![]() Willem de Kooning 1904-1997 |
1904 | オランダ、ロッテルダムに生まれる。 | |
| 1926 | 22歳 | アメリカに密入国。 | |
| 1930頃 | アーシル・ゴーキーと知り合い影響を受ける。 | ||
| 1948 | ゴーキーが死亡し転機を迎える。 | ||
| 1950-52 | 「女・1」を制作する。 | ||
| 1953 | 49歳 | シドニー・ジャニス画廊で「女」シリーズ個展 | |
| 1997 | 93歳 |
死去
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画面上の「女」のイメージは、作者の恋慕と憎しみの交互の激情に引き裂かれ、またかき集められずたずたにされながらなおも私たちに微笑みかけてさえいるようです。 |
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「わたしはいつも、若いひと、美しい女という考えからはじめたが、それが変化するのに気がついた。誰かがいつも出てくるのだ。中年女性がね。あんな怪物を作るつもりはなかったのだ」 |
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先ず、デ・クーニングの制作の過程を追ってみます。 |
![]() Arshile Gorky 1904-1948 |
一九二六年、オランダで学業を終えた二十二才の若きデ・クーニングは密かに渡米し、あこがれの新天地で、その現実との落差にうちひしがれながらも、貧困のうちに画家を志します。その彼に大きな影響を与えたのがゴーキー(1904-1948)です。彼らが出会ったのは、一九二九年頃、折しも、大恐慌による空前の不況のさなかでした。後にデ・クーニングとともに、抽象表現主義の両雄とみられるようになるポロックがニューヨークに出たのもちょうどこの頃です。 |
| ゴーキーは同年齢ながらデ・クーニングにとっては父のような大きな存在だった。 |
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デ・クーニングと同年齢のゴーキーがアルメニアから戦火に追われた難民としてニューヨークに渡ったのは、一九二○年、彼が一五才のときです。ゴーキーは若くして肉親を含むアルメニア人の虐殺、
親しんだアルメニアの美術の破壊を目の当たりにしました。おそらくその深い傷を癒すには絵を描くことしかなありませんでした。 |
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「私自分の絵画を通じて、故郷に忠実であると信じている。」と語ったのは、かつてロシアを去りパリを制作の場としたシャガールです。「アルメニアの芸術に満ちあふれたばしょに生まれ、育つことができたぼくは、なんという幸運であり、光栄だろう。」と語るゴーキーはシャガール以上に失われた故郷に忠実でした。彼が重ねるヨーロッパ近代絵画の検証は、失われたヨーロッパの果てしない追体験でもありました。 |
彼はピカソやミロの方法を踏襲し、彼らの再現性をとどめた絵画の延長上に故郷で開花するはずだった自身の近代を見いだそうとしていました。ただし、それらは彼の切なるノスタルジーをもってしても終焉した近代の方法であることには変わりはありませんでした。 |
ゴーキーの死 |
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四〇年代前半までのデ・クーニングはゴーキーの考え方に心酔し、作品の見分けがつかないほどゴーキーに同一化していました。そのままいけば、彼はゴーキーの影のまま終わる存在でした。ところが、一九四六年、度重なる不幸がゴーキーを襲います。アトリエの火災による作品の消失、癌の発病、交通事故で首を骨折、その後遺症による手の障害、等々。あまりの悲惨さに妻は娘をつれ彼のもとを去ります。一九四八年、ゴーキーは、見舞いに訪れた友人たちを送り出し、アトリエで自らその命を絶ちます。 |
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ポロックとデ・クーニングは、抽象表現主義の双璧と言われています。ポロックが一瞬の集中に全力を傾け、時代を一気に駆け抜けた感があるのに対して、一方のデ・クーニングは、その後の時代のめまぐるしい表現スタイルの変化にも動じることなく、彼の表現スタイルを保ち続けました。 |
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デ・クーニングにとって、制作は、自身の無意識への通路でした。彼は二年間におよぶ「女」の制作によって自身の固着 のありかをつきとめ、彼の固着にまつわる、ことのすべてを理解したのです。抑圧されていた固着は苦痛の源でしたが、彼にとっては同時に、イメージが沸き上がる表現の源泉でもありました。彼はすでに解消した固着を捨て去らずそのイメージを表現の源泉として温存しました。 かつての固着点は苦痛の震源であることを止め、言わば、デ・クーニングの制作がたどり着く母港のようなものとなりました。その後の彼の制作は、そこに至る無意識の迂回路をさまざまに作り出せばよかったのです。彼自身がその制作を「俗悪のメロドラマ」と呼ぶように、筋書はちがってもたどりつく結論はいつも同じです。おそらく、日常から表現への没入も、表現から日常への帰還も、ポロックのように過剰な緊張や苦痛を強いる困難なものでなかったのです。入り口と出口が知れた自身の無意識を、彼は易々と出入りしました。 一方、ポロックの無意識の固着点はあまりにも強大な両刃の刃でした。彼の固着は表現の源泉でしたが、その直視は自身の存在危うくするものでした。ポロックには、彼の無意識への没入が世界の無意識へとつながるいう意義づけ、自身の拡大解釈が必要でした。その設定は現実の彼の渇き、みじめさを隠し、彼を巨人のごとく尊大にさせましたが、当然、絶えず現実から覚醒をせまられる虚構でした。ポロックは自ら設定した虚構と現実の落差にさいなまれ、固着をますます強大にさせ、それに抗い切れず破綻をむかえます。 |
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デ・クーニングの抽象表現主義は憎悪の表現です。彼が主題を「女」と定めて制作アクション行為に向かう時、彼の内面から噴きあがりその主題を満たすのは憎悪でした。それは単に「女」への憎悪だけに止まらず、自分自身に対する憎悪、自身の欲望に対する憎悪、自身を取りまく世界への憎悪でした。彼はそれらを描くアクション行為にのせて存分に噴き出させます。デ・クーニングのオートマティズムによる制作は、憎悪の噴出の大集合となりそれが一区切りした時が終りです。 近代の憎悪の表現、例えばムンクの「叫び」は、まだ自然に囲まれた近代の都市での人間が圧迫される自然の叫びです。一方、デ・クーニングの憎悪の大集合のは、現代都市のシステムによって生身を管理され、すでに無個性化の道を歩まされる人間の、後もどりのできない怒りの叫びと言えます。 アメリカの現代都市は、扇情的であでやかな「女」のイメージに満ちています。 「私はいつも俗悪のメロドラマに包まれている」と彼が言うように、デ・クーニングは、ピンナップの「女」からそぎ落とされ、その裏側に押し込められたはずの、生身の「女」を憎悪のアクション行為で探り当てようとします。彼は、そこからなおも歩を進め、都市のシステムが私たちから収奪した生身の残がいを白日のもとにさらすことで現代都市を批判し、自己回復をはかろうと制作を続けます。 |
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