里程標 11
石倉は未来を放射する


15. Sep. 2003, 6:00 a.m. 多良木町 役場周辺 

早朝路上観察
 15日の朝はすっきりと目が覚めた。なぜか酔いを翌日に持ち越さない、得する体質に感謝する。まだ6時なのに脳から〈起きろ命令〉が出ている。あまり来ることのない多良木町にいることだし、早朝路上観察に出かけみた。

 馬場田地区公民館(宿泊所)から北東にある役場周辺を歩いてみると、たちどころに石倉がふたつも。多良木町役場書類倉庫と旧中原ポンプ倉庫だ。
 役場の一角に建つ書類倉庫は現役なので管理がよさそうである。大窓があけられ、換気の工夫がある。昭和前期の建築の当初から書類倉庫だったのかどうか筆者は知らない。ポンプ倉庫もまた多良木役場の敷地内にあった。ブームの終末期に近い1957年の建築なので新しい。

 多良木町は、まことにもって“人も歩けば石倉に当たる”状態であるが、しかし仔細に観察したところ、建物のオリジナリティについてはた、と再考してみる気になった。役場の敷地内の石倉はこれら2棟のみで、なんとなく空きスペースに場所があてがわれているような見方もでき、オリジナルな場所から保存のために現在地に移築したようでもある。とくにポンプ小屋の出自は湯前町に近い多良木町中原地区にあると勝手に思うのだが。
 役場からさらにずっと北まで歩き、多良木町民のこころのよりどころである恵比須神社をぐるっと巡ってみた。恵比須様、どうぞ教えていただけないでしょうか。

画像左:多良木町役場書類倉庫  
 
 右:旧中原ポンプ倉庫  


15. Sep. 2003, 7:30 a.m. 多良木町 駅前石倉中庭 

コーヒーの香りがゆったりと流れて
 石倉の中庭にテーブルを並べて即席オープンカフェの朝食だ。
 これまたTafelmusik(食卓の音楽)で繰り広げられる楽想と生き写しの情景に、テレマンが生きていたら間違いなく泣いて喜ぶだろう。
 町内のベーカリー「ナチュラル」さんから提供されたパンにくらいついたら移築の推測などややこしい思念はどこかに吹っ飛んだ。アルコールが充満した朝はからだが水分を要求する摂理にしたがってミルクをがぶ飲みする。このミルクはやはり町内の新堀家の乳牛を搾ってこの食卓に直行したばかりだ。へるしぃですなあ。
青空朝食。
秋冷の候なれど中庭は陽光燦々。


15. Sep. 2003, 9:00 a.m. 多良木町 駅前石倉

ヤマ場
 いやはや今回のプログラムでは鱈腹飲んだり食ったりした。その様子は石倉そっちのけで詳細をきわめてレポートしたとおりである。
 しかし、である。仮にも「人吉球磨ふるさと市町村計画」で厳密に企画された、郷里の浮沈がかかった大事業の一環であるからして、参加者としては「飲みました食べました。んじゃ、そんなところで。御苦労さんでしたあ」、とお茶を濁すわけにはいかない。「総合ディスカッション」という名の、最後のつらいつらい試練に敢えて立ち向かい、高いハードルを乗り越えなければならない。昨晩から脳味噌がトロけたままなので無理です、との言いわけはもってのほかだ。
 4グループに分かれて神妙に〈総合ディスカッション=石倉活用策についてのまとめ〉がはじまった。

 1.石倉の現状と活性化をめぐる課題と問題点を抽出し、
 2.問題点の原因をさぐり出し、
 3.解決法とその実行手段をさがし出す。

 
ディスカッションの核心は、大意上記のようになろうか。QC(品質管理)計画、ひいては生産性向上運動の切り札とされる手法だ。筆者と同じグループにお目付け役として着席された高木冨士川事務所(交流大学推進事務局)の高木さんが手ぎわよく類型を整理し、フローチャートを作成していかれる。分析の的確さに地域計画のプロフェッショナルの片鱗を見る。
総合ディスカッションで苦闘中。


活性化案
 筆者が提案したのは陳腐も陳腐、レストラン案と博物館案であった。

 レストラン案:ヨーロッパではよく市庁舎の地下がワインセラー兼レストランになっている。そんな市庁舎は、どっしりとして威儀がある百年以上も前の建築であることが多く、もちろん石造だ。これに倣い、石倉を焼酎レストランに改装すればいいのではないか。
 博物館案:球磨は焼酎の名産地でありながら焼酎製造の歴史を伝える本格的な施設がない。これは由々しきことなので、石倉を焼酎博物館にして焼酎に関する一切合財を集積する。

