向田邦子の花の名前
人に勧められて向田邦子の著書を読んだ時、すでにその方はこの世の人ではなかった。
最初に読んだのは「阿修羅のごとく」、子供の頃テレビで見たような見ないような・・・
シナリオ形式のその本は、行間も(物理的に)空いていてとても読みやすかった。
かなりシュールなその内容の中、一つのト書きが私の目を惹きつけた
ほこりだらけの大きな薄端を洗っている綱子。(薄端を使う場合、花は、必ず古流か遠州流にしてください。)
分かっているんだ、この人
生け花くらいはあの年齢であればたしなみの一つで、理解しているのも当然なのかもしれない。けれどそこまで細かく指定するところがすごい!と思った。
「阿修羅のごとく」は年老いた父親の隠し子が発覚し、家から独立している四姉妹がすったもんだするドラマであるのだが、その中で綱子というのは長女で45歳未亡人、お花を生けている料亭のご主人と不倫をしている、という設定だ。向田邦子の頭の中では綱子という人は、古流又は遠州流のお免状を持った人でなくてはならなかったのだ。今でこそどこの流派も同じような花を生けるが、当時はおそらく革新的なお花の対極にあった流派ということなのだろう。骨董が趣味である向田さんのお好みであったらしい。
綱子という人は一見身持ちの堅いまじめな女性、その女性が実は・・・という事を暗喩したかったのだと思う。
綱子の生ける花は薄端をつかうということは格花(お生花)であろう。格花は決まり事のお花で枝の長さ比率角度など全て決まっている。決まっているから個性がでないかというと全く逆で、決まっているからこそ、そこに反映される人となりが大切なのだ。特に「色気」は大切で、きちんと入っているがどこか物足りない花などは「色気が無い」という表現をする。そこのところを向田さんも分かっているらしく、不倫相手の妻から「花に色気がある」と言わせる。「分かっているのよ!」という妻の牽制球であるらしいのだが・・・
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その次に読んだのは「父の詫び状」
これを読んで衝撃を受けた。文章が滅茶苦茶クリアで、しかも経験したことのない時代のことなのに、色鮮やかに目の前に風景が広がってくる。文章の力ってすごい、と思った。
そういえば直木賞を受賞しているんだっけ、と思って受賞作も読んでみた。
受賞作は「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」。これらはどれも短編なのだが、私の中の直木賞のイメージを覆してくれた。カリカチュアというより純文学の潔さがある。
「花の名前」のお話は・・・
お見合い相手は花をほとんど知らない男だったが、結婚したら花を習って自分に花の名前を教えて欲しいということで、約束通り生け花を習い、花の名前を夫に教え続けた。ある日それが役に立つ日がきて、自分がまじめにやってきたことに対して自信をもつのだが、その自信も夫の愛人によって簡単に覆されてしまう。
そのことを夫に確認しようとしたときの夫の背中が厳しい。
花の名前。それがどうした
勿論、苦しまぎれの開き直り、である。
でも主人公はまじめな性格故に、今まで自分が一生懸命やってきたことの足元をすくわれる気がしてしまう。
So What?
知識があってもしょうがない。大切な事はそういうことではないんだ。
深い!なんて深い!
私自身知識だけで、分かったような気になっていることがあるのかもしれない。
価値観が違えば、どんな事でも「それがどうした?」なのだ。
今後の自分の戒めのためにこの言葉をいただこうと思う。
花の名前。それがどうした
UPDATED:2005.9.6
※太字の部分は以下から引用:「阿修羅のごとく」新潮社文庫、「思い出トランプ」新潮社文庫