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ストーリー解説あり。注意。

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「許されざる者」(原題 UNFORGIVEN )



 19世紀末の西部。若い頃は、何も考えず、動くものは女でも子供でも撃ち殺した、と語るウィリアム・マーニーは、かって列車強盗などで名を馳せた伝説的なアウトローだった。しかし、11年前に妻に出会ったことで改心し、銃も捨て、酒もやめた。今では、その妻とも死別して二年、幼い子供二人を抱え、人里離れた土地で、貧しいながら自給自足の小さな牧場を営んでいた。
 或る日、そんな彼のもとに、冷酷無比のマーニーの伝説を聞き込んだ、スコーフィールド・キッドと名のる若いガンマンが訪れ、賞金稼ぎの話を持ちかける。ワイオミングのビッグ・ウィスキーという街で、「泥酔して娼婦の顔を切り刻み、目玉をえぐり出し、乳首を切り取った」カウボーイが、保安官の裁量で、馬7頭分の賠償金を支払うという約束だけで、自由の身になるという事件が起こった。怒った娼婦たちが、カウボーイを殺した者に1000ドルの賞金を出している。というのだ。
 キッドは伝説のガンマンに憧れる野心的で口の達者なちんぴら青年だが、マーニーは逡巡した末に、この若者の話にのる。不当に殺された娼婦の仇討ちの代行をしてやり、大金も入ってくるというのは悪い話ではない。かくてマーニーの昔からの相棒ネッド・ローガンを加えた一行3人は、ビッグ・ウィスキーに向かう。。。
 ところが、、旅の途上、マーニーは、自分が昔殺した人々の顔や、蛆虫の這い回る妻の顔が登場する悪夢に苛まれる。悪性の風邪をひきこんだような、ひどい状態で、ようやく街に到着するが、銃の不当所持という理由で、保安官に殴打され、抵抗もしないまま酒場から叩き出されてしまう。どうにかその場から逃れ、街外れの廃墟で、娼婦たちや仲間に介抱されながら、3日ほどは昏睡状態に陥る。マーニーの見る悪夢は、彼の内心の葛藤を暗示している。行動にやましいことは無い筈なのに、無意識は、彼の最愛の妻の変わり果てた姿を見せることで、またあの地獄の世界に戻るのかと彼を責める。彼は激しく怯え、意志の力で、かろうじて耐えているかのようだ。
 昏睡から目覚めた時に、マーニーが最初に見るのは、顔に深い傷のある娼婦だ。彼女が殺されたというのは、誇張された噂に過ぎなかったのだ。すると、カウボーイを殺す正当な理由はもう無くなっているのではないか。そうではなくて、彼は、この時はじめて、顔を切られたその女性の悲しみや痛みを間近に知り、肉親のような、不思議な情感のやりとりが行われることになっている。この時マーニーは、「生まれて初めてのように世界が美しく見える」という。3日間の昏睡の後に死の淵から蘇った彼の目に映るのは、全てが洗い立てられたような純粋な風景だ。そのことは、娼婦についての心情についても言える。おそらく、ここでは日常人々を隔てる距離の感覚のようなものが消失していて、宗教的な無差別な情感が、彼を満たしていることが暗示されている。彼にはもう迷いはない。あとは、ただ昔のように冷静に殺人を実行するだけだ。
 こうした心情の変化の契機は相棒ネッド(モーガン・フリーマン)には訪れない。ネッドもまた、殺されたという筈の娼婦が生きていたとを知ることで、カウボーイを殺す大義名分を失ってしまったのだ。彼にとっては、カウボーイ殺しは、単なる金のための殺人という過去の再現に過ぎない。ネッドはカウボーイをどうしても狙撃できなくて仕事を途中で放棄してしまう。

 映画で、もうひとり過去を引きずっている男は、ビッグ・ウィスキーの保安官リトル・ビル・ダゲット(ジーン・ハックマン)だ。街の法と秩序を守るダゲットは一見正義の味方に見える。しかし本当は、彼をそうした行為に駆り立てているのは、自分の過去の悪事の打ち消しという個人的な動機である。彼もかってはガンマンで相当な悪事を働いたが、マーニーのように嫌気がさして改心した。しかしダゲットの場合は、法秩序を守るという大義名分を手に入れて、自分の攻撃性のはけ口にしているところが対照的だ。彼のなかでは善悪の基準が反転しているだけなのだ。だから、「人の道をはずれた」娼婦たちに対しては全く同情的ではないし、街に武器を持ち込む流れ者に対しては、自分の過去を見るような思いがして、殴る蹴るの暴行を働く。彼が自分の家を一人で建築する場面は、象徴的だ。ビッグ・ウィスキーに「恐怖」による安全と秩序を持ち込んだ彼のために、手伝いなど申し出るものは誰もいないのだ。

