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酒どころの里の水 冷たい湧き水を手ですくってじかに飲むうまさは, 山歩きをした人ならだれでも知っている.歩き疲れたときに山奥の崖から噴き出す水に出会うとまったく生き返る思いがする.ただ場所が場所だけにアクセスは悪く, そうしょっちゅう生き返る機会には恵まれない. 球磨郡あさぎり町深田地区に湧く「天子の水」は天の配剤か人里の泉なのがありがたい.平野部に向かってゆっくり下る丘が突然ぽこっと窪んだポイントで清冽に噴き出している水は昔から生活用水として大事にされ, 住民の愛着と畏敬もことのほか深く, 鬱蒼とした古木に抱かれた湧水点には恭しく祠がかまえてある.あたり一帯は公園として整備され, その水と同様まことに涼やかな空気がただよっている. 茶をたてたり焼酎を割るのにもってこいなので, ポリタンクをかかえて水を汲みにくるリピーターのために駐車場も広くとってある.酒どころであるあさぎり町を象徴するような泉である.「くまもと名水百選」にも選ばれている.
地下水脈 あさぎり町の北側にツイタテのようにそびえる, 五木村との境界をなす1200メートル級の山嶺に降った雨が「天子の水」のそもそもの原初である.照葉樹林の床に吸い込まれ, 地下深くの透水層を気長に気長に流れ下ってきた水が地層の切れ目でひょっこり顔を出すまでのその悠揚せまらぬ旅のあいだに溶かすものを溶かし, 置いてくるものを置き, さながら完璧にカットされた宝石のように過不足のないクリアないでたちになるまでに自身を磨き, さらによく練りこまれた空気が味にふくらみを与えている. あさぎり町内にある蔵を地形的に考えてみると, 深田地区のふたつの蔵(高田酒造場, 宮原酒造場)はどちらも球磨川から500メートル内外にあり標高も低いので, 球磨川と地続きの地下水が汲まれているのではないだろうか.町の南側にある3 蔵(免田地区の松本酒造場, 上地区の松の泉酒造, 岡原地区の堤酒造)は, いずれも白髪岳山系に集まってえんえんと扇状地を伏流してきた水に縁が深いような気がする. 水の魔力 球磨焼酎が1995年以来法的に保護された〈地理的表示の産地指定〉を受けていることはよく知られているが, その基準はつぎの3点である. ・米こうじに球磨郡または人吉市の地下水を原料として発酵させた一次もろみであること ・その一次もろみに米および球磨川の地下水を加えてさらに発酵させた二次もろみであること ・その二次もろみを球磨郡または人吉市において単式蒸留機をもって蒸留し, かつ容器詰めしたものであること 以上の要件を満たしたものだけが正真正銘の球磨焼酎なのである. 米よりも水について現地主義が強いことがおもしろいが, これは醸造業に広く共通する性格として納得がいく.たとえば, ビール製造業は原料の大麦とホップのほとんどを輸入に頼っているが, だからといってビール工場は港湾部にかたまって立地するかと思いきや案外内陸部にも多く, サッポロの群馬工場やサントリーの京都工場など大麦・ホップの輸送コストよりも水の質と供給量を優先して成立した典型例である.同様に, 球磨焼酎もいい水の確保は重大事である. そんな水事情を前提に, 天子の水に近い焼酎蔵である高田酒造場(あさぎり町深田)の杜氏さん(青木健太郎さん)に質問をしてみたことがある. 「高田さんでは水で特徴を出されようとしていますね.たとえば, アポロ峠の湧き水, 遠くて標高も高いアポロ峠の水を持って来るのは大変でしょうが, 水質が抜群にいいのでそれで「郷の鴨遊び(さとのかもあそび)」を仕込んだりされています.どっこい, 平地にも水質では遜色のない「天子の水」がある.それで仕込んでみるのはいかがでしょうか」 青木さんは冷静で潔かった. 「『天子の水』は公共のものなので, それを大量に私的に使うのはできないでしょうね.もったいないんですけど」 そういうことになるのであろう.
神代の頃 「天子の水」, すなわち〈天皇の水〉のイワレについて一言書いておきたい. 12代天皇の景行が九州遠征に赴いたときにこの泉で喉をうるおしたという「いいつたえ」がこの名の起こりである.景行は古事記では「大帯日子淤斯呂和気天皇」, 日本書紀では「大足彦忍代別天皇」としてどちらも「おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」と読む難読早口言葉的な名前で登場する.もっとも, この難読早口言葉氏が漫遊した先のどこで水を飲んだとかウガイしたとか歯を磨いたとか瑣末なことはいちいち記録されていない.たぶん「記」では稗田阿礼が, 「紀」では太安万侶が校正にあたった際にデリートしたのであろう.景行は「神代」の人(神?)なので実在性がないのが「天子の水」伝承にとってイタいが, 13代成務に王権のバトンを渡してからもシャキシャキと137歳(145歳説もあり)まで長生きしたことになっているので, これがホントなら「天子の水」の健康への御利益のたまものであろう.
ビオトープ的公園 公園には水にゆかりの深いハナショウブ2万5千株のほかアジサイなどが栽植されており, 開花シーズンには目を洗うばかりに美しく咲きほこる.当方が訪れたのは盛夏だったので花の季節はオフになっていたが, それでもみずみずしい大輪のハナショウブがいくつか咲き残っていて, ピーク時の絢爛さが推し量られた. 湧水点から下流に延びる溝にはカワニナの楽園となっている.なりは小さいが一人前の巻貝の眷属なので2本のツノ(触覚)を振りながら小石の上をちょこちょこ這い回る姿はまことにかわいらしい.カワニナは清冽な水を好むため バランスのとれた生き物のベッドになり得る水であるかどうかを判断する絶好のインディケーターとなっている.「天子の水」は軽く合格点をもらっている. 先にカワニナの楽園と書いたが, ホタル(ゲンジボタル)の幼虫には無抵抗である.極上のエサ=カワニナをもりもりと食べた幼虫は成長して水から上がり, 初夏から群舞をはじめる.天子の水公園はホタルの名所でもある. 皆様も一度ここで水を飲み, 散策し, ふわーーーっとリラックスしてみませんか? 焼酎の野点(?)もよさそうですな.
24. Apr. 2006 |