Preview Lists

その1その2その3



 「ねぇ、私ちっちゃな時にね、一度海で溺れそうになった事があるのよ。」
 「それでも海は嫌いにならなかった?」
 「うん。自分でもちょっと不思議なんだけど……。」
 潮里の話は他愛なかった。小さな頃の話、高校時代の話等、自分の今までの日常生活を、まるで自分の日記帳を遡ってめくっていく様に、しかし自然に話すのだった。康志は潮里のそんな話を、波音の間に聞き乍ら何故か無性に懐かしい気持ちになっていた。そういえば潮里の話す事は皆過去の話ばかりだ。けれど今はそれが非常に心地良い。鎌倉は康志にとってのサンクチュアリだったが、この瞬間それはまさしく現実だった。
 そして潮里は突然、星の話等を始めたりするのだった。
 「ねぇ、オリオン座の大星雲って肉眼で見えるの知ってる?」
 「いや、知らないなぁ。」
 潮里はフッと笑って、「オリオン座って判る?」と訊いた。
 「いや、実は知らない。」と康志も笑った。
 すると、彼女は白く細い人さし指を目の前の空中に突きだし、星座を描き始めた。
 「丁度長方形の四つ角の所に星があるのね。で、その中に斜めに三つ星があるの。この七つの星は明るくて、都会の夜でもよく見えるのよ。それで、その三つの星の下に、これは良く澄んだ暗い夜じゃないと良く見えないんだけどもう一組三つの星があるの。その真ん中の暗い星が、オリオン座の大星雲なのよ。本で見るみたいに綺麗な虹色の雲みたいな風には見えなくて、単なる星にしか見えないんだけど……。」
 潮里はそのオリオン座の星雲が見えたら、何か良い事があると思う事にしているのだと言った。勿論その占いは季節によって左右される筈だから、占いとは言えない訳だが、彼女はそれを承知で、自分だけの占いにしているのだと笑った。
 「そうそう、今年はハレー彗星が来ているでしょう。」
 「あゝ、それはテレビなんかで聞いた。何日か前が最接近だったんだって?」
 「そう。ところがね、“尾”の長さは全天の六分の一を占める、って言ってたのに実際は肉眼じゃ確認出来ない位だったのよ。」
 「見に行ったんだ?」
 「うん。あの彗星の尾が見たくて……。彗星ってね、汚れた氷の塊なんですって。で、太陽に近付くとそれが蒸発して尾を引くの。」
 「詳しいんだね。」
 「ううん。みんな人から聞いたの。さっき話した、絵を描いてる友達。でも、星空を見ているのは大好き。」

