アンドリュー・ワイエス展 2008.11.8-12.23 Bunkamura ザ・ミュージアム
石田徹也 ―僕たちの自画像展― 2008.11.9-12-28 練馬区立美術館

12.08

アンドリュー・ワイエスと石田徹也を見た。
どちらも写実的な絵画を描く作家である。
ワイエスはアメリカ、ペンシルバニア、メインの自然を描く。
息を呑むような巧みな写実表現である。
私たちにつきつけられるのは自然と彼との濃密な関係だ。
自然を写すなんて古いというのが近代以降の常識ではなかったか。
彼の表現にみる「自然と人間の関係」はそんな常識をどこかに押しやってしまう。
ワイエスの描く「自然」。
それは彼を包み込み、巨大ないかだのように悠然と時の経過を流れ下る。
一瞬も止まることのない時の流れが見せる光と影の機微。
ワイエスはそれを描きとめようとする。だから彼のタッチ思いのほか早い。
明暗の表現で十分なのだ。というかそれでしかとらえられない。
色彩を作為する余計な時間はない。
色彩は明暗の表現のすえに禁欲的にそっと添えられるだけだ。
ワイエスの写実表現の背後には、「人間」の生とがっちり結ばれた生のままの「自然」がある。
松の木が描かれる。
私たちが樹木をこんな風に見るだろうか。
現代の都市に住み慣れた私たちが見る「自然」はこんなに「濃く」ない。

たとえ山野に踏み入ったとしても、私たちは「自然」の美しさをどこか書き割りのようにうそくさく感じてしまうのではないか....。
それは、私たちが都市の「時間」の流れのなかを生きているからだ。
ここでは「自然」は都市の機能的時間、空間に奉仕する「記号」的な存在と位置づけられている。
「馬鹿だなお前たち、それじゃ自分も何もみえないだろうに...」とでもいう91歳のワイエスの声が聞こえそうだ。

石田徹也が描くのは都市の時間に置かれた私たちの姿だ。
ここにはワイエスの描くような人間と強く結ばれた「自然」は不在だ。
人間は「記号」として都市のさまざまな道具と等価に浮遊し、たまたま結びついて(結びつけられて)しまう。
彼は生きたまま日々「記号」と化している。
ダンボールのように梱包された「人間」は、阿部公房の「箱男」を想起させる。
石田の描く現代の「記号的」人間の姿はいつも悲しげだ。
「人間」と結ばれようとしても、そこにはもはや「記号的」な関係しか成り立たない....。
この状況を耐えてなおも生きるには、ただ「描き続ける」、「描ききる」しかない。
だからその役務を背負った石田のタッチも細密でありながら思いのほか早い。
彼は都市の時間にあくまでたてつき、「記号」混沌のなかを駆け抜けていった。

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