 
集客力と収益性の見地から、そんな甘いもんじゃない、の対論が出された。当然であろう。レストランにせよ博物館にせよこれまで実現していないのは採算性で越えられない問題点がつきまとっているからだ。
 だが、と言いたい。自分でレストラン案を出しておきながら無責任ではあるが、観光面にだけフォーカスを当てて収益性に比重を置くだけが石倉活性化であろうか?こたえは準備していないが、それだけでは石倉の孤高を汚すような気がする。
 なお、個人所有の石倉だったら改装するにあたって小回りがきく、との補足意見もあった。

焼酎蔵では
 石倉は元来が倉庫だから、その目的で工夫すれば目的は足りるのかもしれない。たとえば、
 あさぎり町の松本酒造場さんの敷地には年旧りた堂々たる石倉が残され、焼酎の貯蔵庫として現役にある。同酒造場の松本義高代表は、「温度変化が少ないのが焼酎貯蔵庫としての石倉のメリット」と語られた。同じくあさぎり町の高田酒造場さんも石倉を貯蔵用に活用されている。
 天草郡五和町から本プログラムに参加された泉充さんは「石は使っているうちは生きているが、使うのをやめると死んでしまう」とおっしゃっていた。石の生き死になどおよそ考えていなかったのでびっくりしたが、泉さんは本職の石材屋さんだから説得力がある。したがって、松本さんや高田さんのように使い続ける意向が活性化へのなによりのヒントになるであろう。
松本酒造場の石倉
入り口に立つのは松本義高代表。創業当時(1908年)の建築とすると100年近い年月が流れており、かなり古い部類に入る。とにかくがっしりしていて、100年などなんのそのである。


〈まとめ〉は正午の予定を30分超過して終わった。まとめきれないほど多数の意見が出されたのは、とりもなおさず全員のただならぬ関心のあらわれであろう。
 いずれにせよ、全体でどのような意見が出されどのようにまとめられたかは後日事務局から総括報告が提出されるであろうからそれを待ってみたい。

15. Sep. 2003, 1:00 p.m. くま川鉄道 多良木駅 

栄枯盛衰
 すべてのスケジュールは滞りなく終了した。
 帰路は多良木駅からくま川鉄道で。ホームで待つあいだもこの2日間の濃密な非日常が反芻され、「石倉漬け」になってしまった我が身に気付く。

 くま川鉄道の前身は国鉄湯前線である。JR成立後、第三セクターに移管された。
 陸路の馬運と球磨川の舟運にとってかわる格段に強力な輸送力として敷設された鉄道は、駅に石倉を引きつけた。多良木駅前石倉しかり。免田本町農協倉庫しかり。肥後西村駅前倉庫しかり。これらの蔵には四斗入り叺(かます)がぎっしりと天井まで積み上げられていた。中味はもちろん球磨盆地の米であった。今は米積みの跡形もない。

 多良木駅構内の線路はホームの両端で不自然な屈曲を描いている。かつて国鉄湯前線が活況を呈していた頃は構内に何本ものレールが分岐していて人や貨物を大量に飲み込み、また吐き出していたのであるが、その後待ったなしでやってきた鉄道の低落は駅の落日を招き、余分なレールは撤去された。今はなくなった分岐の名残が屈曲になっているのである。

 鉄道輸送の斜陽化と石倉は運命を共にした。
多良木駅ホームの湯前寄り。
かつては構内に幾本も線路が走り、貨物輸送も順調であった。


海に沿う白壁の町
 筆者が一武駅で降りるまでの短い時間であったが、宇土郡不知火町まで帰られる田代久仁寛さん、阪本順二さんと同席した。両名は、不知火町の地域おこし組織である「まっちゃ活かそう会」の主力メンバーとして不知火町の松合地区に広がる美しい白壁の町並をいかに維持していくか腐心されている。港を擁する松合地区は、かつて大火の教訓から白壁の耐火建築にしたのだそうだ。
 土地ごとのユニークな建築様式にはそれぞれにたしかな理由がある。

