| Mothball Avenue (表紙画像過去帳)Part
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2008年9月 葛西の人工渚
葛西の人工渚に寄せる波が逆光に映えています.こうしてみるとなかなかおだやかで美しい海岸模様です.東京湾はかつては豊饒な漁場でした.埋め立てにつぐ埋め立てで自然海岸がほぼ完全につぶされたあと, わずかな人工渚だけが海と住民をつないでいます.東京湾は行けども行けどもどろりと濁った水で満たされ, 水に浸すことさえ躊躇するような黒い水が打ち寄せる黒い汀線しかありません.それでも都民はすっかり慣れているのかこの人工渚で果敢に水遊びでひとときを過ごし, アサリ採りさえして楽しんでいます.
奥の海岸は江東区の同じく埋め立て地ながら, アミューズメント施設を集中させた瀟洒な場所になっています.
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2008年8月 尾曲り渕
江戸時代の宗教禁圧はキリスト教にとくに集中しましたが, 伝統宗教のうち浄土真宗に対しても全国的に禁圧の動きがありました.加賀国の一向一揆をはじめ,
16世紀のはじめに真宗門徒たちが活発に起こした民衆反乱は藩主たちに真宗に対する警戒の念を高めさせたからです.警戒はやがて緩みましたが, 人吉藩とその隣の薩摩藩だけは徹底的に真宗を禁圧し続けました.
信仰への誠実さは拷問をものともせず, 山田伝助をはじめ多くの殉教者を生み出しながら人吉藩内の各地に「隠れ念仏」が底流のように息づき, 「仏飯講」が根強く組織されました.
しかし, 門徒を根絶やしにしようとする圧迫はあくまで執拗で, 1687 (貞享4)年に14人もの男女が入水するぎりぎりのプロテストさえ起きてしまいました.運命を共にする決意で互いに細縄で結び合った14人をのみこんだのが川辺川の「尾曲り渕」です.今では「十四人渕(じゅうよったりぶち)」とも呼ばれています.
南北に流れる川辺川が東方向に屈曲するポイントである尾曲り渕は, 夏草の濃い緑のむこうに静かな流れを見せていました.
画像は2006年7月, 球磨郡相良村にて.
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2008年7月 ラジオ体操
夏休みの朝, 広場でラジオ体操をしている子供たち.山奥にあるこの村の小学校の児童の, おそらく半分が集まっています.市房山越しに朝日がさしこんできて, 村の朝はすっかり明けました.このあとすぐに入道雲が湧き立ちます.子供たちは今日いちにちヤマメ釣りに行こうか, クワガタとタマムシで遊ぼうか, 蜂の巣を落とそうか, などと考えているのでしょう.ちょうど数十年前のわたしと同様に.あの頃, 夏休みの一日のはじまりはNHKラジオ第一放送がが流すこの歌ではじまりました.
新しい朝が来た 希望の朝が
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を
この香る風に開けよ
それ 一 二 三 |
画像は2007年7月, 球磨郡水上村にて.
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2008年6月 球磨川下り
一勝地の河岸道路から球磨川下りの舟を見下ろしました.舟は球磨川下り48瀬のうちの「二俣の瀬」を乗り切ろうとしています.舳先で踏ん張っている「櫂板(きゃいた)」と呼ばれる舵取りが艫(とも)で操られる艪(ろ)と息を合わせ, 舟を丸ごと呑み込むがごとき瀬に次つぎに立ち向かいます.ちなみに「櫂板」は船頭の中でも花形です.
球磨川は江戸時代に難所を開鑿し川幅を広げて舟運が可能となりました.まさに人吉と外界を結ぶ「ライフライン」になったのです.明治時代末期に鉄道が人吉まで開通すると舟運は廃れ, 観光川下りに「業態変更」しました.それ以来全国でも有数の観光川下りとしてキャリアを誇っていて, もうひとつの川下りとしてラフティングも著しく成長しています.ラフトが瀬に挑んで跳ね上がりながら進むさまはなかなか勇壮ですが, 川舟と白波の取り合わせも北斎の「浪裏富士」を連想させてさらに勇壮です.
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2008年5月 江戸時代の名主屋敷
江戸川区のある一角に保存されている江戸時代の名主屋敷では毎月「昔ばなしの会」が開かれ, 語り自慢のボランティアが区民に昔ばなしを伝えています.
この名主屋敷は安永年間(1780年頃)に再建されたもので, 屋敷森, 屋敷畑, 堀を備えており, もともと中世土豪的屋敷構えであったと考えられています.
その昔, 花のお江戸の周辺部は狸や狢が棲んでいるような田舎でしたが, 急速に大都市に発達した江戸への食料供給地として新田開発が盛んにすすめられ, 葛飾村(今の葛飾区, 江戸川区)では有力な農家の指導のもと, 江戸川や荒川の下流の湿地を埋め立てて新田がいくつも誕生しました.名主は有力者として村の衆をまとめ, 身代をなしていきました.名主屋敷のゆとりのある間取り, がっしりした構造, 調った生活用具に当時の「農村セレブ」の生活を垣間見ることができます.
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2008年4月 球磨川第三橋梁
肥薩線は今からちょうど100年前に人吉まで開通しました.1908年とはすなわち明治41年のことで, その翌年にレールは鹿児島に到達し, 全線開通しました.
