-それがまだ憧れだった頃-

車が好きになったのは何時の頃だったろう。
勿論、小さい頃からなんとなく好きだったには違い無いが、車の雑誌等を買い出したりして、凝り始めたのは中学生位からだったろう。小学生の頃は航空機マニアで、それは今も変わらないが、次第に車の占める割合が大きくなって来たのは、中学からだったと思う。
僕が本格的に車を好きになり始めて間もなく、あの「スーパーカー・プーム」がやって来た。まだそれ程車種に詳しくなかったが、その頃の僕はなんとなくメジャー・メーカー(会社の規模という意味では無く、誰でも名前を知っていたり、人気のあるメーカー)を嫌う傾向があり、フェラーリやランボルギーニ、ポルシェといったスーパーカーには興味が沸かなかった。
その頃、僕が最高にカッコイイ!とおもっていたのは、マセラティ・ボ-ラ。そしてこの車のイメージが、後々実際に車を購入する時迄、尾を引く事になる。
さて、その中学を卒業する年、僕にとってはちょっと衝撃的な車が発表された。三菱のGALANT Λである。
Λは、当時の三菱とクライスラーの関係からか、今見てみればアメリカ的なスタイルだが、日本車としては実に斬新なデザインだった。比較的小形の角形4灯ヘッドランプというのは日本車初で、そのフロント・グリルの鋭角的なスラント・ノーズの薄さと、クリーンで装飾性を排除した外観は未来的な感じさえした。
サイド迄周り込んだラップアラウンド・リアウインドウ、Cピラーはロールバーの役目も持たせ、ルーフを反対側迄一段高く取り巻いていた。
インテリアは、これも日本車初か、ボディ色とコーディネートしたインテリア・カラー(GSR)。つまり赤いボディ・カラーではインテリアも赤系。ブルーでは青系。白はグレー系と、実に洒落ていた。インパネは少々クラシックなイメージの6連メーターと逆L字型のコンソールだったが、ステアリングはシトロエンの様な1本スポークだった。
エンジンは悪名高き53年度排出ガス規制で、国産の総ての車種がキバを抜かれてしまっていた時期でもあり、三菱には元々手持ちの量産DOHCが無かった(GALANT GTO MRというのがもっと前には一時あったが)ので、三菱の高性能エンジンはツインキャブ(但しツインキャブ・モデルは51年規制適合で、53年規制はクリアしていなかった)という事になる。そんな訳で、2000ccで115馬力(GSR)。しかも当時の馬力表示は今の様に補器類を付けて計るのでは無く、エンジン単体で、一番負荷の小さい状態で計る-という甘い数値で、実際には100馬力も無かったのではないかと思う。
それでも、その頃の国産車としては、やはりスポーティー・カーの中の一台で、受験に行く道の三菱のディーラーに飾ってある、GALANT Λを見て、「いつかはこの車を・・・」と憧れていた。

さて、僕は高校時代、相変わらず飛行機も車も好きだったが、音楽を聴く事に目覚め始め、3年の頃にはもう古くなっていたステレオを何とかしたくてしょうがなくなっていた。
オーディオに凝り始めてしまったのである。
「大学に入ったら、とりあえずアルバイトをして、新しいステレオを買おう。」
車の免許取得は後回しになった。
大学1年、ますますオーディオにのめり込んでいった僕は、夏休みのアルバイトで片方10万以上もする(つまりステレオで20万以上)スピーカーを含むオーディオ・セットを買い揃え、2年になっても、周辺機器の購入に走り、車の免許を取ったのは20歳。3年になった時だった。
免許を取れば車が欲しくなるのは道理。その頃、我が家には車が無かったが、父親は以前から免許を持っていた事も有り、僕の免許取得と共に、中古を買おうか、という事になった。
但し、予算は総額で50万円程度。
その頃はまだ、DOHCを搭載した車は中古でも80万円以上と高値で、手が出せなかった。憧れていたGALANT Λ 2000GSRも殆ど同額だった。
中古車情報誌を買いあさり、つぶさに見る中で、ある日僕はその中のひとつの車に眼を奪われた。
ほんの数センチ四方の白黒写真。その下に記された文字は「GALANT Λ1600GS」。 当初の2000ccのGALANT Λの発売の翌年追加された1600シリーズのスポーツ・モデルで、53年規制をクリアしていなかった為、短命で消えてしまったモデルだった。
エンジンはサザンクロス・ラリーやサファリ・ラリー等で活躍したランサー1600GSRと同じ、1600の4G32型ツインキャブ・エンジン。今となっては、たった100馬力に過ぎないが、憧れたGALANT Λのスポーツ・モデル。ラリー・ランサーと同じエンジン。しかも予算内。
実際はその雑誌に掲載された車は、購入の手配をしなかったのだが、もう僕の気持ちはGALANT Λ1600GSに走り始めていた。

しかし・・・しかし、GALANT Λ1600GSは販売台数が極端に少なく、中古市場に出回る事は殆ど無いのだった。