こんにちは、そしてさようなら



初対面
お別れ
天国にいる翔助と俊助へ


初対面

ながいながい時間待って、やっとKさんがふたりをわたしたちの ところへ連れてきてくださいました。ガーゼにのせられたふたりは きれいに洗っていただいて、両手を胸のうえに組んでいました。 男の子でした。思っていたよりもずっと小さかったけれども、 それでも親の目にはわが子と実感できる特徴を備えていました。 顔だち、いかり肩、みじかいあんよなど、いずれも長男泰助と よく似ているように思われました。ふたりのうち先に「産まれた」 方を翔助、もうひとりを俊助と名付けました。ふたりには 体格差があり、俊助のほうが先に死んでしまったことははっきりと わかりました。首を締め付けられて死んでいった俊助の苦しみ、 同じ遺伝子を分け合った兄弟を看取り、後を追っていった翔助の 苦しみ。それを思うとかわいそうでかわいそうでたまりません。

だっこするにもあまりにも小さいふたり。夫と交互に、ふたりを 両手に抱いて、ほとんど永遠とも思える密度の濃い時間を 過ごしました。離れがたいという気持ちでいっぱいでした。 はじめて対面したそのときが、同時に、ふたりを見る最後の ときとなりました。



お別れ

退院した日は実家へ帰りました。かえりがけに、実家のすぐ近くの 祖父母の家に寄りました。祖母は「わたしは、よかったわねって 思うわ」といいました。言葉通りにとると赤ちゃんが死んでよかった、 と言っていることになりますが、そう言ったときの祖母の実に複雑な 表情から、その思いが伝わってきました。障害のある子をかかえた 場合の私の苦労を、本当に心配していてくれたのだと、このとき はじめて感じました。比較的若い人から”障害があると大変”と いわれたとしたら、「わたしが親なんだから勝手でしょう」と 反論したいところです。けれども相当な人生経験を持つ祖母から かけられたその言葉は素直にありがたく、口にはだせなかった けれども「心配させてごめんなさい」と思いました。

翌日、出棺のために改めて病院へ行きました。さよならする 翔助と俊助のために、わたしは手紙を、夫は花束とぬいぐるみを 用意しました。葬儀屋さんが手紙とぬいぐるみをお棺のなかにいれ、 「そうしたほうがきれいだから」と花束をその上に飾ってくれました。 棺といっても、小さなお菓子箱ほどの大きさの白い箱でした。 夫の両親も参列してくれたので、実家に預けていた泰助と一週間ぶりに 再会しました。

お棺は、予定日前後まで成長した赤ちゃんが亡くなった場合には、 いろいろとサイズがある中でも一番小さいものにおさめるそうですが、 たった17週の翔助と俊助にはそれでも大きすぎるということで、 葬儀屋さんのほうで特別に用意していただいたものです。ちなみに、 ”生まれた”赤ちゃんの葬儀代金は一番質素なもので8万円、 わたしたちの場合は胎児だということで、5万5千円でした。 二人分の骨つぼを用意した場合はもっと料金がかかったはずですが、 ふたりを引き離してしまうよりは一緒にいたほうがいいだろうと思って、 骨つぼは一つにしました。

お別れは病院の霊安室でしました。テレビのドラマでみるような、 大きな冷蔵庫みたいな場所を想像していましたが、実際の様子は 違っていて、こじんまりとした、供養のための空間ができあがって いました。葬儀屋さんって大したものだと、変なところで 感心してしまいました。(だって、葬儀屋さんといっても、 気持ちの優しそうなお兄さん一人だけなんです。彼が全部 取り仕切って、車の運転もしてくれました。) わたしたち夫婦、夫の両親と泰助のあとに続いて、 当日勤務の看護婦さんも焼香してくださいました。 仏式だったことと、わたしがたくさん泣いていたことで、 この上なく湿っぽいお別れとなりました。内心、こんなに わあわあと泣いていたら、まるで演技の下手な女優みたい だと思いながらも、誰もわたしが泣くことに文句はないだろうと、 好きなように泣きました。一人の看護婦さんが「今度は 元気に産もうね」と声を掛けていってくださいました。 入院中、悲しくて興奮して眠れない夜に、話を 聞いて慰めてくださった方です。わたしは泣きながら、 うん、うんと、うなずきました。

