念。」
 「本当に絵が好きみたいだね。」
 「うん。さっき話したけど、私の親友の女の子が絵を描いてたのね。だから私の家には、その子からもらった絵が何枚もあるわ。だから私も好きになっちゃったの。これもさっき言ったけど、絵を描けるって事がなんだかすごくうらやましくて……。今日康志さんに声をかけたのも、康志さんが絵を描いてたからなのよ。」
 「そうか……。君の親友の絵っていうのも見てみたいな。」
 「でも、もう今は描いてないの……。」
 「へぇ、そいつは残念。」
 二人は話し乍ら、人の集まる正面を避け、大仏の左側へ身を寄せた。康志がふと、潮里を見ると、彼女は大仏の右頬にわづかに残った金箔の辺りを見つめていた。いや、それよりもその先の空を見つめている様に見えた。じっと遠くに向けた眼差しで、潮里が一体何を思っているのかが気になって、康志も彼女の見つめる先に眼を上げた。彼の瞳の中に何か黒い影が飛び込んだ。ハッとして良く見ると、それは明るい空を背景にした木の葉だった。二人の立っていた位置が木の下であった為に、大仏の頭部を見ようと顔を上げると、視界の上の方に、下がった枝に茂る木の葉が空の一部を遮るのだった。彼女の“自殺”という言葉が、頭から離れなかった所為か、彼女の見つめる先に黒い影を見て、一瞬不吉なものを感じたのだったが、木の葉と判ってホッとした。改めて見てみれば確かに影にはなっているものの、決して真黒ではない。青い空と呼応して、優しい緑色に揺れている。康志は、そんなものが黒い影に見える程ボンヤリしている自分が、なんだか可笑しくなったが、まだ、黙って空の一点を見つめている潮里を見て、再び心が重い淵に引き戻されていった。しかし同時に、そんな潮里の瞳に康志の視線は釘づけになった。潮里の、鋭利に何かを射竦める様な眼が、夏海と似ている様な気がしたのだ。けれど何故か、その夏海の顔を彼は今どうしてもはっきりと思い出せないのだった。愛している筈の夏海を思い出そうと焦れば焦る程、目の前の潮里の眼が、記憶の中の夏海の顔を覆い隠してしまっている。あの最後の日の夏海の背中は思い出せるのに、沢山の二人の日々を焼き付けた筈の夏海の眼は、悔しい程思い出せない。口は?鼻は?細部に及んで記憶の糸を手繰れば手繰る程、夏海の顔はすりガラスを通して見た様にぼんやりとして、はっきりしなくなるのだった。唯一鮮やかに浮かぶのは、日に透けた赤い髪の色だったが、それさえもはたしてあの日の夏海の髪の色なのか、浜辺での潮里の髪の色なのか判然としない。この動揺は一体何を意味しているのか、彼には判らなかった。
 唯見つめている康志に気付いて、潮里が彼を見た。康志があわてて、とりあえず微笑んで見せると、彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、やはり微笑んだ。二人はお互いにそれぞれの思いを隠す為に微笑んで見せていた。それには二人共気付いていたが、その微笑みは互いに相手を気遣う優しさから出ているという事も又判っていた。その思いやりは今、とても心地良く、康志は夏海の顔を思い出そうとする努力を止めた。すると何故か再び、夏海の存在は柔らかく優しいものになり、彼女の笑顔も眼もおぼろげ乍ら見えて来るのだった。

to be continued




用  語  解  説


◇烏瑟膩沙(うしにしゃ)
  仏像の頭部の一段盛り上がった部分。これは髪型ではなくて、頭そのものがそういう形に なっているもので、知恵が
詰まっているという。

◇勧進帳(かんじんちょう)
  物を作ったりする時の寄付金を集める為に書かれた、いわば企画書。