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その1



 「君は絵は描かないの?」
 とんでもない、という様に彼女は顔の前で手を横に振って笑った。
 「絵は全然ダメなんです。」
 「でも、随分熱心に見てたね。」
 「絵、好きなんです。本当に。友達が絵を描いていて、それを見ていて“いいなぁ”って思って。」
 「そう。」
 康志は最後の一色を置いて、筆を洗った。様々な色が混ざり合って濁りきった筆洗器の中の水は、新たな筆の色を一瞬だけマーブルに飾り、再び濁水に溶け込んだ。美しい風景を映し取ったそれぞれの色は美しいままなのに、総てが混ざり合うとまるで泥の様な濁った色に沈んでしまう。仏教世界で、蓮が尊ばれるのは泥の中から美しい花を咲かせるからだという。してみると、背後に汚濁を隠している絵画というのはある種信仰的な要素があるのだろうか……。もっともそれは心を落ち着ける、震わせるという点においてだが……。
 「完成ですか?」
 「あゝ。」
 康志はスケッチブックの紙面が乾くのを待って画材を片付けた。その間、彼女はずっと黙っていたが、ふと思い切ったように口を開いた。
 「あの……、今日はこれから何処へ行かれるんですか?」
 「いや、別に予定は無いけど……。」
 そして又沈黙がやって来た。その時間はおそらくほんの1、2分程であったに違いない。しかし、沈黙の時間は、異常に長く感じられるものだ。時折通る車の音の他は、極楽寺駅のホームで電車を待つ人達の話声が聞こえて来そうな程静かだった。
 彼女がそれとなく一緒に歩きたがっている事は、康志にもわかる。しかしその時、彼は迷っていた。