火葬場はできたばかりのようで、きれいすぎるくらいにきれい、 まるで一流ホテルのように豪華でした。 父方の祖母が焼かれたところは、ふるい工場のようなさびしい ところでしたから、その違いにびっくりしました。 その雰囲気になじむ間もなく、釜の前にお棺が据えられました。 釜の右端には故人の名前を表示する場所がありました。 火葬場の方で胎児に名前がついていることまではわかりません から、「安田家」となっていました。ここに名前を書いてあげられなくて かわいそうだと思いました。

あれよ、あれよという間に台車が釜の中に入っていきます。 本当にこれでお別れなのかと信じられない思いでした。 名残惜しい気持ちがどっとこみ上げてきて、でもちゃんと お別れしてあげなくちゃと、さよならを言おうと思いました。 すこし恥ずかしい気もしたけれども後悔したくなかったので、 「バイバイ、バイバイ」と声に出して言いました。

小一時間たって灰になった二人は、文字通り灰になっており、 お骨もほとんど残りませんでした。本来なら遺族がお骨を ひろうところですが、素人目には判別がつかないということで、 係りの人が小さいほうきとちりとりで、わずかに残ったお骨と 灰を集めてくださいました。ガラスのコップほどの大きさの 骨つぼにはいった翔助と俊助を連れて、わたしたちは久しぶりの 我が家へ帰りました。

一週間、夫の実家に預けられていた泰助は、久しぶりに会う母には 照れくささもあって、寄り付きませんでした。やっとだっこされに 向こうからやってきたのは、帰宅してからでした。 両親によると、実家ではとてもおりこうさんにふるまっていたそうです。 起床、食事、就寝など、声をかければ、すっということをきき、 泣いて困らせるようなことはなかったとのこと。泰助なりに、 なにか尋常でない事態になっていることを察して、緊張感を もって生活していたのでしょうか。扱いやすいのは結構なのですが、 この子は優等生になりすぎて、自分でも気づかずに自分を押し殺して しまうところがあるのではないかと、親としてはそれも心配です。

こうして、再び3人家族の生活が戻ってきました。泰助がいたおかげで、 自分でも不思議なくらいに、日中は穏やかな気持ちで過ごすことが できました。ふいに悲しくなって泣いてしまうのはたいてい夜か、 あるいは泰助が昼寝していて、自分一人になったときでした。 幸いにも、一番悲しい時期をよい看護婦さんのいる病院で過ごすことが でき、退院後も家族や友人に支えられて、わたしはすぐに元気になることが できました。とりわけ、両方の父母には妊娠中から心配をかけたし、 力も貸してもらいました。とても感謝しています。




天国にいる翔助と俊助へ

翔ちゃん、俊ちゃん、わたしたちのところへ生まれてきてくれて どうもありがとう。一緒にいられた時間は短かったけれども、 あなたたちはとても大切なことを教えてくれましたね。 病気のときにはじめて健康のありがたさを知るのと同じように、 ふつうは自分の死を意識しないと、生のありがたさを感じることが できないものだと思います。でも、いつかあなたたちと天国で再会 したときに恥ずかしくないようにしておかないとって思うと、 どうやって生きていこうかと、真剣に考えざるを得ません。 それに、価値観もだいぶ変わりました。いままであせって 手に入れたいと思っていたものは、実はどうでもいいものでした。 他人とくらべてどうこうということではなく、この世にひとりしか いない私という人間がやるべきことを、どこまで成し遂げられるか、 それが大事なのですね。いまはまだ自分の天命が何なのか、はっきり とはわかっていません。でも、かつて見当違いの方向をむいていた のが、あなたたちのおかげで軌道修正できたようです。 あなたたちのきょうだいを育んでいる間、”自分のなすべき何か”も 形ができあがってくるまでゆっくり暖めておこうと思います。 わたしもまだまだ青くさくって、これでいいのかってあせってしまう こともあるんだけどね、えへへ。”そのとき”がきたらすぐに がんばれるように、なるべくエネルギーを蓄えておくことにしましょう。

1年経って、あなたたちはどんな姿になったのでしょう。 なにせ、さよならしたのがたったの17週のときだったから、 わたしのイメージでは、二人ともあのときのまんまなのよ。 天国で再会するのが楽しみです(天国にいけるかな?)。 それまで、おかあさんはもう少し、こっちで頑張るね。

(1999.7.10 ふたりの分娩1周年を前に記す)





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