 娼婦たちが、保安官の不当な仕打ちに怒って、なけなしの金を集めて、カウボーイへの復讐を企てる。本当は公正な法の裁き(当時なら鞭打ちや量刑)こそ課せられるべきなのだが、その手だてが望めないために、彼女たちはそういう形でしか義を貫けない。なぜ顔に傷を受けた娼婦個人が復讐を望むのでなく、彼女たち全員が協力するのか。それは、保安官の裁定が、娼婦という職業全体に対する偏見や差別を含む仕打ちのように感受されたからだ。つまり彼女たちの企ては象徴的な意味を持っていた。しかし、娼婦たちがその場の雰囲気に呑まれて、しぶしぶ自分の大事な貯金を差し出したとき、義はもう疑わしいものになってはいないだろうか。
 男たちが彼女たちの体を金で買うように、彼女たちは男たちの力を金で買う。その結果マーニーらによってカウボーイは殺され、目的は達せられた。しかし彼女たちが手にしたのは、望んだものとかけはなれた別のものだと映画はいいたげだ。マーニーが殺された相棒ネッドの復讐のために街に乗り込み、保安官や男たちをいとも冷酷に射殺して立ち去るとき、深い闇の中から、彼女たちが一人、二人と顔を現わすという、聖書を思わせるようなシーンで映画は終わる。



 イーストウッドは、この映画で西部劇を変えたという。そういう言い方に反論もあるようだが、この映画が西部劇にもちこんだのは、過去の罪業とのしがらみの中で、現在の生き方が決定されているような人間の存在のあり方の造形だ。冷静沈着でニヒルなガンマンが、通りすがりの街で、正義の味方のように振る舞って悪人たちを撃ち殺して去ってゆく。この映画もすこし設定をずらせば、そういうパターンを踏襲していることに変わりはない。イーストウッドが付け加えたのは、従来なら描かれないような主人公マーニーの内面の深い葛藤の描写、彼と対決する保安官ダゲットが、残虐な性格で嫌われ者でありながら、「法や秩序の番人」であるという設定などだ。もしマーニーの過去も逡巡も描かれなければ、また保安官が単に無法者のお目こぼしをするような卑劣な人間に描かれていれば、この映画は従来のパターン通りのものになっただろう。
 ビッグ・ウイスキーでは銃の所持は許されておらず、流れ者が銃を所持していると保安官が即刻叩き出してしまうので、一見平安と秩序が保たれている。人々は保安官の残虐ぶりに怯えながら、彼の体現している力の正義を利用して、その存在を許容している。実際の西部開拓時代でも、かっての無法者を保安官に抜擢することが多く行われたから、ビッグ・ウィスキーのような街は沢山あっただろうと思える。そのこと自体を悪だというのはナイーブすぎる。日本の江戸時代でも同じ様なことはいくらもあった。ただそうした力の秩序そのものを美化したり当然のものとしたうえで、多くの「わかりやすくて面白い」物語は作られてきた。

 ダゲットは流れ者には手荒だし、娼婦の顔を傷つけたカウボーイには甘い。しかし罪を許したわけではなく、馬七頭分の賠償金の支払いを命じている。もっともその金は雇い主である娼館の主人に支払われるので、娼婦にとっては泣き寝入り同然の仕打ちということになる。 同業の女性が泥酔した客に顔を傷つけられたが、賠償金は雇い主に支払われて、彼女は切られ損。しかも当の客は即刻自由の身になっている。こういう問題が生じたときに、映画で娼婦たちが求めるのは、彼女に対する金銭的な補償ではなくて、肉体的な償いとしての死である。この要求は過大だし、泥酔して傷を負わせた者が罪を償うために、死刑にならなければならないというのは、いかにも度が過ぎている。しかも、自分たちが小銭を拠出してガンマンへの賞金に当てるというのは、その殺人に同意し、荷担することを意味する共犯行為である。
 娼婦たちは、なぜ、無謀に思えるような行動をとったのか。もし自分が傷を受けた娼婦のような事故に見舞われても、同じことが起きるだろう。金を払って男は自由になるだろう。もし、その賠償金が傷を受けた娼婦自身に届けられたとしても、男が自由に生きるのは変わらないし、そうであれば、同じ事はくりかえされるだろう。なぜ、その男は殺されるべきなのか。彼が無法者だからではないし、傷害行為が死刑に値すると考えているからでもない。彼は、男たちに対するメッセージとして、象徴として殺されるべきなのだ。
 このとき、そんなふうに考えたかどうかは別にして、彼女たちは、男の死を要求することが、泥酔して自分たちを商品として扱う客たちに対して、抑止的に一番効果的なメッセージになると思い至ったとは想像できそうな気がする。そして、その「娼婦たちが、残虐ことをして自由になった客の首に賞金をかけたらしい」という風評は、たしかにあちこちを駆けめぐった。ただ、その後でも、女たちは、実際にカウボーイが殺されなければ、男たちは思い知ることがないと考え続けただろうか。
 メッセージは、「ワイオミングのビッグ・ウィスキーという街で、「泥酔して娼婦の顔を切り刻み、目玉をえぐり出し、乳首を切り取った」カウボーイが、保安官の裁量で、馬7頭分の賠償金を支払うという約束だけで、自由の身になった。怒った娼婦たちはカウボーイを殺した者に1000ドルの賞金を出している。」というかたちで遠方に届く。話に尾鰭がついて、いかにも正しいことのように流布されているが、同時に、彼女たちの本当の狙いは消えてしまっている。つまり、顔を傷つけただけの男でも、娼婦(女)を非人間的に扱うやつは、殺されなければならない、という一番大事なメッセージが。そのために無鉄砲なガンマンなら、いかにも大義名分があって、のりやすい話になっているが、もし実行されても、彼女たちをめぐる事態にはなんの変わりもないようなことになっている。なにがおかしいのか。