 「他人から見ないとわからないメリットなのよ。きっと……。」──
 夏海と康志との関係はわずか1年足らずに過ぎなかった。康志が彼女に魅かれていたのは事実だったが、愛していたのかどうかは判らないままに過ごした。好きだとは一言も言わずにいた。夏海も又、好きだとか愛しているなどという言葉は口にしなかった。二人は何か暗黙の了解の様に……そうでなければ何かをかばい合う様に寄り添ったものだ。“愛している”と告げないまま身体を重ねるのは、どこか微かに後ろめたくもあったが、又同時に耽美的な甘さも伴うものだった。そんな気持ちに流されるまま、二人はわずか数度の夜を過ごしただけで、互いに感じ合う場所迄知り尽くした。勿論言葉で伝えた訳では無い。身体を、自然にそういう風に持っていったのである。そこ迄総てをさらけ出す様な行為を交す二人は、言葉で「愛」等というものを伝える必要も無いと思えた。けれどそれは康志の思い込みに過ぎなかったのだ。
 ある朝目を覚ますと、康志の隣で彼女は半ば起き上がっていた。“起き上がっていた”という表現は正確では無いかもしれない。ベッドの上にうつぶせで両肘を立て、上体を起こしていたのだ。唯、頭だけは少しうなだれていて、彼女の顔は乱れたままの髪に無造作に隠されていた。
 「起きてたんだ?」
 「ええ。」
 「大分前から?」
 「うん。うなされてた。」
 「うなされてた?そんな悪い夢を見てた訳じゃないけどな。」
 「あなたじゃないわ。私がよ。」
 夏海の“うなされてた”という言葉がどちらにも採れる言い方だったので、彼はてっきり自分が“うなされていた”のだと思ったのである。
 「で、どんな夢を見てたの?」
 「気味の悪い天気の夢……。」
 「天気?」
 「気味の悪い竜巻が、追いかけて来るのよ。暗い空で、街路樹が風で、狂った様に揺れてるの。いくら走っても這っている位のスピードにしかならなくて……。」
 「もう、落ち着いた?」
 「ええ……。」それから夏海は少し言い淀んだ。
 良い天気の朝だった。夏海の向こう側の窓の、殆ど白に近いアイボリーのカーテンを通して強い日差しが差し込んでいた。
 「私、最近嫌な夢をよくみるの。」
 「へぇ、何かあるのかな?」
 康志の言葉に夏海は、顔を上げた。まるで何かを思い出す為に、遠くを見る様な仕草に見えた。瞬間、彼女の顔を覆っていた髪が、日の光の中に投げ出された。眩しい朝の日差しを背景に、髪が柔らかな日陰を作っている。彼は胸を突かれた気がした。日を透かした夏海の髪が赤いことに気付いたからだ。普段は深い藍を湛えた様に見える黒髪が、日の光に透かされるとこんなに赤い。突然に艶かしさが沸き上がった。夏海はまさしく女だった。まるで、発情を感化する麝香(ムスク)の様だ。この赤く透けた髪に、もし櫛が通っていたらもう一度抱いてしまいそうにさえ思える。
 しかし、その思いを断ち切るかの様に、夏海は康志の全く考えもしなかった言葉を投げつけたのだった。
 「私達、このままでいいのかしら……。こんな事していても何にもならないんじゃないかしらね。」
 「それは……。」“どういうことか”、と言おうとしたが、それは聞くまでもない事である事は康志自身にも判ったので、後は言葉にならなかった。指先から血の気が引いて行くのが感じられ、これから彼女が演出するであろう時間の展開を思うと、震えが来た。
 「私の事を一体どう思ってるの?あなたはそれを一度も口にした事が無いわ。」夏海の口調は静かだったが、逃げ道を許さぬ強さが備わっていた。
 「………。」
 “好き”だとか、“愛している”と言うのは簡単だった。事実、彼は夏海に魅かれていたし、それよりも今この瞬間、彼との縁を切ろうとしている彼女に対して、どうしようも無い程の強烈な愛情が、沸き上がって来たのだった。けれど、ここで夏海に対する愛を口にする事は、余計に言い訳の為の嘘に聞こえてしまいそうだった。しかも深く告げようとすればする程……。彼には彼女を引き止める手立ての無いまま、この関係を清算しなければならない運命だった。
 夏海は小さな……それでも康志には十分聞こえる位の溜息をついて、ベッドから立ち上がった。彼が彼女の美しい身体を見たのはそれが最後だった。
 「これでもう、夢にうなされる事も無くなると思うわ。」背中を向けたまま、床に放り出されていた服を身につけ乍ら、夏海が言った。シャワーも浴びずに帰り支度を始めたのは、彼女の決心の強さを示していたのだろう。彼女がそれ程迄に康志との関係に思い悩んでいた事を、彼はその時初めて知った。夢を人間の無意識の感情の象徴であるとするならば、そんな心の深部に異常をきたす程、彼女は真剣だった。康志に弁解の余地等あろう筈は無い。
 「本当にこれで、終わりにする心算?」
 「終わりよ……。」
 そう応えた夏海の声が震えていた。泣いている様だった。彼女が、涙を見せずに別れの場面を演じられる程強い女では無い事が、康志にとってはせめてもの慰めだったかもしれない。
 「さよなら……。」
 そのまま扉を開けて出て行こうとする夏海を、彼は黙って見ていた。彼女は扉の前で一瞬立ち止まり、半分だけ振り向いた。横顔で、無理に笑っている様だった。
 「今までありがとう。」
 扉の閉まる音を聞き乍ら、彼はまるでテレビドラマのワンシーンの様だと思っていた。テレビドラマでこんなシーンがあれば“安っぽい脚本だ”と思ったものだが、その“安っぽいシーン”が現実だ。康志にとっては決して“安い別れ”ではない。
 かつて無い程に膨らんだままの気持ちを残して夏海は去った。別れの瞬間に、明確に広がったその愛情は、失うものに対する惜しみの感情だったのだろうか。しかし、康志の夏海への気持ちは、それ以来今でも膨らんだままなのだ。しぼませるべき針を、彼はまだ見つけられずにいる。あの“日の光に透かした夏海の髪が赤い”事を見つけた最後の日迄、自分自身の彼女に対する気持ちに気付かずにいた事、彼女の気持ちを考えもせずに過ごした事、それは彼自身の自業自得の敗北と言えるだろう。そして彼の敗北は今だに続いているのだ。康志は今でも出来れば夏海ともう一度やり直したいと考えている。

 極楽寺坂を上って来る車の鳴らしたクラクションが、切り通しに響き渡った。瞬間、康志と娘は同時にそちらを振り向いた。不思議な感覚だったが、その一瞬、彼はこの行きずりの彼女と気持ちが重なった気がした。夏海への思いは変わらないままだったが、その思いの為にこの女の子と鎌倉を歩く事位、躊躇する必要等無いと思えた。
 「君は鎌倉は何度目?」
 「初めて……。」
 「じゃあ、一緒に行こうか。御案内申し上げますよ。」と彼は笑っておじぎをして見せた。  彼女も笑ってうなづいた。

to be continued