「セザンヌ主義」展
2008年11月15日-2009年1月25日
横浜美術館


近代絵画の父、セザンヌの展覧会が横浜美術館で開かれている。
いやなつかしいなあ。私たちが美大の受験生だったころ(もう30年以上も前ですが)に大変お世話になったのがセザンヌである。
当時、美大の受験に成功するには、対象を正確に写す古典的なデッサンの段階から抜け出し、画家固有の世界のとらえ方を打ち出す「近代絵画」の段階への移行を果たすことが必須であった。
それには、セザンヌの表現を研究してその技法をまねること。それがまあ早道だったのですね。
私たちの世代の多くは、受験のための絵画技法を作り上げるため...、とちょっと覚めた感覚でセザンヌをみていて、それがこの展覧会にも出品されている日本の近代画家先生方の傾倒ぶりと違うところかもしれない。

セザンヌが制作に打ち込んだのは19世紀後半から20世紀の初頭にかけてである。
このころといえば、写真映像が巷にいきわたり、映画も登場、従来の絵画のリアリティはあらかたこれらのあらたなテクノロジーにもっていかれてしまった時代である。
絵画はあらたな世界の認識の表出、絵画独自の表現として成り立っていなければもたない。画家たちは旧来の写実手法を超えたより強い空間概念の表現を模索していた。そのチャンピオンがセザンヌというわけである。

セザンヌの強固な事物と空間のとらえ方。その私なりの理解はこんなふうだった。
事物は球体、円錐、円柱などの基本形に還元する。
たとえば、リンゴは球体としてとらえる。
目の前のリンゴは、概念的なまったくの球体がそのリンゴ固有の形に変形したものとみることができる。
人物も同じだ。頭部は卵形、首、胴体、腕は円柱。それぞれの基本形がその人固有のかたちに変形し、有機的に構成された物体である....。

セザンヌは、自らの表現を説明しようとして、両手の指を交互に固く組み合わせるように、「自然」と画家の「感覚」を関係づけはたらかせることで強固な表現が立ちあがるのだ、という意味のことを述べている。
固有の形に変形した「自然」。その変形の様態をいかに画家の「感覚」で探り出すか...。
つまり、「感覚」が走りすぎて基本形が突出してもだめだし、「自然」に重きを置きすぎて単なる事物の表面の再現に陥っても絵は旧来の表出力を上回れない。あくまでがっちりと両手が組み合わさるように仕事を進めなければならない..。
いいかえれば、セザンヌは、高度化する時代の指示表出性、それは写真、映画の興隆に具現化されている、に対して、自己表出性を強力に打ち出すことによって対抗しようというのです。しかしあくまでそれは絵画の二つの要素、<指示表出性-「自然」の再現>と<絵画の自己表出性-「感覚」>、を有機的に交差させる構造を崩してはならない、ということになる。

セザンヌはこうして強固な事物と空間の表現を実現した。
確かにそれは静物画において極まっている。
しかし、彼の描く人物、特に女性はぎこちない。夫人の肖像画にしても、ロボットのように固く、表情はうつろだ。ポーズをとる夫人が動いてしまうと、セザンヌは「リンゴが動くか」と怒ったという。そのせいでもないだろうが彼女はちっとも楽しそうでない。
セザンヌの関心は、あくまで強固な絵画空間の構築にあったのだ、やっぱり。


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