 康志は浜辺に寄せる波の音が、ふと急に大きくなった気がしたのだったが、それは彼女が黙ったのだった。康志が潮里を振り向くと、彼女の眼は、海と空の境界辺りに注がれていた。勿論その時潮里が、実際に何処をみつめていたのかは康志に判る筈も無い。けれど、遠くをみつめる眼である事は確かな様に思えた。そして潮里は、そのまましばらく黙って海を見ていたが、やがて静かに、しかし思い切った様に口を開いた。
 「ねぇ……。」
 「何?」
 「ううん。やっぱり……いい。」
 「なんだよ。」
 「うん……。」
 潮里は立ち上がると、波打ち際へ行った。そして砂浜に落ちた貝殻を探して歩いた。康志は座ったまま、彼女を見ていた。
 しばらくすると、潮里は何か気に入った貝殻を見つけたらしく、それを拾い上げて康志に見せる様に手を上げ、微笑んだ。彼も砂をはらって立ち上がった。
 桜色をした貝殻の小さなかけらだった。
 「綺麗でしょ?」
 潮里は、その貝殻を指先でつまんで、太陽にかざした。貝殻の桜色が、太陽の白い反射に変わる。
 「あゝ。」
 眩しくて目を細めた康志の瞳の前に、海風に吹かれた潮里の髪が、舞った。彼は思わず息を飲んだ。赤い……。日を透かした潮里の髪も、あの日の夏海の様な赤い色をしていたのだ。そして潮里は康志の中で女になった。それは、思い出の中の夏海という存在があってこそ生まれた感情かもしれなかったが、彼にとっては純粋な気持ちだった。漣と戯れている潮里から、もはや“子供ではない”部分を感じ始めてはいたが、今や彼女は間違いなく、康志にとって独りの女としての存在になった。康志は、もはや少女と歩いているのではない、女と歩いているのだという“構え”の様なものが心のなかに出来た気がした。
 見つめたままの康志に気付かず、潮里はポケットからハンカチを出すと、その貝殻を包み込み、そっとしまい込んだ。そして彼女は又しばらく海を見つめていたが、再び何か決心をしたかの様に話し出した。
 「ねぇ……、お願いが……あるんだけど……。」
 「何?」
 「今日一日だけ……。」と、潮里はうつむいた。
 「今日一日だけ……、恋人になってもらえませんか?」
 「え?!」思いもかけない言葉だった。胸の鼓動が早くなる。潮里を女として意識し始めた康志は心の中を見透かされた様な気がして、あわてた。驚いて潮里を見た彼の態度は、彼女にとってきっとひどくぎこちなく思えたに違いない。
 「大丈夫。本当に今日一日だけだから……。鎌倉に居る間だけでいいの。もう康志さんに会う事も無いから。後で迷惑はかけないから。」
 そんな彼の態度から、潮里は康志が断わると思ったのだろう。あわててそう付け加えると、彼をじっと見つめた。
 「別に……かまわないけど……、どうして?」
 風が吹いて来て、康志の耳元でザワザワと音を立てた。波音がその音に重なった。
 「思い出に……。」潮里は非常に小さな声で、そう言った様に思われたが、彼には風の音と波の音にかき消されて、はっきりとは判らなかった。
 そして潮里は、漣沿いに2、3歩、歩いたかと思うと、突然彼に向き直り、急に明るい口調になった。
 「私ね……、私、鎌倉から帰ったら死んじゃうつもりなの。」
 どういう意味なのか、潮里の言葉の真意は、康志には量りかねた。“死ぬ”という言葉に、本来の意味の他にどんな意味があっただろう。彼の頭の中を様々な言葉が駆け巡ったが、どれひとつとしてまとまるものは無い。
 「どういう意味?訳が判らないや。」潮里の言葉を理解出来ないまま、康志はとりあえず笑って見せるだけだった。
 「本当よ。私、自殺するの。だから今日だけ……。」
 しごく何でもないという風を装っている筈なのに、作られた様子も無く、自然な顔で微笑んで話す潮里を前にしているという状況が、かえってひどく不自然で康志は混乱した。唯彼女の顔を見つめて、心の中を読もうとした。どんな些細な表情の変化も見逃さない様に……。けれど、潮里は康志を見つめて微笑むばかりだ。
 「話が見えないな。どういう意味?」
 「いいの。そういう事なの。だから……お願い。」
 彼はとりあえずうなづくしか無かった。突然の彼女の話を、そのまま信じられる筈も無かったが、“どうせ意味の無い冗談だ”と見過ごす事も出来なかった。康志は、潮里の赤い髪を見てしまった事を後悔していた。その赤い髪の色が……、潮里の中に潜む女を見てしまった事が、“ただの行きずりの少女”以上の存在感を造り上げてしまった。“潮里は女だ。夏海と同じ様に、女なのだ”この感覚こそが、自分の潮里に対する敗北になって行くのかもしれないと思うと、怖かったのだ。
 潮里はそんな康志の心の中の混乱等知る筈も無く、気持ちを切り替える様に、ホッと溜息をついた。そして右足の靴を脱ぐと、逆さにして振った。わずかな砂が風に舞った。彼女のそんな仕草を合図に浜からあがると、134号線を走る車の群れが、浜辺と街とを区切る境界の様に思えるのだった。康志が、夢の世界から現実へ覚醒していく様な気持ちになったのは、多分に潮里の“自殺”という一言が胸に染みていた所為もあっただろう。
 国道を渡って海を背にしてしまうと、潮の香も波の音も意外と小さくなってしまう。この浜へ向かっている時には潮の香も波の音も、もっと強烈に迫って来る様に思えるから、臭覚も聴覚も多分に視覚に頼っているに違いない。とにかく、視野の中から海を外してしまうと、思いの外、海の印象は弱められてしまう。いや……、極楽寺辺りで微かに潮の匂いを嗅いだ時には、もっと強く海の存在を感じるのだから、もしかしたらこれは、この辺りの景色にもよるのかもしれない。国道近くにはサーフボード・ショップ等も有り、海辺の印象がまだ色濃いが、元来た路地を抜けて極楽寺坂から繋がる道路を更に東へ向かうと、“町”の装いは益々濃くなる。それだけに浜で潮里が、口にした「自殺」という言葉など、康志には尚更浅い夢に思えて来るのだった。おまけに、潮里本人はそんな話等初めから無かったかの様に、極自然に話し、又微笑うのだった。

to be continued





用  語  解  説


◇サンクチュアリ
  聖域。心の中の大切な場所。