線路は八代から人吉までは球磨川にぴたりと寄り添い, 人吉から南は山を走り峠を越えていきます.いわゆる「矢岳越え」です.人吉駅を出発した列車はしばらくして球磨川第三橋梁で球磨川を横切ります.この鉄橋は, 川が流れるような平地はここで終わり, けわしい山に突入する合図です.向こう岸に渡りきると, トンネルの連続と急勾配がすぐにはじまります.
1972年までは矢岳越えの貨物列車にはD51が投入されていました.貨物列車の前後に機関車をつけて遮二無二峠をめざして走るのですが, 急坂ではまさに青息吐息の状態でゆっくりゆっくり登っていきました.そのときキャブ(運転室)は防塵マスクをきつく締めた運転士たちが窒息覚悟で火室と格闘していました.遠く離れた麓にも山の上を走るD51の汽笛が聞こえてきて, そのがんばりを思うと切なくなったものです.
球磨川第三橋梁も肥薩線も矢岳越えもJRの軽々しさとは縁遠く, これらは皆「国鉄」の時代にこそ輝いていました.
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2008年3月 おもろ
埼玉県の友人たちと飲むときはたいてい池袋.その中に徳之島出身者がいるので, 二次会は自然と池袋駅西口にある沖縄居酒屋「おもろ」に向かいます.「おもろ」の創業は1948年.まさに戦後混乱期のまっただ中でした.
敗戦直後の池袋の焼跡には「連鎖商店街」という名のヤミ市が林立し, 店主が裸一貫からはじめた店にモノを求める庶民が引き寄せられ, 奇妙なエネルギーを発散させていました.抑圧から解放された残留中国・朝鮮民衆と共に沖縄からの移住者も焼跡に浸透し, 被抑圧者をつなぐアイデンティティとして沖縄居酒屋が開店しました.今は泡盛を出す店が都内で大繁殖しているけっこうな御時勢ですが, 「おもろ」は店の歴史が歴史だけに芯が通っています.
池袋は今でこそ新宿や渋谷と並ぶ盛り場の街になっていますが, いちはやくヤミ市を片付けた新宿や渋谷よりも雑然としていて, 戦後のおもかげを今も, とくに駅東口に濃厚に残します.
泡盛とオリオンビールで酔いがまわると徳之島の友人は「手踊り」を始め, 彼のまわりにはにわかに琉球の朦気がただよいます.南島の歴史と文化を共有する奄美諸島は, 施政権返還に時差がなければ沖縄県の一部になるべきだったと思います.
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2008年2月 球磨絵巻
球磨絵巻は1773(安永3)年に描かれました.市房山と湯山村を南西側から見て, 頂上から北側に延びるギザギザの痩せ尾根, 中腹の市房神社などがけっこうリアルに表現されています.
旧暦3月15日の晩は「嶽ん後夜(たけんごや)」といって必ず豆腐田楽を食べる風習がありました.そして球磨郡中の若い衆は連れ立って市房神社へお参りするのです.これが「お嶽さん参り」で, 当日はずっと麓の湯前村くらいから道は参拝客で数珠つなぎ状態だったと伝えられていますから昔は皆健脚でした.若年層も大量にいました.
最近ではお嶽さん参りは忘れられかけていましたが, 過疎と嫁不足に悩む水上村では, 役場が音頭をとって若者の出会いの場・お見合いイベントとしてお嶽さん参りを復活しています.
2月の市房山の頂上は雪と氷でまだガチガチですが, 「お嶽参りの唄」が聞こえる頃は椿も咲いて一緒に鴬も啼き出すでしょう.
笠を忘れた ドッコイ
免田の茶屋で
雨が降り出しゃ思い出す ナイヨエー
お嶽ご参詣は ドッコイ
今度が初よ
又もご縁があるなれば ナイヨエー
お嶽ご参詣は ドッコイ
今度が初よ
ご縁があるなら又参ろう ナイヨエー
今日は日もよい ドッコイ
新寺参り
婆も出て見やれ孫連れて ナイヨエー
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2008年1月 姫川源流
長野県白馬村に端を発し, 日本を東西に分ける大地構帯であるフォッサマグナを穿って流れる姫川は糸魚川で日本海に注ぎます.その川が生まれる場所を, 雪をかきわけて見てきました.
標高約500mの湿原地帯(親海湿原)の中の通称「荒神の森」で忽然と湧き出した水が, ただちに小川となってその向こうの雪に埋もれた田畑を悠然と突っ切ったのち, 信越国境の山塊を削るけわしい谷に移っていきます.湧水の水温は年間あまり変わらず約9-10℃で, よく繁茂したバイカモの葉が冬でもゆらゆらと揺れています.
川というものはけわしい山奥のちょろちょろとか細い流れからはじまるのが普通ですが, 姫川の場合は古くから糸魚川と松本を結ぶ「塩の道」として重要な交通路だった千国街道(現在は国道148号線)から近く, 例外的に「すぐ行ける源流」になっています.
親海湿原の南側には仁科三湖のひとつである青木湖があり, この湖から断層破砕帯をくぐってしみ出した水が親海湿原に一部混じっていると考えられており, フォッサマグナの地下ではいろいろなことが起きているようです. |
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