 きびしく言えば、みせしめとして男の死が必要だと考えたとき、彼女たちは自分たちの不安な立場ゆえの、怒りや恐怖という感情にとられられていたのだ。実際には、娼婦を買う男たちが誰もサディストや殺人鬼というわけでもないし、泥酔した人間のひきおこす殺傷沙汰は家庭でもどこでも起こりうることだ。そしてそうした事件の法的対処にしても、死刑を持ち出すまでもなく、人間的という範囲で、様々な処罰が妥当な場合もまたあり得ただろう。彼女たちのメッセージが噂のかたちになって、男たちの論理にやすやすと解消されてしまうのは皮肉だが、そうでなかったとしても、みせしめとしての男の死は、たしかに一時的な慰めや安心を彼女たちにもたらすかも知れないが、それで彼女たちを取り囲む職業差別や、女性蔑視が無くなるわけではない。
 映画はこの問題に正面から答えを与えてはいない。娼婦たちの復讐を代行した男が、親友をリンチされて殺されてしまい、さらにその復讐の念にかられて、保安官を含む街の男たちを大量に殺害して去って行くところで映画は終わる。ただ、彼女たちのメッセージと、このラストの大量殺戮の間には、いくつかの偶然が荷担していて、とても厳密な因果性はないが、それでもひとつの太い線がひかれている。それは、手渡されて行く復讐の情念というテーマだ。

 娼婦たちは賞金稼ぎを募ることで、自分たちの復讐の物語の連鎖の中に他人(助太刀)を引き入れる。助太刀は正義の味方のようでいて、実は復讐の連鎖のなかにからめ取られてしまい、あらたな復讐の標的になることを刻印されてしまう。ひとを殺すことは、なぜいけないのか。私たちの行動は多くの場合、理由の妥当性によって秩序だてられている。つまり理由の妥当性が私たちを人間的なものにしていて、無秩序だったり無謀だったりする行動の暴発を抑えている。人を殺すということもそうして抑えられている行動に過ぎない。他人が憎くても、不快で殺したく思っても、私たちはそれを抑制している。復讐の感情は、そうした抑制を解除する。つまり殺人の理由の妥当性を変質させてしまうのだ。復讐の感情のなかでは、行為そのものが要請されるだけだ。そして欲求が果たされると、親しい者を殺された側に、同じ解除のエネルギーが渡される。そして、その思いは、復讐した側の感情の流れをトレースするから、復讐を遂げたものも、相手を殺したことで自分も殺されてしかるべき論理(復讐の感情の力学)を潜在的に生きざるを得ない。親しいものを殺されたから、復讐のために殺した。という彼の正当性は、まったく同じ論理の度合いで、親しいものを殺された側の復讐の論理の正当性として彼に返ってくるのだ。この彼に返ってくる正当性が、マーニーにつきまとう悪夢のように、彼を生きがたくする。つまりは、そうした人々は、かってのマーニーのように、類を逃れ世を捨てて生きるか、ダゲットのように、過去をうち消すために法という別の正当性に過剰にすがって生きるか、あるいは賞金稼ぎややくざや、死の淵から蘇ったマーニーのように、開き直って生きるしかない。
 この連鎖は現在でも多くの人々の関係の背後に潜在的に流れていて、そういう意味では世界が新しくなったことなど一度もないのだ。刻印は娼婦たちひとりひとりに受け渡されてしまった。それがラストの暗い情景の喩になっていて、果たされた筈の娼婦たちの義に深い揺らぎをあたえている。そのことが映画を見る者の表層の義の観念にも、ある種の居住まいの悪さを投げかける、優れた出来映えになっていると思う。

「許されざるもの」(監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド ジーン・ハックマン モーガン・フリーマン リチャード・ハリス フランシス・フィッシャー   92年アメリカ)アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞(ハックマン)、編集賞受賞。
98.2.10
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