春風駘蕩 霞のかかった空をヒバリが天空目ざして一直線に舞い上がるようになると春も爛熟の気配をみせます.天の下に広がる田はまだ仕事がはじまる前で, 耕起する前の田という田が一面に紅紫色のレンゲのジュウタンでひとつながりになってるんです.休耕田がのさばる当節よりもずっと前の, 田も稲も大切にされていた頃の農村の春はこうでした. 子供たちにとってレンゲの田んぼは遊び場である野原の延長のようなもので, その頃ガキだったわたくしもそこに飛び込んで取っ組み合いをしたりボール投げをしたりして日がな一日よく遊んだものでした.飛び込むったってレンゲの海ですから濡れるわけはありませんが, 緑の汁が服にしみこんでしまい, タライと洗濯板で洗濯する母親は苦い顔をしてましたけど. 春の遊びといったら, メジロ取りも人気がありました.ツバキの蜜を吸いにくるメジロをトリモチで引っ掛けて, 手製の竹の鳥籠で飼います.年長の連中が腕を競うように肥後守と錐を奮ってつくる鳥籠は端正で機能的な工芸品のおもむきがありました.トリモチも専用の木の皮を削って粘らせる自製品です.どれもこれもすべて自前で完結した遊びのサイクルですな.
緑の肥料 それでレンゲの田んぼなんですが, そこに平気で乱入して遊ぶのは非農家の子供たちで, 農家の子供たちは慎重だったんですよ. なぜかというと, レンゲは作物同様だからなんです.直接換金性はないけれど緑の肥料=緑肥としては稲の豊凶に直結する大事な植物ですから, その上で取っ組み合ったり寝転がったりしたらそれこそバチが当たります.一般サラリーマン家庭の子女には悲しいことにレンゲは漫然と咲いている雑草にしか見えず, 認識の落差, それがあったのです. レンゲは農家が前年の秋から育てます.冬を越すとまんべんなく株わかれして田をおおいい, よく目のつんだ濃緑のジュウタンになります.開花してそれが紅紫色に織り直されるともったいないようですがすぐに田に鋤きこみます.こうして稲が育つための元肥になるのです. レンゲを引っこ抜いて根をしげしげと観察してみると無数の小さいイボイボがあるでしょう?そこには根粒細菌が棲みついてしていまして, せっせと空中窒素を固定しています.イボイボはいうなれば窒素肥料をつくる天然の工場で, 根粒細菌とレンゲはまさに昼夜を分かたず働き, しかも給与や手当てを農家に要求しない, 究極のサービス労働者です. ところが, 時代が変わり, 最盛期には全国で30万ヘクタールもあったレンゲの田は化学肥料の普及によって急速に衰退してしまいました.農家は今やJAなどから買う化学合肥料に頼りきりですが, 結構な支出になります.それでも農家がそっちを選ぶのは, 家庭内農業従事者数が減少した現実に直面して, 少ない作業量で大きい施肥効果を得るためなのでこれはこれで納得できることではあります.
農村のルール レンゲの季節も過ぎて田植えが終わると, シオカラトンボやギンヤンマがすいーっと苗をかすめて水面低く飛びまわり, これが少年の空中戦闘本能を刺激するんですよ.トンボほしさに虫取り網を振り回すのはいいとして, 田の中に絶対に足を踏み入れてはいけません.掻きあげた田の泥で塗り固められた畦も歩いてはいけません.この禁則を侵したら子供社会でも白い目でみられてしまいます.(ところで, 畦といえばつくり立てのそれはカドがきりっと立って表面が金属的なまでになめらかで, それはそれは造型性が高かったのです) 農村社会では, 最高の換金作物である稲を痛める行為は厳につつしむよう徹底して教えこまれ, 歴史的に稲作が国の経営のおおもとだった神聖性を残していることも禁則に輪をかけています.米のみならず食べ物全般に対する扱いが目もあてられないほどぞんざいになっている現在, 柳田國男の根本思想みたいですが, 米づくりの厳粛さをもう一度世の中に伝えたら食べ残し食べ散らしがちょっとはあらたまるんじゃないでしょうか.飯≫パン≧パスタの順で好きなわたしはそう思います.
南稜焼酎蔵 熊本県のあさぎり町に南稜高校という高校があります.もともと農業高校が母体なだけに農産加工のコースが充実していて, それに球磨焼酎の本場の自負が結びつき, 2005年度の正規実習科目として焼酎づくりが採択される画期的なできごとがありました.食品科学科内に組み上げた「南稜焼酎蔵」にミニサイズながら蒸留機を据え付け, 同校で栽培した文句のつけようがないアイガモ農法米を使い, あさぎり町内の蔵の杜氏さんの指導を得て, 商品と比べても遜色のない焼酎ができあがりました. 南稜焼酎蔵には正しく真理を突いた「米一粒は焼酎の一滴」の標語が掲げられているそうです.世が世であれば「レンゲの一株は焼酎の一滴」の標語であっても真理としてリアルに受けとめられていたかもしれません. 最近になってまたレンゲが見直され, 各地の田で復活しようとしています.農家とボランティアが一緒にレンゲの種を撒くスタイルが多くなっています.こんな動きを契機としてレンゲの花色がふたたび春の色彩の基調となり, もう一度レンゲ・カーペット・ライドが許されるものなら, それで春の夢の世界をどこまでも飛んで行けそうでうれしいことです. 最後に.このページで使った画像の取得場所は, 我が郷里ではなくて山梨県北都留郡上野原町(現・上野原市)です.2003年5月2日に扇山という1100メートルちょっとの山に登ったとき, 麓の上野原町のレンゲがきれいだったので. 付録:レンゲソウのデータ 蓮華草, 紫雲英の漢字があてられる.標準和名(正式な名前)はゲンゲ. 学名 Astragalus sinicus に中国(sinicus)の意が含まれるとおり中国原産で, 我が国には江戸時代以前に水田に持ち込まれた. 熊本以北の九州での方言「ふーぞ草」あるいは「ほーぞう草」は中国語の「華草(hua t'sau)」の優雅な転訛と考えられ, 大陸農業との歴史的な近さをあらためて教えてくれる.
08. Apr. 2006 |