ミクロな視点で社会を考察

汎(反)社会学概論

かつて、ジンメル、マックス・ウェーバー、デュルケイム、フィルカント……理論社会学を学んだドクトル・オブ・フィロソフィー・ナガハマ(←うそ)の社会学概論。しかし、そこになんの学問的立証もクソもない、単なるエッセイ(のようなもの)です。

●ハゲに関する一考察 ●関西弁に関する一考察 ●百円ライターとビニール傘の所有権の在り処


●ハゲに関する一考察
ー現代社会におけるハゲの受容とそのアイキャッチ効果ー

 ハゲ、である。「ハゲはなぜ印象に残るのか」。この論理的知見により、われわれはどのような現実の社会現象を理解・説 明できるであろうか?  

■負のポジショニング
 かつて私は会社員をしていたことがある。私は中途採用だったのだが、その面接時のエピソード。その面接には、面接官が4人いた。1人はメガネ、ハゲ、長身、2人目は、メガネ、長身、3人目はちび、4人目はメガネ、中肉中背、であった。どーいうわけか、採用が決まり、初出社したときのことである。人事担当者から「では、S原の部署になりましたので」。私が「誰、それ?」みたいな表情をしたのだろう、彼は「ほら、面接のときにいたでしょう、えーとほれ、メガネかけた背が高い人」と、手を高く差し上げてメガネをかけるジェスチャーまでしてくれるのだが、いかんせん思い出せない。「といわれても、メガネはたくさんいたしなー」、と、首をかしげたまま、くだんのS原氏の元に赴いた。「よろしく」「はっ、こちらこそ……」。お辞儀をしながら、心の中で叫んだ。「ハゲといえばすぐわかるのに!」。
 そう、自分の特徴を表現するとき、メガネやヒゲという説明をしてもそれは、本人が思っているほど、相手にインパクトを与えていない。では、なぜハゲは人に強い印象を残すのだろうか。ハゲは本来あるべき頭髪が抜け落ちた。いわば、元々所有していた価値がなくなったものとしての考え方がある。一般の認識は頭部に髪の毛があるカタチがスタンダード。つまり、ハゲは、負(マイナス)の存在として認識されることが多い。したがって、人はハゲを目の当たりにすると、「見てはいけない」ものとして、過剰なる意識を持つ。しかし、意識すればするほど、ハゲは脳の海馬に深い印象を刻む。眼球は一生懸命ネクタイあたりを追っているのだが、心の目は頭部からはなれない。つまり、ハゲはタブー度が高いゆえ、人に強烈な印象を残すのだ。だから「Aさんってどんな人だっけ?」「ほら、あの、これ」と片手を額あたりから頭頂部へなであげる動作をするだけで、「あーあの人か!」と、イメージを共有できるのだ。

■よりタブー度の高い“ヅラ”
 また、このタブー度という見地から考察すると、よりタブー度が高いものとして“ヅラ”の存在が考えられる。ヅラは、本来あるべき価値(頭髪)を失ったものの、努力してまたその価値を再び手に入れているわけである。たとえば、ヴィトンの財布を紛失したが、またお金を貯めて、同じものを買い戻したことと、努力のエネルギーに関しては同質である。しかし、ここで問題になるのは、ヅラはその程度の差違にもよるが、概して“ヅラではないか”と見破られる、あるいは疑われるケースが多いことである。また、ハゲはハゲ当人が「私はハゲです」と、いわば公言しており、なかには他人が慮るよりハゲを負の存在として認識していない人もいる。しかし、ヅラは、ハゲを隠す努力をしているという点において、すでにハゲに対して負を感じているわけである。タブー度はハゲ×2。よって、ヅラはより、人に強烈なインパクトを与えるのだ。


●与件として
 たとえば、ハゲ&ヅラの人との会話のなかで、意図せずとも、頭髪に話題が流れてしまうことがある。そういう場合は、非ハゲ&ヅラが、話題をかえたりするなど、いろいろと気を配ることがマナーのような暗黙の了解がある。しかし、これはハゲ&ヅラ当人にとっても、暗に「ハゲ&ヅラ!」と言われているようなもので、あまりいい気持ちがしないものだ。そこで、私が提唱したいのが「ポジティブ・ハゲ論」だ。私は女なので、あまりハゲる心配はないのだが、もし、ハゲれば、まず、7種類のヅラを作りたい。アフロ、ソバージュ、ボブ……。そして毎日ヅラを変え、周囲の人に「ああ、今日はアフロだから、木曜日なんだな」と、ヅラ曜日を浸透させる。そして、打ちあわせや会議の途中に「あー今日は暑いなぁ」とおもむろにヅラを脱いだり、驚きを表現するために、「えっ!」という声とともにヅラをはずす。これで、周囲に「ハゲてても、それを卑屈に感じていない懐の大きい人」という印象を演出できる。さらに、宴会用にハゲヅラを作成。ハゲヅラをとってもハゲ! あーハゲの人がうらやましい。