詩集の感想
  

茨木のり子詩集『倚りかからず』






 詩集冒頭の「木は旅がお好き」という詩を最初に読むと、ただ立ちつくしているように見える樹木が、実は(種子を介して)、「放浪へのあこがれ」や「漂泊へのおもい」に身を捩っているという、はっとするような対比を骨子にした童話的な作品という印象を覚えて、よく出来ているが、やや知的に過ぎるなあという感じも覚えるのだが、詩集全体を読んでから、また読み返すと、作者の感受性のあり方をそのまま表しているようにも思えてくるのが不思議だ。この感じをいうには、「放浪へのあこがれ」や「漂泊へのおもい」という言葉を、私たちの社会環境を囲繞している様々なマスイメージを越えた場所への希求と言い換えてみればいいかもしれない。おそらく、そういう希求の強さや激しさが、この作者が詩を書きはじめる端緒のひとつになっているのではないだろうか。

 この詩集が、ある種の私たちの時代感覚と共振しているところがあるとすれば、それは、個別の生活圏という場所に縛り付けられながら、多くの人が、そんな日常の内部に、社会意識や生活意識そのものを感性的に相対化できるような場所を見いだして、その場所に自在に思いを委ねられるようになったことが関係しているに違いない。ただ、今のところ、これはとても奇妙なことだ。というのは、その場所に自在に思いを委ねられるようになった、という事態がどういうことなのか本当にはよくわかっていないからだ。

 その場所からは、世界について語られる多くの言説が相対化されてみえて、それを、ちょうど「水の星」という詩にでてくる地球の写真のイメージに象徴させることができる。そこでは地図のうえにだったら人為的に引かれている国境の線が消去されている。この国境をこえた地球感覚とでも呼びたいものが、たんにその場の観念的な思いつきというのではなくて、いろいろな思念を払い捨てた後に残る確かなイメージとして根付いている、というのが特徴と言いたいところだ。その感覚は、韓国の女性詩人との交流について触れた「あのひとの棲む国」という具体性を帯びた作品にも登場する。そこでは、もう「それぞれの硬直した政府なんか置き去りに」した、ひととひとの結びつきが、地球規模で起こっていると言われ、そこでは「雪崩のような報道も ありきたりの統計も 鵜呑みにはしない じぶんなりの調整が可能である」ことが強調される。

 こうした感覚を一番ダイレクトに語っているのが表題作「倚りかからず」だろう。この作品は、もう(できあいの)思想、学問、宗教や、いかなる権威にも倚りかかりたくない、自分が長い間生きてきて心底学んだのはそれぐらい、という内容の詩で、倚りかかるのは椅子の背もたれぐらい、というユーモラスなおちがついている。私たちはこの作品に、こきみのよさを感じるが、この詩を支えているのは、たぶん、たたみかけるような部分の意味的な内容(詩では「できあいの」という言葉が入ることで、とても口当たりが良いものになっているが)ではなくて、「ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある」という信条表明の部分だろう。

 私たちの日常を覆う、マスメディアのもっともらしい言説、制度的な言説に対しての幻滅を、かかえこんでしまうような心の場所がある。そういう場所は、むしろそれらの言説の過剰さ(「言葉が多すぎます」)や停滞に拒否反応を起こした身体生理のほうからやってきた場所なのかもしれないのだが、そういう場所もまた言葉やイメージによって埋めることしかできない。そして、見るところ、もはや言葉やイメージはそこでも飽和状態なのだ。というのは、いつでも問題は価値をめぐるものなのに、私たちはそれを意味によって伝達する所作から逃れようもないからだ。

 自然への憧れ(「鶴」)、ゆったりした時間の流れへの賛美(「時代おくれ」)、国境のない世界のイメージ(「水の星」)は、たしかに私たちの共感を誘うイメージに満ちている。「時代おくれ」という作品は、いわゆる文明の利器の急速な普及を批判して「そんなに情報集めてどうするの」「そんなに急いで何をするの」と問いかけ、自分はたしかに「時代遅れ」だが、進んで選んだことなので「もっともっと遅れたい」と告げる。誰でも生理的な時間をとびこえて産業的時間の流れの速度の中で生きざるを得ない社会では、こういう言葉は軽快なジャブのように風刺が利いて聞こえる。しかし、同時に、美しい鶴の清冽な羽ばたきを瞼に焼き付けるのも、高度な撮影機材を駆使して撮影処理されたNHKのテレビ番組の情報を通してであり、「行ったこともない」シッキムやブータンの子供たちの姿を想像して彼らこそ「まっとうに」生きている、といえるのも(おそらく)テレビの特集番組や書籍を通してであり、地球を外からパチリと映した写真に至っては。。。ともあれ、ここにある疑いようもないイメージとしての実感、共感の場所こそ、90年代的な大衆感性の中核にあり、この詩集は、そのことが可能になったこと自体の奇妙さに言及してはいないものの、遠からず的を射当てているということにでもなるだろうか。


茨木のり子『倚りかからず』(1999年10月7日初版第一刷発行・筑摩書房)


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