 我が郷里では石倉の再認識につづき、古い文化財に光をあてる一連の動きのひとつとして、今、茅葺き屋根の家屋の登録と保存の気運が高まっている。
 茅葺き屋根は葺き替えに多大な費用と人力、技術が必要なことから維持と保存は石倉よりも難事であるかもしれない。なによりも、生活するうちに自然に屋根の茅にしみこむ天然の防腐剤である、煙のタール分が供給されなくなったことが痛い。ライフスタイルが変わり、囲炉裏やくど(=かまど)の火が絶えると煙はもう出ないのである。かような問題はあるが、茅葺き家屋の保存運動の高まりにも期待したい。

15. Sep. 2003, 3:00 p.m. 錦町 一武下原地区公民館

 15日は奇しくも敬老の日である。錦町で、地区の敬老の日の集いに親が参加しているので寄り道した。
 会場では、町からの表敬スピーチなどがあり、そのあとはずっとたっぷりシワをたたえたじーさま、ばーさまが卓を囲んで世間話をしていた。
 今はおだやかな風貌なれど、「かちゃあの時代」をリアルタイムで生き抜き、働き抜いてきた世代だから若き日は農村共同体でなかば拘束されつつとてつもないエネルギーを発散した剛の者たちだったはずだ。
 筆者もどうせすぐに正真正銘の老人の仲間入りして、このような寄り合いで息子の嫁自慢とか老人にやさしい病院とか畑の作柄の話に花を咲かせるんだろうから、今から彼等のお相手をするに限る。焼酎(錦町なのに、なぜか人吉市の「繊月」であった)をロックでいただきながら親の付き添いがてら皆と話し込んだ。

 都市部で焼酎の販売量が伸びるのに異をはさむつもりは毛頭ないが、焼酎の根をもたない大都市で乱立する焼酎居酒屋のオーバープロデュース加減が膚が合わない筆者には、この日のお年寄りをはじめ村人と焼酎を当り前の飲料水のようにして飲むのが愉快至極である。目をくしゃくしゃにして飲むじーさま、ばーさま方に深ぶかと伸びる焼酎の「根」は無敵だ。

 石倉についてもっと情報を得るいい機会だったのだが、お年寄りにとって昼下がりの「繊月」は効きがスルドいらしく、話のキレが悪くてもうひとつ要領を得なかった。聞き取り調査はシラフのときに限りそうである。

 村の衆の飲み方につきものの愉しみはカラオケと相場が決まっていて、シブいノドをきかせるおじいさん、それに合わせて「チークダンス」のお相手をなさる元気なおばあさん、とにぎやかなことである。さすがに20世紀になると「歌垣」やそれに似た習わしは消滅していて、眼前のお年寄りたちはその「恩恵」にはあずかれなかったはずであるが、縄文以来綿々と受け継がれてきた歌垣の記憶がときどきふわっと浮かび上ってくるのかもしれない、とさえ思えた。ともかく、「かちゃあ」の真っただ中で、互いに助け合いながら暮らしてきた〈石倉の世代〉のお年寄りたちは仲良しである。

 彼等の〈かちゃあ〉と生活の記憶を伝承していただくことを願いたい。
敬老の日の集い。
若き日に村(今は町制を敷いているが)を支えてきた老人たち。もちろん農業や自営業など働きずくめの現役も多数いらっしゃる。
今日はゆったりとくつろいでください。




 最後に、石倉の構造をお目にかけたい。これもパンフレット「人吉球磨石倉めぐり」からの転載である(無断転載なので面映ゆい)。
 非常に計算が行き届いた洗練された構造だと思うのだが、いかがだろうか?



 ある時代の生活の文化複合の一員としての建築物は文化複合の質が変わるとその位置が揺らぎ出すのであるが、もう一度生活の息を吹き込むことによって別の輝きを増しはじめる。
 交流事業大学と石倉研究会は石倉の歴史の屈曲点に立会い、そこでいったん閉じようとしていた可能性を未来に向けて伸ばされようとしている。生活文化複合の再生をかけた本事業に今後の発展を期待するゆえんである。

 石倉は放射する。球磨から全国に向けて建築文化の、職人の技術の、地域との交流のあり方の、未来への光芒を。

―石倉街道・完―


謝辞
 
交流大学推進事務局、地元スタッフ、そしてプログラムで行動を共にしたすべての皆様、ありがとうございました。今さらながらはじめて見て・技に触れて・知ったことばかりで、日を追うごとに刺激がよみがえります。皆様の御指導を得ながら地域の気概とあたたかさを伝えていこうと思います。
 ほんとによか旅でした。また発見ばしに帰ります。そのときもぜひよろしくお願いいたします。


§5 Index

10. Nov. 2003
17. Nov. 2003 Revised
16. Oct. 2007 Revised