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日本を含むアジアの若い作家たちのドローイングを集めた展覧会。
奈良美智のドローイング群、廃材で作った小屋、
ドローイングをさらに発展させた辻直之のアニメーション「エンゼル」2008などが興味を惹いた。
「ドローイング」とは
ところで、「ドローイング」とは何だろうか?。
日本語に直せば「ドローイング」とは「素描」だが、これだと対象物を写す「デッサン」の意味合いが濃い。
「素描」、「デッサン」とは言わず、わざわざ「「ドローイング」というのは、対象を再現する方法でないからだ。
「ドローイング」では、作家はちょっとしたきっかけとなるようなかすかなイメージのかけらのみを頼りにして、あるいは、ほぼノーイメージで画面に向かう。
アタマでかんがえたイメージを描いたり、対象を観察して再現するのではなく、描きつつイメージを生む。作家はいわば「手で考える」のだ。
「ドローイング」は、作家それぞれの制作の方法であるだけでなく、作家の思考のツールでもある。対象を再現する指示表出性を追究するのではなく、自己の深層のイメージを探る「自己表出性」のツールとしてある。
作家は何を考えているのか
私たち観客からすれば、「ドローイング」作品は、線が流動的でぐちゃぐちゃしていてはんぱなメモか書きなぐりという感じがするものが多い。
何考えとるねん、ほんまに...
それは、「ドローイング」では、作家が個々の「自己表出性」を主に追究しているからだ。
作家にとって、「ドローイング」の手法が形式化、定型化すれば、出てくるイメージはマンネリ化する。
「ドローイング」を「手で考える」手段として保つには、常にその手法を流動化させておかねばならない。だからドローイング作品がかきなぐりやメモのようにみえるものが多い。(「流動的」な表現もスタイル化すればマンネリだけれどね....)
「ドローイング」作品の成り立ちをかんがえると、ちょうど抽象表現主義のポロックが既成のイメージを捨てて、線の流動性を連ねていったことを思いおこす。
「ドローイング」の過程はいわば、反「製図」的だ。
フリーハンドの線は意図通り引けない。意図したコースをそれたり曲がったりする。そのズレや曲がりなど、意図から逸脱した要素が未知なるイメージを紡ぎだすきっかけとなるのだ。だがこうしたイメージの断片を拾うか捨てるかは作家の意識が決める。
偶発的、無意識的要素と意識の思考とのせめぎあい、ドライブのかかった戦いが「ドローイング」の醍醐味だといえるだろう。
奈良のドローイング群をみていると、まさに作家が手に集中し思考を続けている息遣いが聞こえそうな気がする。ここでは、制作は呼吸のようだ。
作家は無意識的に手を動かし続けながらもすばやく考え続ける。
やめられまへんな、というところだ。
「ドローイング」の制作は心理的には「退行」の過程にある。
作家は自身の無意識レベル深くに降りていく。
ドライブのかかった制作の営みに酔う。だが、それだけでは不満だ。
自分の世界に自足するというか...、とかく「ドローイング」表現は独りよがりになりがちなのだ。
大量生産・大量消費のシステムが繰り出す表出物、情報があふれる現在、その特徴は、指示表出性の高さだ。
ドローイングは現代の高度な「指示表出性」の層の中に置かれる。「自己表出性」の表現、ドローイングは「指示表出性」の表現として転位していなければならない。展家雄うながすのは、ドローイングに向う作家たちの背を押す社会の圧力、マス・メディアの圧力だ。その圧力、構造をいかに感得するか...。
さらなる「概念化」、「指示表出性」への転位はそこにかかっている。
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